第22話 観音様の手

文字数 1,139文字

 2019年3月 岩間山正法寺
 その昔、御本尊は霊験あらたかな桂の木で彫られた千手観音菩薩像であったとされるが、現在は開山された元正天皇の念持仏の千手観音菩薩が祀られている。
 この御本尊は衆生を救うために地獄を駆け巡って戻ってくるから、汗をびっしょり掻いているので「汗かき観音」と言い伝えられている。
 祥子は地獄にまで行って救いの手を差し伸べないで欲しいと異論を唱えながら、胸のつかえを取り除いて貰えるように拝んでいる。
 そして「厄除け観音・雷除け観音」としても名高いことを知り、護摩木に大黒除けを祈願している。
 ご本尊のお参りを終えてから、ご神木の桂の群生を観に行った。
 山間から聳え立っている桂木の群生は、すり鉢状に伸びた條々に斜光を受け、神々しい光を放っていた。
 それはまるでガラス製の大きな盃に光がひたひたに注がれているような、そんな光景が空中に浮いていた。
 霊験あらたかな氣に包まれながら、祥子と敬寿は慈しみ合うように写真を撮り合い和やかなひと時を過ごした。そして帰り際にボケ封じの観音像にお参りをした。

「頭が冴え、夫と共に長生きできますように」

 その時、瞼の裏に見えてくるものがあった、それは猛スピードで草むらを走り抜けていく映像だった。丈の長い草がどんどん開けていく、その先は何があるのかと見続けていたが、開けても、開けても草むらしか見えない。しかしその勢いは勇ましくて、恐れるものは何もなかった。
 祥子は目を開けて観音様を見据え、改めて手記の公表を決意した。
 すると観音様の優しいお顔立ちと、慈しみの瞳と柔らかな手から、ふと輝君の表情と手が重なり見えてきた。
 無性に輝君の手が描きたくなった。
 描くことで汚された手が取り戻せそうな気がしてきたのだ。
 観音像は蓮の花を持っている、輝君の手にも素敵なものを持たせてあげたい。
 輝君の「慈しみの心」を誰かに分け与えることが出来るような、そんな絵が描きたい‥‥‥仏画を習いたい。

 〝そうだ! 輝君に沢山のカーネーションを持たせて、幸子さんにプレゼントしてあげよう″

 ワクワクしてきた、ほら輝君も微笑んでいる。
 憎しみを抱き続けて生きるよりも、輝君の手を描くことの方が楽しい、だから生きなければならない、そして誰よりも幸せにならなければならない、祥子には夢があり未来があるのだ。久しぶりに心に光が差し込んできて明るい気持ちになった。
 すると心臓を締め付けていたものも解けてきて呼吸も楽になってきた。

 飼い猫も隣で丸く寝入るようになってきた。

 しかしまだ心臓の掴まれている感じは残っている、投稿をし終え、出版を果たすまでは続くのかもしれない、もしかすると他の被害者たちの怨嗟の念も託されているのかもしれないと思うのであった。
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登場人物紹介

祥子・・55歳~57歳、温厚な性格の夫と、成人になった二人の子供と猫との4人と1匹の家族、独身の頃は看護師をしていたが結婚退職の後は専業主婦、その後起業した夫の会社で働く、手術を要する病気2回(一つは癌)を乗り越え、仕事と家事の合間に短歌、作文、絵、神社仏閣巡りなどの趣味を嗜む

敬寿・・祥子の夫(59歳~61歳)41歳で起業する、その頃は祥子の看護師復帰を反対するほどワンマンではあったが、祥子が病気になってからは祥子の身を案じ、家事も手伝い、ワンマンさは消える。寡黙でありながら家族から尊敬されている。趣味は釣り、祥子の付き合いで神社仏閣巡りにも行く。

二木輝幸さん・・青年のシルエットが祥子の瞼の裏に現れて訴えかけてくる。その後名前が分かる、祥子は「輝君」と呼んでいる。

大黒仁志(おおぐろひとし)/別名「オオ、ハラ黒ワルシ」・・薬剤師、祥子とはK病院時代からの知り合いであるが、祥子がK病院を退職した同時期に、独立して調剤薬局の経営者となる、今ではS県内に10店舗経営しているが、裏稼業にレイプドラッグ及び強姦映像の販売をしている。悪行を企てている時の目がランランと光りテンションが高い、一見して明るく社交的で饒舌、リーダーシップを発揮するために頼りがいのある人物に見間違えるが、女性を嵌める為の機を窺っていて、巧みに嘘を重ねる。

夏美・・大黒仁志の妻、祥子とは看護学生時代の同級生であり、K病院では同じ病棟で働いたいた同僚でもある。

六林婦人科医・・この物語では過去の人物としてしか登場しないが、六林医師の盗撮がなければ、祥子はワルシに狙われる事はなかった為に重要人物である。

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