1、春の午後は淡くオレンジ-9

文字数 3,587文字

「やあ、郁也。久し振り」
 父はそう日本語で郁也に笑い掛けたが、アクションは向こう風に細い郁也の身体をすっぽりその懐に抱き締めた。通行人が振り返って見る。郁也はくすぐったそうに父の抱擁をその身に受け、
「It's a long time since I saw you last.」
(しばらく会ってなかったね)
と言った。
「ああ、いいよ。君ひとりじゃないんだろう? 今日は日本語で話そう」
 父は優しく笑って、郁也の背後を目で探した。
「で、どれが君の恋人だね」
 郁也は緊張に背筋をきりっと伸ばし、佑輔の腕を取った。
「このひとだよ。瀬川佑輔君。お父さんはびっくりするかも知れないけど、ボクはこのひとを選んだの」
 続いて郁也は佑輔に父を紹介した。
「佑輔クン、これがボクの父。谷口弘人と言います。アメリカで研究職に就いていて、ときたま日本の科学雑誌にも寄稿してるから、知ってるひとは知ってる狭い範囲での有名人だよ」
 父は佑輔を見て数秒固まっていたが、郁也のその紹介に「はは、ひどいな」と笑って頭を掻いた。
「どうも。初めまして。谷口弘人です。この度は郁也がお世話になって」
 弘人はそう言って右手を差し出した。握手の習慣はないが、佑輔は勇気を出して差し出された手を握り返した。
「初めまして。郁也君から聴いてました。宇宙で育つ植物の研究をしてらっしゃるって。世界の未来を切り拓くお仕事だって。お会い出来るのを楽しみにしてました」
「ほう。この子がそんなことを」
 父親冥利に尽きますね、と言って弘人は照れ臭そうに笑った。
 初対面はどうやら和やかに済んだようだ。郁也は胸を撫で下ろして父を部屋へ案内した。

「まだ引っ越し荷物が片付いてないんだ。物につまずいて転ばないでね」
「それは仕様がないでしょう。まだ越してきたばかりなんだから」
 佑輔は弘人の脱いだコートも預かり、三人分を奥の部屋に掛けに行った。
「こっちが南なの。明るいでしょう?」
 郁也が父に説明する。弘人は目を細くして郁也の言葉に頷いている。
「お父さん、さあ座って座って」
 郁也は弘人に座布団を勧めた。佑輔がすかさず茶を淹れた。見事な連携プレイ。
「突然やって来て、済まなかったね。君から貰ったメールを読んで、何だかとっても会いたくなってね。矢も楯も堪らず来てしまったよ」
 弘人はそう言って佑輔の淹れた茶をすすった。
 郁也は父の前にぺたんと座り込んで、肩をすぼめた。
「……がっかりした?」
「何にだい」
「その、ボクが女のコと一緒でなくて」
「あはは」
 父は愉快そうに笑った。
「それはやはり、少しはね。だが、或る程度覚悟は出来ていたさ」
「え? どういうこと」
「淳子さんから、君の小学校での話や、中学受験の話は聞いていたし。ほら、君は可愛い子供だったろう。親の贔屓目だけでなく、客観的に見ても君は可愛いから。そういうこともあるだろうと」
 何しろ淳子さんとそっくりなんだからね。弘人は嬉しそうにまた目を細めた。
 郁也は佑輔と目を見合わせた。「よかったー」とようやくふたりは肩の力を抜いた。
「真面目そうな好青年じゃないか。君、佑輔君と言ったね」
「はい」
「君、本当にウチの子でいいのかい? この子はこの通り見てくれも可愛いし、気持ちも優しいいい子だけれど、君のご両親にはあんまり受けが良くないと思うんだが」
 佑輔は思わず噴き出した。
「あはは、お母さんと同じこと仰いますね、お父さん」
 今、自然と佑輔の口から「お母さん」「お父さん」という言葉が出た。佑輔はそれに自分で気付いてふっと口を押さえた。
(佑輔クン)
 郁也の瞳が思わず潤んだ。弘人はそんなふたりににこにこしながら頷いた。

「お父さん」
 佑輔は居ずまいを正した。
「何かな」
「申し訳ありませんでした」
 佑輔は深々と頭を下げた。郁也が驚いて「佑輔クン?」と肩に触れても、佑輔は顔を上げなかった。
「以前からずっと、一度お会いして、お詫びしたいと思ってました。一昨年、郁也君が学院の二階の窓から落ちて怪我をしたこと。あれは、僕の責任でした。謝って済むことではありませんが、お詫びしなければならないと、ずっと心苦しく思ってました」
 父は無言で佑輔の次の言葉を待った。
「僕はずっと郁也君のことが好きでした。あるときから郁也君と仲良くなって、一緒に過ごす時間が増えて、僕は有頂天でした。でも、郁也君は女のコじゃない。郁也君は本当は僕のこと、どう思っているんだろう……。郁也君は優しい、いいひとです。だから、僕のことを哀れんで、気の毒に思って一緒にいてくれるだけなんじゃないかって、本当は僕といるのが嫌なんじゃないかって。そう思ったら、もう、僕は……」
 佑輔はそこで唇を噛んだ。郁也が鼻をすする。入院していた郁也の枕元で、絞り出すように語られた佑輔の本心。それを聞くのは郁也にとって辛く、そして嬉しいことだった。
「怖くなって、日に日に郁也君の存在が心の中で大きくなって。……僕はもうどうしていいか分からなくなりました。僕の隣で、ときおり辛そうな、悲しそうな横顔を見せる郁也君を前に、僕は自分を責めました。自分のせいで郁也君はあんなに悲しそうな顔をするのではないかと。」
 夕陽が赤く色付いた。狭い部屋の壁に、三人の影が長く伸びる。
「僕は彼の笑った顔が見たかっただけなのに」
 佑輔はそこで声を詰まらせた。震わせた肩で深呼吸して、佑輔は続けた。
「僕が郁也君を悲しませるなら、僕は彼を諦めよう、そう思いました。僕はそのために、たまたま僕を気に入ってくれた女のコを利用しました。女のコと付き合って、普通の男がすることをしよう、そうすれば郁也君を忘れられる。僕が忘れれば彼に迷惑を掛けることもなくなる。郁也君が悲しい思いをすることもなくなると。必死でした。でもその結果は」
 佑輔は再度肩で大きく息を吸った。隣で一緒に涙をこぼしている郁也の頬に指を伸ばして、
「ごめんな、辛いこと思い出させて」
と低く呟いた。

 祐輔は続けた。
「逆でした。僕は知らなかった。郁也君があんなに、僕のことを想っていてくれてたなんて。郁也君の悲しい表情は、いつか僕が本物の女のコに出会ったとき、僕が彼を忘れてしまうと怖れていたからだったなんて。後から聞きました。僕は何て、何て身勝手で、罪深いことをしたのか。郁也君が怖れていた通りのことを、僕はしてしまった」
 郁也は佑輔の名前を呼びながら、何度も首を振った。佑輔クンひとりが悪かったんじゃない、ボクが自分の気持ちを口にしなかったのが悪かったんだ、と泣いた。
 あの頃、郁也は言えなかった。怖くて、悲しくて。自分が女のコの身体に生まれ付かなかったことが、あれほど悲しいと思ったことはなかった。
「僕が女のコと遊んだ次の日、郁也君は教室に現れなかった。彼は僕のいる教室には来られなかった。郁也君は理科室に行きました。そこで」
 祐輔はゴクリと咽を鳴らした。
 弘人は黙って祐輔の次の言葉を待っている。
 佑輔は頬を流れる涙を拭きもせず、肩を震わせて語り続けた。
「そこは、僕と彼が初めて言葉を交わした場所でした。理科室の窓から外を見ていた郁也君と、たまたま外を通り掛かった僕はひとことふたこと話しました。それが最初でした。明るい夏の日。郁也君はそのとき、僕を見たんだそうです。秋の淡い色彩がそこだけ眩しい夏の光に満ちて、僕は郁也君を呼んだんだそうです」
 郁也は目を閉じた。悲しい物語。でも、悲しかったのは、ボクひとりじゃない。

「そうして、郁也君は窓から落ちました。僕が呼んだんです。僕は自分ひとりが諦めれば、全て片が付くと思ってました。でも、そうじゃなかった。郁也君は僕みたいな卑怯者をそんなに好いていてくれた。そのことを聞いたとき、勿体なくて涙が出ました。僕は結局彼を諦めることが出来ずに、彼に赦して貰ったんです」
 そこまで言って、佑輔は大きく鼻をすすった。郁也が手渡したティッシュで頬を拭いた。
「僕は一生、郁也君がもう来るなと言うまで、彼に従いて行く積りです。そのことをお話しする前に、一度お父さんに謝って置きたかったんです」
 佑輔は最後にもう一度深く頭を垂れた。
「悪いのは全て僕でした。大事な息子さんを傷付けて、どうも申し訳ありませんでした」
 郁也の咽がひっくひっくとしゃくり上げていた。佑輔はその声を聞いて、慌てて身体を起こし、郁也の背中をさすった。
「すっかり思い出させちゃったな。ごめん。ごめんな、郁」
 佑輔が申し訳なさそうにそう言うと、郁也は「違うの」と首を振った。
「郁?」
「嬉しくて。佑輔クンの話聞いてたら、ボク」
(佑輔クンは本気で、ずっとボクと一緒にいてくれようとしてる)
 そう思うと次から次から、新しい涙が郁也の頬を伝った。佑輔が何度も郁也の頬を拭う。その様子を、弘人は離れた場所から静かに見守っていた。
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