6、揺れるジョンブリアンの裾-3

文字数 4,252文字

 烏飼とはその後何度も顔を合わせた。
 同じ講義を幾つも取っているのだから仕方がない。会えば軽く挨拶程度は郁也もした。松山も田端も、警戒しつつも黙っていた。郁也が「内緒にして」と頼んだ佑輔が側にいたし、専門に上がればどういう繋がりが出来るか分からない。彼らは郁也が迷惑を被りさえしなければ、何も言うことはない。
 烏飼の方も懲りたのか、郁也に近付いては来なかった。変わらず軽薄そうな笑みを浮かべ、数人の知り合い同士と愉快そうに遣り取りしていた。
 郁也は烏飼の脅威を忘れた。忘れたことにした。
 佑輔が自転車を手に入れてから、ふたりが同じ時間に大学へ向かう日は、佑輔が自転車を押して郁也と並んで歩くときも、後ろの荷台に郁也を乗せて行くときもあった。郁也の身体はまだまだ軽かった。五分程度のふたり乗りは、佑輔にとって負担にもならない。
 余りの幸せに、郁也は油断していたのだと思った。

 佑輔の自転車で構内を横断していると、学食の裏手で佑輔の知り合いたちと出会った。農学部だろう。その日は専門の講義があった。
「あ、瀬川くん。お早う」
「聞いたかい。今日の高岡先生の二コマ、休講だって」
 先に掲示板をチェックしたひとが、知り合いたちに情報を伝達していたらしい。
「なんだ。なら家で掃除でもしてりゃ良かったな」
 佑輔が自転車を止めた。郁也は荷台から降りた。
「あたしたち、その次の時間も講義取ってるから、帰るに帰れないのよ。お茶でもして時間潰そうってことになったんだけど、瀬川君もどう?」
 これから四年間協力し合う学部の友人たちは尊重すべきだ。
「じゃ、ボク行くよ」
 郁也は静かに自分の講義室へ向かおうとした。
「ああ。じゃ三コマで」三コマは「生物学A」、草壁の講義だ。
 郁也は目立たぬように腰の高さで手を振って、佑輔たちから離れた。
 快活な佑輔には順調に友人たちが増えている。郁也は少し淋しいものを感じたが、いつまでも子供じゃあるまいし、そういう下らない嫉妬からは卒業しようと深呼吸した。そのときだった。
「やあ、お早う。カッコいいね、君の彼氏」
 郁也は立ち止まった。烏飼だった。

 烏飼は得意のにやにや笑いで近づいて来た。馴れ馴れしく郁也の肩に肘を載せて、郁也の耳許に小声で言った。
「怖いお友達のこともあるし、君自身には手、出さないからさ。代わりに彼氏一回貸して」
 郁也はその肘を振り払った。無言で烏飼をじっと見て、次の言葉を待った。何か言うとそこからまた墓穴を掘ってしまいそうな気がして、郁也は何も言えなかった。 
「……何だよ。そう怒ることないだろ」
 烏飼は不満そうにした。すっかり春の陽気で、寒がりの郁也でさえコートを脱いだのに、烏飼はまだライダージャケットを身体にぴったりまとわせている。まるで制服ででもあるかのようだ。
「普通の男の反応として、今のは怒るところじゃない?」 
 郁也はやっと口を開いた。烏飼はぷっと噴き出した。
「はは。君ってやっぱり面白いや。君みたいなのと遊び回ったら楽しいだろうな。いや、これは、損得勘定抜きの、単なる俺の感想」
 俺、これでも結構知られてるんだぜ、と烏飼は言った。

 郁也は講義室へ向かって歩き始めた。どうせ次はクラス英語だ。S1の烏飼も同じだろう。向かう先が似たような方向なら、歩きながら話を聞いても無視したことにはならない。烏飼の機嫌を損ねるのは煩わしいが、講義に遅れたくもなかった。
「どんなところで遊んでるの」
 郁也はお義理でそう尋ねた。矢口のように、半ば自分の経営のような店を中心に、夜の街に住む輩もいる。
「大概『The wings of Death』ってクラブにいる。ひと昔前の言葉で言うと『ゴキゲン』な店さ」
「『死神の翼』? 悪趣味だね」
 郁也は眉をひそめた。
「そうそう。君のその英語、それは貴重なんだよな。勿体ない。俺と組めばひと稼ぎ出来るのに」
「英語がどうして関係あるの?」
 郁也はつい足を止めていた。
「ビジネスに、色々とな」
 烏飼は勿体ぶった身振りをした。
「……俺はビジネスマンさ。扱い品目は『青春』だ。俺は青春を商ってるのさ」
「分からない。それ比喩? 当てこすり?」
 郁也は冷たい目で烏飼を見た。興味はないが、烏飼が喋りたいなら、時間まで付き合ってやってもいい。講義の予習はもうやってある。
「青春」と言えば「セックス、ドラッグ、ロックンロール」さ、と烏飼は妙な節を付けて陽気に唄った。
「俺と数人の仲間たちは、街で楽しく遊ぶために、多少の工夫をしている。いざってときに融通を利かせるために、誰かの融通を図ってやったりする。今の時代、みんな多かれ少なかれ淋しいからさ、助け合いが必要なときもあるんだよ」
 烏飼が言うには、その店に集まる淋しいひとに、ひとときの青春を提供する用意があるとのことだ。
「店からは完全にフリーだけどね。外人客が溜まって来るんで、そいつらとのビジネスに英語が必要なんだ。勿論日本人も来るよ。女だって来る普通の店だ」
 長く街で遊んでいると、それなりの人脈が付いて来る。これこれこんな人材を探している、と言われれば、なるべく心当たりを当たって遣るくらいの付き合いは当然だと。
「俺、最初に君を見たとき、オバサマやお姉さま相手にお茶を飲む店に、君を紹介したいと思ったんだよね。丁度『誰かいないか』って言われててさ。それで手っ取り早く仲良くなろうと思って、君を口説くような真似をしたの。君がそっちの方ってのはピンと来たからね。でも君を街で見掛けたことはなかったから、きっと相手に不自由してるだろうと思って。これでも気を利かせた積りなんだぜ」
 郁也は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あはは、怒るなよ。いや、女相手ってのはさ、男なら誰でも出来るように見えて、これがなかなか難しいんだ。男には好みがあるだろ。女は嫉妬深いからさ。客商売ってのは、客は皆同等に扱わなきゃならないのに、好みが邪魔してそのヘン、きっちり出来ないってよく聞くんだ」
 烏飼はわざわざそこを伝聞型にして断った。
「だからさ。もともと女の方じゃなくって、そのキレイな王子さま面が、丁度向いてると思ったんだよ。でも月曜の四コマで君の英語聞いて、そんなまどろっこしいことしなくても、もっとバンバン稼げるな、と気付いたよ」
 バンバン稼ぐのは、ボクなの? それとも君なのかい? 郁也は皮肉にそう聞いて見ようとして、止めた。興味を持ったと誤解されたくなかったからだ。どう聞いてもそれは合法的な商売じゃない。おかしげな労働は真っ平だ。
「ボクがバイトを探したのは、社会勉強のためなんだ。金額はそれに従いて来る程度でいい」
 嘘だ。郁也は続けた。
「君の心遣いには感謝するけど、君の期待には応えられそうにないな」
 でも、話してくれてありがとう。理由が分かってすっきりしたよ。最後に郁也はそう付け足した。それは確かに本当だった。決して言いやすい話じゃないのに。そう言った郁也に、烏飼は驚いた顔をした。
「本気かい。本気で俺に礼を言おうってのか」
「変かな」
「変だな。君、どこかおかしいんじゃないか」
 郁也はくすっと笑った。
「ああ、ボクもう、とっくにおかしいんだ」
 じゃね、と郁也は自分の講義室への廊下を曲がった。
 おかしいさ。
 毎日毎日、幸せ過ぎて、ボクの頭の中はもうとっくにどうにかなってるんだ。
 郁也はパタパタと廊下を急いだ。


「郁也くんの英語って、本当にキレイねえ」
 橋本が感に堪えないと言った体で溜息を吐いた。
 例によって五人揃っての昼食である。
 キャロルの「アリス」を読んで行く講義で、今日は郁也が読みを当てられた。下手をすると講師よりも正しい発音で、郁也はテキストを音読した。
「そお? 父には発音がおかしいって、よく直されたけど」
 郁也はそう言ってうどんをすすった。
「お父さん? 谷口のお父さんって、次のコマの草壁先生の学友だって言ってなかったっけ」と田端。
「うん。そう聞いたよ」
「何で英語?」
 郁也はアメリカに住む父が母に課したルールについて話した。
「まあ、ボクは母のとばっちりだね」
「いいよなあ。『とばっちり』なんて言ってるけど、今にそれ感謝する日がきっと来るぜ」
と松山が野菜炒めをつつきながら言った。
「松山君、そろそろ学食メシにも飽きてきたんじゃない?」
「まあな」
 郁也が見たところ、箸は余り進んでいない。

「松山君は留学希望なのかい」
 田端が尋ねる。
「特殊メイクっつったら、先ずはアメリカだからな」
「『特殊メイク』?」
 橋本がくりっと目を松山に向けた。
 松山が、入学式の下見で郁也と佑輔に語った話を橋本に聞かせた。
「へえ。凄いんだあ」
「凄かねえよ。ま、今の俺の漠然とした希望っつーことで、この先変わるかも知れねーしな」
 松山は野菜炒めを行儀悪く箸で掴んで選り分けては置き、選り分けては置きを繰り返す。郁也は眉をひそめた。
「あーあ。行儀悪いなあ。そんなに嫌なら、日に二食も三食もここへ来なければいいじゃない」
「いかな俺でも日に三食は来てないぞ」
 松山の隣で田端がくすっと笑った。
「何だよ、田端。お前は自炊してんのかよ」
「ああ。本見たりしてな。やって見ると面白いもんだ」
 橋本がその会話を余裕の笑顔で聞いている。橋本は学生下宿で食事付きだ。
「そうだよ、松山くん。今どき男のコだって、炊事のひとつも出来ないとモテないかもよ」
「む」
 松山の表情がきりっと締まる。その反応がおかしいと橋本はまた笑って、「郁也くんは?」と向かいを見た。
「まあ、一応ね。ウチの母は何かと忙しいひとだったから、自分で自分のご飯作るのしょっちゅうだったし」
「へえ。いいねえ。得意な料理は何かある?」
「得意、ねえ」
 郁也は考えた。
「分からないな。普通のおかずだよ、ボクの作るの。煮物とか、お浸しとかそういうの」
 佑輔と住むようになって、カツだとか、唐揚げだとか、そういうハイカロリーな肉料理というか油ものを作るようになった。佑輔はどれも嬉しそうに食べてくれるが、肉体労働もしているし、そういったものをより喜ぶような感じもする。
「いいなあ。家庭の味だねえ」
 田端が羨ましそうな顔をした。「だって、そういうのが一番簡単なんだ」と郁也は弁解するように言った。
 橋本は最後に「瀬川くんは?」と佑輔に話を振った。
「松山と同じだな」
「瀬川くんも日に何度も学食派?」
「というよりも、これから覚えます派」
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