1、春の午後は淡くオレンジ-5

文字数 2,815文字

 より強い、より深い快楽を。
 郁也が佑輔をそこへ誘導するのには、ひとつの切ない計算があった。
 もうすぐ大学が始まる。
 新しい世界がふたりの前に開けようとしていた。
 希望に満ちた新生活。それは郁也にとっては新しい、そして本格的な恐怖の毎日だ。

 ふたつの性別のうちの片方しか存在しない、偏った世界。ふたりはこれまでそうした中にいた。その中では、成る程郁也は美しく、愛らしかった。
 クラスメートは郁也をちやほやし、佑輔はその様子にいつもはらはらしていた。郁也が登校すると、机の中に手紙が入っていることも珍しくなかった。
 一時の熱病のような彼らの気持ちに郁也は応える気はなかったが、佑輔が荒れると困るので、郁也はそれらを見つからないように鞄にしまうのがひと苦労だった。
 いびつな、病んだ世界。
 だが、佑輔に恋する郁也にとって、それはこの上なく都合のいい世界であった。
 郁也を甘やかす微温湯(ぬるまゆ)から、ふたりはこの春卒業した。
 外界の人口比より幾らか傾斜は付いているが、大学には女性が存在する。郁也は傾斜がある分理系でよかったと思った。
 これからは本物の女のコが、毎日佑輔の周囲に存在する。ふっくらとした優しい曲線が。高い声。本物のヴァギナ。
 郁也を脅かす、美しい生きものたち。
 そうしたものに佑輔の関心が逸れないように、郁也は佑輔を溺れさせようとしていた。郁也を甘やかす微温湯から出た代わりに、今度は郁也が佑輔を甘やかす微温湯になろうと決めた。
 これからずっと。
 遠い、遠い未来まで。
 郁也はもう、佑輔を失うことは出来ない。


「ボク、学校が始まる前に買い物に行きたい」
「買い物なら、毎日してるだろ」
「うーん、そうじゃなくて」
 越して来て数日で、ガランとした部屋はそれなりにひとの住む空間の様相を呈しつつあった。電話ボックスで電話帳を見て向かった古道具屋。ふたりはそこで食器棚と冷蔵庫と少々の食器を買い、ホームセンターで最低限の鍋釜と洋服掛けとこたつを買った。
 こたつは年中テーブルとして使う。四月とは言えまだまだ寒く、暖房器具としては不足で、結局佑輔の母から使っていないファンヒーターを送って貰って凌ぐことにした。
 電器屋を覗いたが、洗濯機は高くてすぐには手が出なかった。ふたりで両手に洗濯物を抱え、コインランドリーに行って見た。他の客がいなかったので、ふたりでべたべたしながら出来上がるのを待てたが、夜遅くに自分ひとりでは来たくない空間だと郁也は思った。身の危険を感じる。
「何買いたいの?」
「淳子サンがね。用途指定で予算くれて。たまにはキレイにしなさいって」
 郁也の母淳子は、春から恋人と一緒に住む娘を気遣うように、生活費とは別に二万、郁也に予算を言い渡した。
 報告はレシート添付か口頭で。期限内に八割以上を消化。出来なかった場合はそれ相応の理由を説明せよとの指示であった。一緒に住んでいても、たまにはキレイな姿を見せて、郁也が本当はこんな器量よしであることを忘れさせないように、との親心ででもあろうか。
 郁也は困ったように顔を赤らめて、服と、化粧品を少し買いたい、と佑輔に言った。
 郁也が頬を染めると、佑輔はもう何も言えなくなる。佑輔は郁也を見つめたまま無言で頷いた。
 

 キレイな格好するの、久し振り!
 郁也は以前従姉の真志穂に教えて貰った手順で顔を作り、髪を整えて、オレンジ色のシャツドレスを身に付けた。
 オレンジに紺と白のチェック地で、共布のベルトがローウエストに付いている。夏向きのそれはそのままでは寒いので、カーディガンと脚は紺のレギンスで保温して、仕上げに紺の軽いコートを羽織る。しばらく振りのデートなので、唇は多めのグロスでつやつやにした。
 出来上がった鏡の中の女のコに、郁也はふうっと溜息を吐いた。
(うん。まだまだいけるよね)
 一年、また一年と、郁也の身体は成長してゆく。こうした扮装を難なくこなせる時間は、あと何年残っているだろう。
 暗い気持ちが帰って来そうになるのを振り払って、郁也は白いパンプスを履いた。
「ボク、変じゃないかな」
 地下鉄に乗る前に、郁也はこっそり佑輔に確認した。
「変じゃないよ」
 可愛いよ、と佑輔は鼻の頭を掻きながら言った。
(佑輔クンの言うことは、当てにならないからな)
 だって、どんな格好でもそれがボクなら、「可愛い」って思うに決まっているもの。
 郁也は唇を尖らせた。

 何て幸せな春の一日。
 都心部のデパートはそこそこの人出で、郁也たちが見て回るのに丁度よかった。慌ただしくもなく、目立ちもせず。
 女物の売り場に足を踏み入れるのは初めてであろう佑輔を気遣って、郁也は「こういうとこ、嫌じゃない? 何なら違うとこ見てる?」と訊いて見た。
「ちょっと緊張するな。でもいいよ。一緒にいる」
「そう?」
 無理しないで。郁也はそう付け足した。
 踵のある靴を履くと郁也の背は更に高くなり、女のコでないことがバレやしないかと郁也はひやひやした。せめてモデル並の容姿を誇ろうと、堂々と歩くように腐心した。
(ボクがおかしかったら、佑輔クンが恥かいちゃうもんね)
 十代の女のコが着そうな洋服の売り場を、ふたりはそうっと覗いて見た。

 何だかどれもきらきらして、郁也にはよく分からなかった。
「いざ自分で選ぼうとしても、よく分からないや。今まで全部まほちゃんセレクトだったから」
「今着てる服は?」
「うん。これも」
 覚えてる、佑輔クン? 郁也は佑輔の表情をちらっと見た。佑輔は下を向いた。
「覚えてるよ。初めて一緒に外歩いたときに着てたヤツだろ」
 服に興味はないけど、あのときの郁の姿は何度も思い返したから、覚えてる。佑輔はぶっきらぼうにそう言って、ぷいっとそっぽを向いた。
「そう」
 郁也は笑って佑輔の手に自分の手を滑り込ませた。この姿なら、佑輔と手を繋いで街を歩ける。
「もう、降りよう」
 郁也は佑輔の手を引っ張って、下りのエスカレーターに乗った。
「服、買わなくていいのか」
「今度、まほちゃんに一緒に来て貰う。今日は、佑輔クンとデートしただけでもういいよ」
 郁也は嬉しそうに笑って見せた。
 佑輔は言った。「あのときの郁の姿は何度も思い返したから」と。初めて外でデートして、初めてキスしたあの夏の日。
(覚えててくれたんだ)
 郁也は泣きそうになって佑輔の手を握り締めた。佑輔は何も言わずに郁也の手を握り返した。   
 こうして、指と指とを絡ませて、寄り添うように昼間のデパートを歩いている。これも郁也にとってはひとつの奇跡だ。
 折角だからと郁也は一階の化粧品売り場で、口紅を一本買って見た。ひと前で声を出せない郁也の代わりに、店員さんに「これ」と言って佑輔が会計をしてくれた。優しそうな店員さんが、ふたりを微笑ましいものを見る目で見送ってくれた。
 毎日この姿で佑輔の前に立つというのは、どんな気持ちがするものだろう。
 郁也は。
 そして佑輔は。
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