6、揺れるジョンブリアンの裾-5

文字数 4,112文字

「松山君って、優しいね」
 松山が帰った後、郁也はそう佑輔に言った。
「佑輔クンの友達は、みんなボクにも親切にしてくれる。ありがたいよ」
 きっと佑輔クンがみんなを大事にしてるからだ、佑輔クンのお蔭だよね。郁也はそう言って笑った。佑輔はそれには答えず、郁也に尋ねた。
「郁、さっきみたいな甘いもの、好きだったのか」
「え? ああ、うん。それなりに」
「そっか。知らなかったな」
 何だか淋しそうな佑輔の肩に、郁也の胸はきゅっと鳴った。
「ボクたち、駆け足で仲良くなって、その後はずっと受験生だったもんね。だからそういう、外堀を埋めていくような、互いの考えや好みを少しづつリサーチしていくような期間、なかったから」
 郁也は佑輔の骨張った手を取った。郁也の大好きな、力強い佑輔の手。
「ボクは気が付くともう佑輔クンのことがすっごく好きになってて、そんな悠長なことしてる余裕がなかったよ。でも、ボクはそれがとっても幸せだった」
「うん」
 佑輔は郁也の指をぐっと握り返した。温かくって、気持ちよくって、郁也はその感触にぽーっとなる。
「これから、少しづつお互いのことを知って行こう。ボクも佑輔クンのこと、沢山知りたい。それでいいじゃない。ボクたち、これからずうっと、一緒にいられるんでしょ?」
 郁也は首を傾げて佑輔の顔を覗き込んだ。佑輔は掴んだ郁也の手を強く引き、倒れ込んだ郁也の身体を受け止めた。郁也は一瞬息を止めたが、佑輔の胸の中にすっぽり収まって、その心地よさに深く息を吐いた。
「郁」 
「ん?」
「郁って、凄くキレイだ」
「ええ?」
「さっき松山も言ってたけど、顔がキレイってんじゃなくて……何て言うんだろう。郁の言葉、郁の動き、郁の表情、そんなものがみんな、凄くキレイで」
 佑輔は郁也の頬を両手で挟み、その目をじっと見つめた。
「俺には郁が、天使に見えるよ」
 郁が俺に笑い掛けてくれる。その笑顔を見たら、何だってやってやるって気持ちになる。何でも出来そうな気がするんだ。
「佑輔クン……」
 そしてふたりに甘やかな夜が訪れる。互いのための互いであることを確かめ合い、安らかな眠りに落ちる密やかな夜が。
 佑輔クン、ボク、男のコでよかったのかな。
 男のコでなかったら、いじめられなくて、東栄学院に入ることもなくて、佑輔クンとも出会わなかったよね。
(そうだよ。前にもそう、言ったろ)
 天使には、男も女もないんだから。佑輔はそう郁也の耳許に囁いた。
(佑輔クン……)
 温かな佑輔の胸に抱かれて、郁也はゆっくりと瞳を閉じた。 


 佑輔はもう一軒バイトを見付けて来た。
「ええっ、どうして!」
 流石に郁也も声を荒げた。
「そんなに働いてどうしようって言うの。昼間は昼間で、佑輔クン講義目一杯入れてるでしょう? 身体持つと思うの? 大学生活は四年間もあるんだよ。そんなことしてたら続かなくなっちゃうよ」
 佑輔はにっこり笑ったまま言った。
「大丈夫だよ。ちょっとやって見るだけだから」
「ちょっとやって見るって……」
 郁也は絶句した。
 どうしてそんなに金が要るのか。佑輔は理由を言わない。
「もしかして、ボクの気付いてないところで、本当はもっとお金が掛かってるんじゃないの? ボク、世間知らずのお坊ちゃまだから、知らないところで佑輔クンに一杯一杯、心配させてるんじゃない?」
 ねえ、話してよ。郁也は泣けて来た。
「郁……」
 佑輔は郁也の頭に手を置いた。郁也は首を横に振って、その手を振り払った。
「どうして言ってくれないの。ボクじゃあ、佑輔クンの力にもなれない?」
 お金なんて。もし本当に要るのなら、淳子サンに頼んで出して貰う。佑輔の男のコのプライドを尊重して耐えて来たが、佑輔がそんな無理をするなら郁也にも考えがあった。だが。
 郁也は鼻をすすり、拳で頬を擦った。
「……どんなバイトさ」
「居酒屋の厨房。皿洗いと簡単な調理補助だって。運送屋のバイトの入ってない、水曜と金曜の週二回。時間も短くて六時から十時」
 十時から二時って枠の方が時給高いんだけど、翌日に差し障るからな、と佑輔は頭を掻いた。
「本当は運送屋も、俺が上がる十時以降はもっと時給が高いんだ。でも、バイトメインのフリーターのひとたちと違って、俺は昼間大学があるし」
 時給を犠牲にしても身体の負担を減らしていると佑輔は強調した。郁也は項垂れた。
「じゃあ、これから佑輔クンとゆっくりご飯食べられるのは、火曜と土日だけなんだね」
「郁……」
 それを言われると弱いのか、佑輔も切なげな声になった。
 いいよ。分かった。佑輔クンが決めたことなら。
 でも。どうしてそんなにお金が要るのか、とうとうボクに言ってくれなかったね。
 郁也は悲しかった。
 佑輔の隠すその理由。
「隠し事はなしにしよう」
 そう強制して白状させる権利は郁也にはなかった。
 それがあるのは「家族」だけだ。
 郁也は佑輔の同居人に過ぎない。相愛の恋人同士だと信じてはいるが、それは法的に何の権利も保障しない。淋しい関係だと郁也は思った。
 母、淳子の言ったいつかの言葉が鮮明に思い出された。
(いざとなったら結婚しちゃいなさい)
結婚――。
 淳子は「これと言った意味のない制度だけど、それなりの意味があるときもある」と言った。そして淳子は弘人と結婚している。事実婚ではなく、正式に届けを出して。離れて暮らす長い年月を共に渡って行くために、その制度に意味はあったのだろう。
(ああ、こういうことだったんだ……)
 佑輔に対して何かをする権利。この世界で家族だけに許される特権。それを郁也が得ることはない。社会にその所有者として正式に認められることは郁也にはない。
 少なくとも、この身体のままでは。
 郁也はこっそり風呂場で、泣いた。


 佑輔はみるみる痩せていった。
 週にたった二回入れただけの居酒屋のバイトだったが、繁盛店らしく当初の話の通り十時に上がれることはないようだった。その分手当は出ているのか、賄いがあるのかどうかも郁也にはよく分からなかった。疲れ切って帰る佑輔は、その日によって食べたり食べなかったりしたからだ。しかも急遽休む他のメンバーの穴埋めなど真っ先に手を上げるようで、週に二回だった筈が三回になり、四回になり、土日は「玉ねぎ」の後真っ直ぐそちらへ向かうことすらあった。
 佑輔は朝すっきり起きず、朝食も進まなくなった。そんな佑輔につられて、郁也も食が進まない。
 郁也は心配で心配で、バイトを全て、今日にも辞めて欲しかった。
 だが、金が要る理由を佑輔が言わない限り、郁也には佑輔を止めることが出来なかった。
「ねえ、本当は、月に幾ら要るの」
 郁也はそう何度か訊いて見た。その度に佑輔は笑って、「ああ、別に幾らっていうのじゃないけど、どのくらい稼げるのか、ちょっと試しにやって見たくって」とはぐらかした。「大丈夫だよ。まずいなと思ったら、すぐ止めるから」と佑輔は必ず郁也に言った。それさえ言って置けば郁也の追及をかわせるとでも言うように。
 郁也の目にはもうとっくに、大丈夫なように見えていない。

 淳子から電話が来た。
(郁也、あなた、ちゃんと食べてるの? カードの明細見たわよ。全然使ってないじゃない。佑くんにも食べさせてる? 佑くんはあなたとは身体の造りが違うんだから、ずっと余計に食べものが要るのよ) 
 郁也が「ああ、社会勉強を兼ねて、ちょっとバイトして見たんだ。少しお金が入ったから」と答えると、淳子は更に郁也を叱った。
「食費が賄える程バイトしてどうするの。いい? あなたはね、将来に備えてお勉強する必要があるのと同時に、佑くんの前でにっこり笑ってなくちゃならないのよ。どんなにあなたが器量よしでも、時間や金銭にあくせくして引き攣った顔をしていたら、千年の恋も冷めてしまうわよ」
 郁也はしゅんと萎れた。
「分かったよ、お母さん。もっと高価いものでも買って見る。そうして引き落とし額を膨らませる。そうすれば沢山食べたように見えるよね」
「またそんなへ理屈を。どうしてそうなの、あなたって」
「しょうがないじゃない。性格だもの」
「もう。言い出したら頑固なんだから。そんなところ、弘人さんにそっくり」
「親子だもん」
「そうね。だからあたし、あなたのそんなところ、大好きよ」
 とにかく、ちゃんと食べること。そうでないと、サプライズ訪問しちゃうから。淳子はそう言って通話を切った。
(お母さん……)
 母には相談出来なかった。どうしても言い出せなかった。ふたりの生活を谷口家の援助なしに維持するために、佑輔が身を粉にして働き始めたことを。そして、もしかして。
 それがふたりの生活以外のためかも知れないことを。

 いつしか郁也は疑い始めていた。
 どう考えても、郁也と佑輔のふたりの暮らしに、そんなに多額の金銭が必要とは思えなかった。幾ら自分がおっとり呑気な性質で、金に困ったことがなく、当座の生活全体を把握出来ていない可能性があるにしても。
 まとまった金の要る理由。
 世間的に、郁也が知っているのは、女。賭け事。酒。服装。旅行。引っ越し。病気。趣味。
 佑輔に当てはまる心当たりはない筈だった。
(佑輔……クン……?)
 女。
 引っ越し。
 もしかして、佑輔は。
 郁也から遠く逃げ出す算段をしている……?
 遅くに帰って来る佑輔は、疲れ切って郁也に触れない日もある。それが淋しいだけでなく、郁也に余計な妄想を抱かせた。
 下らない妄想を。
 自分は、佑輔を信じている。だって、あんなに幸せな瞬間をくれたひとだ。
 郁也はそれが愚にも付かない妄想だと知っている。佑輔を愛する余りに空回りする結果だと。そう、一〇〇%知っている。それが。
 郁也が佑輔を心配する度、その空回りが一〇〇%をぐらぐら煮詰めて、いつの間にかそれを目減りさせて行く。一〇〇が九九になり、九八になり。
 その差の分だけ、郁也は妄想を否定出来なくなって行く。
 それでも。佑輔の前では、郁也は笑っていなくてはならない。
 佑輔の好きな、天使の笑顔で。
 だが、こんなとき、佑輔に見せまいと向こうを向いた悲しい顔を、佑輔は見付けてしまうのだ。どうしたらいい。どうしたら。
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