4、ローズマダーのクッション-1

文字数 3,062文字

 入学式から一週間が経った。
 大学の講義の仕組みにも慣れ、単位の取得法も大体理解した。
 橋本が持ち込んだ「楽勝講義一覧」は大変役に立った。郁也たちは特段熱意のある学生ではなかったからだ。
 ラク出来ることは成る丈ラクをした方がいい。
 郁也は時間割を見返した。一年次に必要な単位には少し余裕を残して取れている。幾つか途中で落としても、来年以降に差し障らない数の講義にエントリーした。学部の異なる佑輔とも、思ったより多く一緒の講義を取ることが出来た。
 並んで講義室に座る。学院ではクラスは同じでも、ずっと離れた席だったし、ふたりが付き合っていることは公式には秘密だったから、学院内でふたりで並ぶことはなかった。教養の単位を稼ぐ今年一年間にのみ許された、貴重な時間だ。
 同じ講義を取るものはその他の講義も重なるようで、名前は知らないまでも徐々に見知った顔が増えて来た。郁也にひとを怖れる理由がなくなり、ひとの視線を避ける必要がなくなった今、郁也は度々顔を合わせる学生たちと会釈をしたりするようになっていた。普通の、当然のことであっても、郁也にとってはこれは大きな変化だった。
 佑輔と、彼の友人たちとの交流が、郁也を再びこの世界に繋ぎ止めてくれたのだ。

 郁也は自分の時間割の空き時間を確かめた。講義が早く終わる日、まとめて数時間空く処。そこに何かバイトを入れて見る積りだ。佑輔だけに働かせるのは忍びない。
 佑輔は土日の「玉ねぎ」のほかに、週に二回運送会社のバイトを探して来た。遅い講義のない日の、夕方五時から十時まで、運送会社の倉庫で集められた宅配便を行き先毎に仕分けするのだ。どうして肉体労働ばかり選ぶのかと郁也が尋ねても、佑輔は笑って答えなかった。
 佑輔がそんなに頑張る気なら、せめて郁也は大食漢の佑輔の身体を養う献立を用意して遣りたくなった。そうなるとあまり拘束時間の長いバイトは入れられない。自分の身体がそうタフでないことも分かっている。短時間で効率よく稼げるバイト。家庭教師など理想的だ。

 そんなことを考えていた郁也の許に、橋本が元気よく駆け寄って来た。
「郁也くん、何してるの」
 橋本は結局郁也のことを、真志穂に勧められたように「いくちゃん」とは呼べなかったらしく、名前にただ「くん」を付けて呼んで見たようだ。
「ん、バイト入れようと思って、時間割を整理してた」
「ああ、バイトね」
 橋本は軽く何度か頷いた。
「かおりちゃんはしないの」
「うん。もうちょっと落ち着いたら考える。今は学校と、サークルのことで精一杯」
 あたし、バドミントン続けようと思ってサークル入ったんだ、と橋本は言った。
「かおりちゃん、アクティブだねえ」
「郁也くんは、何かスポーツしないの」
「ああ、ボク、身体動かすの興味ない」
「ふーん。そうなんだあ」
(だって、筋肉付いちゃうもん)
 郁也のその心の声はちょっと口には出来ない。郁也はふふっと笑った。
「何?」
 橋本は不思議そうに目を大きく見開いた。
「ボクのこと『郁也くん』って呼ぶひと、初めてだなと思って」
 誰にもそう呼ばれたことなかったんだ、と郁也が笑うと、橋本はパッと赤くなって下を向いた。

 S2(理学部の第二クラス)の郁也、松山、橋本、田端に佑輔も加わって、空き時間や講義の前後、いつも学食の同じ辺りを控え室のように利用するようになった。誰がいてもいなくても、お喋りしたり講義の準備をしたり、時間割を確認したり。
 今日も郁也は二コマ目の講義までの空き時間をそこで過ごしていた。月曜の一コマ目。いずれ辛くなる日が来るだろうと思い、郁也はそこを空きにして置いた。
 朝の得意な佑輔には一コマ目に専門の講義が入っていた。「微生物学何とやら」で、高等部時代生物を取っていなかった佑輔は、キンチョーの面持ちで向かって行った。郁也は取り敢えず佑輔と一緒に大学に来て、そして学食で時間を潰していたという訳だ。
「昨日は楽しかったね」
 橋本は郁也の向かいで自分も時間割を拡げた。
「そう? よかった。みんな女のコに慣れてなくて、変じゃなかった?」
「そんなことないない。却ってあたしみたいな子供っぽいの、お邪魔じゃなかったかなと思って」
「何言ってるのさ。君なんかお姫さまだったじゃない」
 郁也は肘を突いて橋本に笑い掛けた。昨夜は橋本のせいで郁也はお姫さまの格好で出向けなかった。その代わり、真志穂と自分の小さな世界に、新しい仲間が増えた気がした。郁也はわくわくしていた。
「君さえこりごりでなかったら、あんな風にまた遊ぼ。それにまほちゃんも、君の全身をコーディネイトしたがってる」
 もっとキレイなお姫さまになれるよ。
「本当? また誘ってくれるの」
「ああ、勿論。だってボクら、もう『お友達』でしょ。松山君も田端君も、瀬川君も」
 郁也はそう言って時間割をひらひらと持ち上げた。そういう契約だった。

「特にボクは地元の公立の小学校ではいじめられて、友達どころじゃなかったから、女のコの友だちって、生まれて初めてなんだ」
 郁也は正直にそう言った。
「『いじめ』……?」
「うん。ひどかった」
 郁也は解決済みの事案を報告するように冷静に答えることが出来た。もう、郁也の中では遠い過去だった。
「……そうなんだ」
 橋本は郁也の前で複雑な表情をした。出身校の話になったとき、橋本は高校に上がって人間関係から解放されてから勉強が面白くなって、と言っていた。きっと彼女にも何か言ってスッキリしたいことがあるのだろう。
 だが、ひとに話すのは或る程度自分の中で消化が進んでからのことだ。今無理することはない。郁也は橋本にそう伝えたかったが、何と言ってよいか分からなかった。郁也が考えあぐねていると、田端がやって来た。
「お早う。早いね」
「あ、田端くん」
 橋本は田端と昨夜行った二次会の話になった。行った先はどうやらカラオケボックスで、何だかおかしな盛り上がりをしたようだ。
(へえ、まほちゃんがこのひとたちとカラオケねえ)
 自分も変わって行くが、真志穂も変わって行く。自分の生まれ付きを悲観してくよくよしてばかりだった郁也。高校時代に女のコ同士の軋轢で傷んだ心を修復出来ずに引きこもっていた真志穂。真志穂の部屋でふたりで過ごした秘密の時間は、郁也だけでなく、真志穂の悲しい心をも癒していたのだろうか。何にせよ、苦しくなくなって行くことはいいことだ。こうして郁也たちは、健やかに大人になって行くのなら。

「君も来ればよかったのに」
 田端がそこにいなかった郁也を気遣って言った。郁也は笑って「そうだね」と答えた。その一瞬、言葉にならない無言の会話が田端と郁也の間にあった。ちらっと交わされた視線が、暗号通信のように圧縮された言葉をふたりの間で伝えた。それは橋本には感知されない性質のものだ。その一瞬の後、郁也は睫毛を伏せた。田端は無理に笑顔を作って、橋本に明るい話題を振ろうとした。
 田端なら、もう分かっている筈だ。
 郁也が誰の気持ちにも応えられなかったその理由を。
 もう知っているに違いない。今更隠したりなどしないさ。
 郁也はそう胸を張ろうとした。
 自分の心も身体も、これ以上誰に分け与える余地もないことを、郁也はもう後ろめたく思ったりしない。寧ろそれは、誇るべきことだ。
 だが視界の端に田端の苦しそうな笑顔を見たとき、郁也はいびつな罪悪感のようなものを、心のどこかで僅かに感じた。それは苦い中に仄かに甘さを伴うもので、郁也はその甘さを感じないように自らの感覚をきつく戒めた。
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