3、サファイアブルーの水槽-4

文字数 2,658文字

 郁也の隣に座った真志穂が、小さな声で「凄いお店だね」と言った。
「うん。まりちゃんの結婚式の二次会やったお店より、全然広いね」
「ああ。比べものになんないわ。あの規模の倍はあるんじゃない」
 真梨恵の結婚式は、一次会で四百人だったから、などと真志穂は指を折って計算し始める。郁也は溜息を吐いた。
「まりちゃん、キレイだったねえ」
「そうかあ?」
「うん。まりちゃんの切れ長な目が良く映えて、和装もいいなってボク初めて思った」
 真志穂の三つ年上の真梨恵は、今年の二月に挙式した。愛想はないが真面目そうなダンナさんで、普段身内のものには笑顔を見せない真梨恵が、この日は頬をうっすら染めて、はにかんだように笑っていた。
 真志穂のようには郁也を構ってくれなかった従姉だが、郁也はこの日「おめでとう」を心から言った。
 おめでとう、お幸せに。何て素敵な言葉だろう。

 矢口が厨房から山のような料理を持って来させた。
「さあみんな、食ってくれ。この店は、流行ってはいないが料理は旨いんだ」
 矢口は上機嫌だった。何でもこの店は矢口の父の所有で、以前ここに入っていたテナントが出た後を居抜きでそのままやっているとのことだ。そう言えばこのビルの入り口には「矢口ビル」と書かれていたような気が郁也にはした。
「いいだけ傾いた店をポンと寄越して、やれ黒字じゃないだの、売上が少ないだのとケチをつけるんだ。料理人はいい腕のを捕まえてあるからさ、適当に売上してそのうち業態転換しちゃおうと思って。それまでは、オヤジの金でせいぜい呑み食いしてやるさ。俺がこっちに住んでから、オヤジは自分の店で好きなだけ食べていいって言ってるから」
「何、お前が経営任されてんの」と松山。
「いや、あっちが店長。俺はそれを手助けしろって。どうせ勉強もせずヒマだろうからとさ」
 郁也は覚えていないが、松山が真志穂にメイクを習ったときに矢口が出した車の、運転手をしていたひとらしい。矢口の大学生活は、それなりのスリルに満ちた充実したもののようだ。楽しくやっていくのだろう。

「谷口くんって、すっごくお洒落だね」
 振り向くと橋本が側に来ていた。待ち合わせ場所では分からなかったが、彼女は入学式に着ていたソフトイエローのスーツに、白いインナーを合わせていた。郁也は安堵したようにソファに身を凭せた。
「よかったあ。いつもの小学生みたいな服着てたら、どうしようかと思った」
「なっ、何を」
「今日はスカーフしてないの」
 郁也は笑って橋本の胸許を指差した。橋本はちょっと赤くなってスーツの襟に手をやった。しばらくそうしてむくれていたが、すっと手を下ろして郁也に向き直った。
「あのときは、どうもありがとう」
「いくちゃん、何かしたの?」
 真志穂が尋ねてきた。いい傾向だ。
「入学式の日、このひとがスカーフ飛ばして困ってて」
「あ、あたし不器用で、もう結べなくって、それで」
「見るに見かねてボク結んで上げたの」
「へえ、いくちゃんがあ」
 真志穂は感心したように首を振った。
「いくちゃん結構、器用なことあるもんね」
 真志穂はそう言って笑った。

「谷口くんのイトコのお姉さんなんですか?」
 橋本は真志穂にも興味を示した。
「そう。このコの父親の、妹の子があたし」
 そう言って真志穂は飲みもののお代わりを頼んだ。郁也と橋本のグラスも確認して。
「だから顔はこの通り似てないの。このコは母親に瓜二つだから」
「へえ、じゃあ、おキレイなお母さまなんですねえ」
 そう橋本が感心する。
「あなたもキレイだよ。ちょっと磨けばピカピカだね」
「そうそう。このひとセンスいいからね。ちょっと教えて貰うといいよ」
「ええ、そんなあ」
 橋本は満更でもなさそうだ。
「でも、谷口くんもセンスいいじゃない」
「ボク?」
「うん、そう。そのシャツ、いいよね」
「そう?」
「着崩したような感じがとってもお洒落」
 橋本は郁也の着ているものを指差した。郁也の今日の服装は、春物のブラウスとスカート……ではなく、いたって普通の面白味のないものだ。
 黒のカットソーの上に深いグリーン系のチェックのシャツ、下はチャコールグレイの細身のパンツだ。カットソーもパンツも身体の線に沿ったタイトなシルエットだが、シャツは郁也の身体よりワンサイズかツーサイズ大きなものをだぶだぶに羽織った感じ。二回折って捲り上げた袖からは、郁也の細い手首が突き出ていた。
「そういう感じにするために、故意とサイズの合わないシャツを買うの?」
 橋本はきらきら光る素直な瞳で、郁也にそう尋ねた。
「さあ、どうだったかな」
 郁也はうっすら笑ってグラスを傾けた。
「ねえ、いくちゃん。このコ、ちょっと借りていい?」
 真志穂が悪戯を思い付いた子供のような顔で舌なめずりをしていた。郁也は「どうぞ」と橋本の身体をにゅっと真志穂の前に押し出した。「きゃっ」と叫んだ橋本を、真志穂は有無を言わさず窓際の席へ連れて行った。
「谷口くーん」
 助けを求めるように郁也を振り返る橋本に、郁也はその場でひらひらと手を振って見せた。
「存分に弄ばれておいで」
 真志穂は黒地の四角いケースを手に提げていた。メイク道具を入れたものだ。橋本もここらでそうしたことを覚えてもいいだろう。


「そ……か。H大の理学部にしたんだ」
 矢口が静かに田端に言った。田端は真面目そうな目を細めて矢口に答えた。
「ああ。色々考えたんだけど。ウチの親ももう歳だし、何かあったとき、すぐ帰って来られるとこがいいかな、と思って」
 何かと安心だろう。そう田端は付け足した。
「そうだな。安心だよな、実家から近いと」
 矢口は相槌を打った。「色々考えさせられるよな、親ってヤツにはよ」と矢口は同情を口にしたが、その目は笑っていなかった。
 

 矢口はいつの間にか、窓際の女たちの接待に回ったようで、時折起こる笑い声に矢口のトークが混じって聞こえて来た。
 田端の隣で松山が言った。
「いやあ、実際、谷口には俺たちメーワクしてるよな」
「どうしてさ。ボクが何かした?」
 郁也も負けていない。
「だってよお。俺たちみんな、女見る目おかしくなってるもんな」
 松山が周りに同意を求める。佑輔はともかく、田端は深く頷いた。
「どーゆうこと」
「考えても見ろ」
 松山は郁也をぎょろっと睨んだ。
「同世代の女との接触は一切なくて、お前を毎日見るんだぞ」
 田端もうんうんと頷いて松山の意見に同調した。
「そうだよ。俺たち、もうその辺の中途半端な美人を見ても、全然キレイだって感じないもんな」
「そんな……」
 郁也は絶句した。
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