3、サファイアブルーの水槽-6

文字数 2,227文字

 窓際の席できゃあっと楽しそうな笑い声がした。橋本を取り囲んで、真志穂と郁也の楽しそうな笑顔が見える。少女たちの笑いさざめく、華やかな空間。その周りで松山と田端も愉快そうに笑っていた。
 唐突に佑輔が言った。
「ありがとうな」
「え?」
「あいつのこと、そんなに心配してくれて」
 佑輔は照れながら、「これからも、よろしくな」と矢口に頼んだ。
 矢口は大きく首を振った。

「ねえ、見て見て! カワイイでしょ」
 すっかりはしゃいだ声で郁也が橋本を彼らの前に押し出した。郁也に肩を抱かれるようにして連れて来られた橋本は、髪を斜めにすっと分けられ、上品な薄化粧を施されて、さっき現れた子供っぽい様子とはまるで別人だった。ヒュ――っと矢口が口笛を鳴らす。
「いいねえ。さっきのボーイッシュな感じも素敵だったけど、こんな風に磨かれるとまた魅力がアップするね」
 矢口はすかさず「橋本さん、名前何ていうの」と尋ねる。
「あ、佳織です。橋本佳織」
「佳織ちゃんか。じゃあ、佳織姫。わたくしめに祝福をお授け下さいませ」
 矢口はそう言って芝居掛かった仕草で橋本の前にひざまずいた。  
「え? あの、ええと」
 橋本は困った顔をして隣の郁也を振り返る。
「キスしてくれって」
 本当にもう、どうしてこの男はこうもまあ、と呆れながら郁也は言った。
「靴の先で蹴り飛ばしてやったら?」
 郁也の言葉に真志穂も田端も大笑いする。
 橋本は少しの間「え? え?」と焦っていたが、えい、と覚悟を決めたようだ。恐る恐る矢口に近付くが、その先の動きが分からない。矢口がその逡巡を読み取って、自ら右手を差し延べた。橋本がその甲に唇を当てると、大きな歓声が上がった。
「あっはっは、馬鹿だねえ。聞いた? さっきの言葉。『祝福をお授け下さい』だよ」 郁也が腹を抱えて大笑いする。
「ほーんと。矢口君、君、ちんたら学生なんてやってるバアイじゃないよ。とっととホストクラブに勤めなさいよ。その若さをおろそかにしちゃイケナイ」
 真志穂が腰に手を当てて矢口に諭す。矢口は軽く上体を倒し、「お褒め頂いて光栄です」などとやる。周囲はまた爆笑の渦だ。

 松山が「かおりちゃん、かあ。雰囲気に合って、いい名前だねえ」と隣の田端に同意を求める。田端も「うんうん」と頷くと、橋本は、
「そうかなあ? 本人より何かちょっと、可愛過ぎない?」
と訊いた。照れ隠しなのか、日頃からそう思っているのか。
「自分で気に入ってないの? その名前」 
 郁也は橋本の顔を覗き込んだ。橋本はポッと赤くなって「そうじゃないけど……」と口を濁した。
「じゃ、いいじゃん。今日から君は『かおりちゃん』。いいね」
 ボクそう呼ぶから、と郁也は一方的にそう決めた。
「何か、ずるーい」
 橋本は唇を尖らせた。
「何がさ」
「だって、あたしばっかり名前呼びだなんて」
「じゃ、ボクのことも名前で呼んでいいよ」
「そうそう。このコのことは『いくちゃん』ね」
「このひとのことは『まほちゃん』でいいから。また一緒に遊ぼ」 
 郁也は真志穂と顔を見合わせてにっこり笑い、その笑顔を橋本に向けた。

 きゃあきゃあと女のコ同士の会話が続く。
「前髪、もうちょっと伸ばしたらいいのに。斜めにこう持って来ると似合うよ」
「そうだね。子供っぽいイメージからは卒業出来そう」
「ああ、このひとはヘアメイク志望だから。松山君みたいなアマチュアじゃなく、本物のプロのね」
「ええ!? じゃあ、今度あたしの髪型決めて下さい。自分じゃよく分からなくて」
「それならカットモデルになってよ。タダで切って上げられるよ」
「ええ、嬉しー」
 三人の会話は切れ間なく終わりがない。
 彼女らの横で矢口は、
「いいねえ、女のコは華やかで。その場がパッと明るくなるよね」
と嬉し気だ。松山に「お前ってキザっちくて、ホント信じられんわ」とさっきのことをけなされても全く動じない。その横では田端も眩しそうに彼女らを見ていた。
 三時間近くその店にいても、成る程ほかに客は入らなかった。矢口の言うように、抜本的な対策が講じられるべきなのだろう。
 彼らは揃って外へ出た。まだ九時半。学生にとってはほんの宵の口だ。
「本当にご馳走になっていいの?」と橋本が心配そうに尋ねる。
「ああ、いいのいいの。その替わり、次もう一軒付き合って」
 まだいいでしょ、と矢口が誘う。真志穂も珍しく彼らの群れに留まっている。もっと早くから誘って置くんだったと郁也は思った。だが、専門学校での一年が真志穂の回復を促進したのかも知れない。郁也は傍らの佑輔を見上げた。
「疲れた?」
「ああ、さすがにちょっとな」

 郁也は「じゃ、ボクたち帰るから」と皆に声を掛けた。真志穂が「ええ、まだいいじゃない」と不満そうに言った。郁也はだぶだぶのシャツの上に引っ掛けたコートのポケットに手を入れ、笑って頷いた。
 矢口と松山が「おお」「またな」とふたりを見送る。
 郁也は佑輔と歩き掛けて、また後ろを振り向いた。
「かおりちゃん、狼の群れの中に君を置いて行くけど、自分の身は自分で守るんだよ」
「ええ!」
 橋本は反射的に傍らの真志穂の肩にしがみつく。
「あはは。そのひとが一番危ないかも知れない」
 郁也は真志穂を指差した。橋本が慌ててしがみついたその手を離した。
「あーはっはっは」
「何だよ、失礼な」「酷いこと言うな」「安心して。俺たち充分紳士だよ」などと残ったもの共が口々に言う。郁也は大笑いで祐輔と共にその場を離れた。
 愉快な夜だった。
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