4、ローズマダーのクッション-3

文字数 4,381文字

 郁也の父からメールが来た。これからアメリカへ戻るとあった。郁也の顔をまた見て行きたいのはやまやまだが、平日で郁也は大学だろうから、このまま真っ直ぐ飛行場へ行くとのことだった。郁也はちょっとがっかりした。郁也は父が好きだった。
「随分長逗留だったなあ。十日以上だ」
 郁也が指折り数えると、佑輔が「俺と郁の仲睦まじいのを見て、お母さんのところを離れ難くなったんじゃないの」と涼しい顔で言った。

 郁也は家庭教師先を一軒決めた。決めた理由は場所だった。部屋から地下鉄一本で行ける家の高校生の男のコで、理数系と英語を強化して欲しいとの要望だった。
 お任せあれ! 
 曜日は月・木にした。佑輔は運送会社のバイトが入っていたからだ。早速始めたいくらいだったが、先方の都合で再来週からということになった。部活の何やらがどうとか言っていた。
 佑輔は相手が男子高校生だと聞いて、露骨に嫌な顔をした。
「えー、十七歳の野郎かよ。何かあったらどうするんだよ」
「『何か』って何?」
「いやあ」
 佑輔は一度は口籠もったが、郁也が不思議そうな顔を止めないのを見て、ここは言わなければと思ったようだ。
「郁、まだ自覚ないのか。郁はそこらの女のコよりずっとキレイなんだよ。郁にその積りが全然なくたって、毎週毎週近接してたら、そのコだっておかしくなっちゃうかも知れないだろ。受験生なのに」
「そんな風に思うの、佑輔クンだけだと思うけど」
 郁也は小さな声で言った。嬉しいけど、常識を外れてるよ、佑輔クン。
(ボク、もうそんなにキレイじゃないよ)
 
 郁也には分かっていた。十六の頃の、あの妖しいなまめかしさのようなもの、それは今の自分にはもうなくなっている。
 男性にも女性にも同定されない不安定さ。悪魔が造り出した偶然の生きもの。
 そんな禍々しさがかつての自分にはあった。手紙も貰ったし、道を歩いていて暗がりに連れ込まれそうになったこともあった。上級生には肖像画を描いてプレゼントされたし、女学生には日常的に隠し撮りされた。
 もう過去のことだ。今は辛うじて女のコの格好をして街を歩いても、誰からも変な顔をされない程度に過ぎない。
 郁也はあの美しさと引き替えに、佑輔の心を貰ったのだ。
 だが佑輔の目には、多分一生あのときの郁也の姿が、眼前の郁也に二重写しになって見えるのだろう。佑輔の視界では、永遠に十六の美しさを持った郁也が、きらきら光る金の粉を散らしながら彼に微笑み掛け続けるのだ。
 佑輔クンの心は、もう一生、ボクのものだ。
 たとえ離れ離れになることがあったとしても。
 佑輔クンは死ぬまできっとボクのことを忘れられない。
 ……もう、何を失っても惜しくない。
 郁也は取り敢えず、男のコの家庭教師はこれ以上増やさないと佑輔に約束した。予備校の講師の面接を受けて見ようかと思った。確かに密室よりは公衆の面前の方が安心かも知れない。予備校は人気商売だと聞く。郁也の外見が有利だと採用側に判断されればいいのだが。
 バイト斡旋の掲示板の前で声を掛けて来た烏飼とは、その後も講義室などでよく顔を合わせた。会えば軽く挨拶を交わす程度で、何を話す機会もなかった。美味しいバイトのツテとは何のことだったのだろう。

 淳子と弘人のロマンスを、郁也は思わぬ処で聞くことが出来た。
 金曜三コマの「生物学A」にエントリーしたときのこと。
 教授はエントリーカードを捲り出席を取った。ひとりひとりの名前を読み上げて行く。試験よりも出席重視の講義では、必ず行われる儀式である。出席が郁也の処まで来たとき、その先生は眼鏡を押し上げて講義室を見渡した。
「谷口君。谷口郁也君とは、どのひとですか」
「はい、ボクです」
 郁也は手を上げた。五十人収容の講義室で、郁也の姿はすぐ確認された。郁也の顔をじっと見た教授は、後で自分の研究室に来るようにとだけ言って、そのまま講義を始めた。
 その講義は橋本リストに載っており、五人皆が取っていた。
「何だろう」
「郁也くん何かしたの?」
「そんな訳ないじゃない、まだ入学して五日だよ」
などとざわざわしたが、その日の講義を終え、郁也はその先生の研究室を訪れることにした。
 佑輔が研究室の入り口まで従いて来てくれた。郁也は佑輔と頷き合って、大きく息を吸って研究室のドアをノックした。
「はい」
「『生物学A』でお会いした谷口です」
「ああ、どうぞお入り」
「失礼します」
 佑輔に見守られながら、郁也はその部屋へ入った。
 正面の机の後ろから西日が差して、雑然としながらも温かな気配に満ちていた。
「わざわざ来て貰って済まなかったね」
 あの場ではちょっと話し難いことだったのでね、とその先生、草壁教授は言った。

 草壁はやや遠慮がちに尋ねた。
「谷口先生はお元気ですか。ああその、谷口弘人先生は」
「……父を、ご存じなんですか」
 郁也は驚いた。草壁は手でソファを指し郁也を座らせた。郁也の背で赤いクッションがぽふと鳴った。
「D大の大学院で、ご一緒させて頂いたんですよ。谷口先生と、それから淳子さんとね」
 何と、父母の学友であったか。
「講義室で君の顔を見せて貰って、『ああ、これは間違いない』と」
 そう言って草壁ははにかんだように笑った。郁也もくすぐったそうに笑ってこう言った。
「ええ。ボク、そっくりでしょう彼女と」
「はは。時が二十年、一気に巻戻ったかと思いましたよ」
 そうだ、もうひとり、君を会わせたいひとがいるんだが、と草壁は言って受話器を取った。
「ああ、大野か。やっぱりそうだった。うん、今僕のところに来てる。はい」
 廊下をどすんどすんと大股に近付いて来る足音がして、研究室のドアがバンと開いた。ドアを手で押さえたまま、男は横を向いて「友達かい? 入ったらいい。そんな処で突っ立ってないで」と部屋の主に何の断りもなく、勝手に佑輔を招じ入れた。
「どれどれ、あの淳子姫の息子だって?」
 男は郁也の顔を見た。じいっと見られて顔を背ける訳にも行かず、仕方なく郁也もその男を見つめてしまった。
「いやあ、この顔に見つめられると、照れるなあ」と男は大きく目尻を下げた。
 佑輔がコホンと咳払いをすると、草壁が「どうぞ、座り給え」と声を掛けた。佑輔は軽く頭を下げ、行儀よく郁也と並んだクッションを目印に身体を落ち着けた。
「この失礼なのは、大野と言ってね。僕とはD大以来の腐れ縁だよ」
「どうも、大野です。谷口さんの後輩で、淳子姫とは修士の同期です」
「修士」
「はは。学部ではこちらが先輩だったんだがね。俺は修士もひとの倍掛かってしまったので、入ったのは淳子さんと同期でも、出る頃には淳子さんは博士過程でした」
「ああ」
 郁也は何と返事をしてよいか分からず、曖昧に相槌を打った。

「どうですか、おふたりはお元気ですか」
 そう草壁に訊かれて、郁也と佑輔は顔を見合わせた。
「父は丁度先週から日本に帰ってるんですよ。先週会いましたけど、元気でした」
「お袋さんは今も美人で、こいつと並ぶと美人姉妹って感じです。いつもキレイな声で豪快なことばかり言ってますよ」
「ほう」
 先生方は目を細めてかつての学友の消息を喜んで聞いていた。
 郁也は佑輔を家族ぐるみの付き合いをしている友人だと紹介した後、「沢山ご迷惑をお掛けしたんでしょうねえ、その、あの母のことですから」と申し訳なさそうに下を向いた。
「あっははは。成る程、君は性格は谷口さん似なんだろうねえ」
と大野が爆笑した。草壁が言葉を継いだ。
「いやあ、永沼さんは、あ、失礼、君のお母さん、旧姓永沼淳子さんは、我らが第三研究室にそのひとありと広く知られた才媛でしたよ」
「本当ですか」
「ああ、本当だとも。彼女が研究室を去ったときなどは、上は学部長、教授から下は研究生、学部生まで、泣きの涙で見送ったものさ」
 そう言って大野が大きく頷く。
 研究室で、淳子はかなりの人気者だったらしい。多くの男が彼女を取り合って互いに牽制し合っていた。外見もさることながら、賢く、行動力もあって、男女を問わず皆の憧れの的だったとのことだ。
「それが、あんな風来坊にころっと取られちゃって」
 大野は口を滑らせた。慌てて次の言葉を呑み込む大野を、草壁がじろっと睨んだ。
「この男が失礼なのは勘弁して下さい。もう一生治らんのです」
 草壁は郁也にそう詫びて、昔の話をしてくれた。

 郁也の父、弘人は、他大学で学部を終えてしばらくしてから、D大の修士課程に進学した。何か家庭の事情があったらしい。自分からアピールというものをしないのんびりした性格で、研究室でも目立たない存在だった。若くて遣り手の准教授の許で、品種改良を効率化する画期的な新手法の糸口を掴んだときも、その成果を担当准教授と彼ら研究者仲間に譲ろうとした。
 研究室の隅でいつもひっそりと俯いていた弘人を、淳子はいつも皆の輪の中へ引っ張り出そうとした。夏の向日葵のような明るい淳子。淳子の放つまばゆい光は、弘人の蔭を照らすことに意義を見付けたのか、誰に言い寄られても首を縦に振らなかった淳子が、弘人の求婚を受け容れ、ふたりは結婚した。学生結婚だった。
「学部中大騒ぎだったよ。我らが淳子姫が、あんな冴えないヤツと――失礼――ってね」
 大野が両手を大きく拡げて肩をすくめた。
「だが、谷口君は優秀だった。地味だが心優しい人柄が皆に知られるにつれ、皆納得したものです。ああ、永沼さんの判断は正しかったとね」
 草壁の言葉に大野も大きく頷いた。郁也は佑輔と顔を見合わせて微笑んだ。
 
「当たり前だけど、あのひとたちにも若い頃があったんだな」
 郁也は帰り途、のんびり部屋まで歩きながら、溜息を吐いて佑輔に言った。
「お母さんなんて、今でも充分若いけどな。お父さんのところへ行くときなんか、うきうきして、普通の恋愛中の若者と変わらなく見えるぞ」
「そうかなあ。うん、そうかもね」
 愛し合うふたりの間に次の命が生まれる。そうしてここにいるのがボクだ。
 郁也は自分の命を尊いものと感じた。祝福される、命。嬉しいようなありがたいような、くすぐったいような、幸せな感じ。
 この感じを、自分は誰にも抱かせてやれない。それは少しばかり残念だけれど。
 佑輔は「先生方の話すお父さんの人物像、俺が会ったのと違うなあ」と言った。
 郁也は少し考えて、言った。
「それは全然不思議じゃないな」
「そうか?」
「うん」
 郁也は顔を照らす夕陽に眩しそうに目を細めた。
「淳子サンのせいで変わったんだよ。ボクだって、二年前とは随分違う」
 だって、見えてる世界の色が違うんだからね。
 郁也がそう言うと、佑輔は嬉しそうに頷いた。
「それは確かに、そうだよな」
 もうあの真っ暗な世界には戻りたくない。
 風は少しづつその厳しさを減じていた。緑が萌えるのはまだ少し先だが。
 春が、訪れていた。
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