2、ジンクホワイトの卓-1

文字数 3,633文字

 次の日。
 朝は弱い郁也も頑張って起きて、一講目から教養の講義に顔を出した。
 取り敢えずエントリーして見て、興味が続かなそうならフェイドアウトすればいい。その講義は佑輔も選んでいたので、郁也には励みになりそうだった。
「おお、お前らも来たのか」
 松山だ。
「松山、お前俺たちの行くとこ行くとこ現れんなよ。しつこいぞ」
「うるせ。そっちが俺の行くとこに網張って待ってんだろ。俺を慕うのもいい加減にしろよな」
「何馬鹿言ってんのさふたりとも」
 郁也は笑って間に入った。
 講義室を見回してみると、知った顔が結構いる。そう佑輔と松山は話し合っていた。地元のハイレベル校である東栄学院出身者は、成績順に国公立ではT大、B大と入って、次がこのH大だ。
「ふーん、そうなんだあ」
 他人事のように気のない相槌を打つ郁也に、松山は呆れ顔だった。田端のこともあり、松山にとっては郁也のこの関心の薄さは信じられないものであるらしい。
 郁也はひとが怖かっただけだ。ずっとひとの顔を真っ直ぐ見られなかった。

「おはようございます」
 振り返るとそこには、昨日名前を聞いた橋本がはにかんで笑っていた。女のコが珍しい松山が反射的に笑顔を向ける。橋本は彼らの一列後ろに掛け、時間割を拡げた。
「講義どれを取るか決めました?」
「いや。まだ」
「面白そうなのって基準で取ると、大変なのばっかりになっちゃうかも知れないでしょ。半分くらいはラクなのを取りたいんだけど、分かんなくてさあ」
 短く答える郁也と対照的に、松山は愛想がいい。
「先輩情報ですけど、この『情報処理基礎理論』ってのは、楽勝みたいですよ」
 橋本の言葉に「ラクなのを取りたい」と言った松山が食い付いた。
「ええっ。何その『先輩情報』って」
 松山の真剣な表情に、橋本は得意げに答えた。
「あたし、学生会館に入ったんですよ。知り合いもいないし安心だなと思って。そこは結構同じ大学のひとがいて、情報交換出来るんです」
「へええ。いいなあ」
 松山は涎を垂らしそうにだらしない顔をする。この野郎の頭は今、先輩から講義の情報を仕入れることよりも、女子のみが起居する女性専門下宿でいっぱいになっている。郁也は佑輔と顔を見合わせたが、子供っぽいとは言え十八歳、もしくはそれ以上の女性の前で、それを口にするのは止めて置いてやった。
「それ、理学部限定の情報? 共通科目情報もある?」
と佑輔が訊く。
 橋本は蛍光マーカーでチェックした自分の時間割を指でなぞって、
「あ、ええ。共通科目もあります」
と答えた。
「当たりか外れかは分かんないですけどね」
 そう言って橋本は笑い、良ければ自分の得た情報をお裾分けしましょうか、と提案した。
「それは助かるなあ。なあ、おい」と松山が飛び付く。
 郁也は後ろの席の橋本を睫毛の下から見上げた。
「そうだね。有り難いね。で?」
「え?」
「そっちの交換条件は、何」
 郁也はそう言って顔に掛かる髪を掻き上げた。横で松山が「おいおい、谷口くーん」と慌てている。
 橋本は悪戯っぽい顔になった。
「はっきり言うんですね。面白ーい。そんなこと言うひと、初めてです。じゃあ、あたしからの交換条件は」
 橋本はにこっと笑った。
「みなさんいつも一緒にいますよね。あたしも仲間に入れて下さい。お友達になりましょう」 
 郁也は軽く驚いた。
 こんなことを言っても、嫌味にならないひとっているんだな。


 午前中の二コマ目、郁也は文系科目の講義に出て見ることにした。
 教養科目は理系と文系に別れ、それぞれ所定の単位数を取らなければならない。郁也たちが理系が得意でも、理系の講義ばかり取っていては卒業出来ないということだ。
 郁也は三階の端の小講義室へ向かった。学院の教室よりも狭苦しい小さな部屋だった。
 郁也はエントリーカードに講座名と自分の名前を書き込んだ。西洋史C、谷口郁也。カードを教卓に置けば登録は完了だ。
 席に戻る郁也は背後から声を掛けられた。振り返ると、さらさらストレートヘアを軽く横分けにした田端が立っていた。
「やあ。君もこれ取るの」
「多少興味持てそうかなと思って」
 自然と田端は郁也の隣の机に座った。
 何も喋らないのも不自然だ。郁也は話題を探した。
 田端が先に口を開いた。
「歴史なんて全然知らないけど、従いて行けるかな」
 若干ぎくしゃくした物言いが、田端も同じ思いだったことを語っていた。
「中等部以来だもんね」
 ボクたち高等部では歴史取ってないから。
 郁也は昨日の松山の言葉を思い出しながらそう言った。この田端は二組だったらしい。ということは、選択科目は郁也たちの一組と同じ、「物・化・地理」だ。

 田端は郁也をちらっと見て、
「君はどうしてこの大学を選んだの」
と訊いて来た。
「どうしてって?」
「……君なら、もっと難しいとこ入れたんじゃない?」
 郁也は、
(それはそっちの方じゃないの)
と思った。この男はB大の工学部にも合格したと聞いた。工学部と理学部の違いはあるが、どう考えてもB大の方が世間の評価は高い。だがそれを持ち出せば、話が嫌らしくなってしまう。
「担任の寺沢さんにはここの医学部を勧められたけど、冗談だと思って断った」
「冗談?」
「うん。ボク勉強嫌いだし」
「嘘だろう」
「嘘じゃないよ。高得点をマークするためのトレーニングって、何か頭の回路破壊しそうじゃない? 自分でもの考えられなくなりそうで」
 淳子の受け売りだ。郁也の母は郁也と佑輔に、「お勉強ばっかりしちゃ駄目よ」と何度も繰り返し言っていた。非現実的な仮想問題ばかりやっていると、現実の問題解決能力を損なってしまうというのだ。種苗メーカーの研究所を統率している彼女は、近年の受験戦争の申し子のような研究者を嫌と言う程見て来たのだろう。
「ふーん。君くらい優秀だと、考え方も違うんだね」
 聞きようによっては嫌味な言葉だが、田端の口調は不思議とそういう疑念を掻き立てない素直なものだった。

 定刻より十分遅れて講義が始まった。
 田端の質問。「君はどうしてこの大学を選んだの」
 答えは簡単だ。郁也は担任だった寺沢に相談したのだ。
(瀬川君とボクとが一緒に行ける大学はありますか)
 郁也には何を勉強したいという確たる目的などなかった。佑輔が「同じ街の大学へ行って、そこでふたりで一緒に住もう」と、そう言ってくれたから、この大学という目標が出来ただけだ。
 郁也は先のことなど考えたこともなかった。
 どう考えても、怖い考えにしかならない気がしたからだ。
 女のコの身体を手に入れるか、男のコのままで生きていくか。それにすら答えを出せないまま立ち往生していた郁也に、明るい将来のヴィジョンなど描ける筈がなかった。郁也は考えないように、考えないようにして生きてきた。
 明るい、未来。
 郁也は昨日父の前で聞いた言葉を思い返した。
 佑輔は郁也の父にこう宣言した。
(僕は一生、郁也君がもう来るなと言うまで、彼に従いて行く積りです)
 黒板がぼやけた。
 佑輔は言った。郁也が大人になって、年老いて枯れていくのをずっと側で見ていたい。郁也の隣に誰かがいることを許されるなら、それは自分でありたい、と。
 もうこれ以上望まない。
 女とか男とか、もう、どうでもいい話のように郁也には思えた。
 もし郁也が今から女のコになっても、そこで時間は止まらない。刻一刻と年老いて行く。いずれにせよ、キレイな時間は僅かしかないのだ。
 佑輔が隣にいてくれる、未来。一緒にどこまでも歩いて行ける、時間。
 昨日佑輔は父に詫びて、ふたりが十六だったときに起きたことを語った。
(僕は郁也君が好きでした)
 佑輔は語りをそう始めた。ふたりが初めて会話を交わし、「白雪姫」になった郁也をちっとも変じゃない、可愛いお姫さまだと言い、そしてその証明に佑輔は、女のコの姿の郁也を夏休みプラネタリウムへ連れて行った。帰りに寄った公園でつい郁也の唇にキスをして、慌てて走り去った佑輔。
 郁也はてっきり、自分があんまり佑輔を好きになったから、自分の気持ちが佑輔に魔法を掛けたと思っていた。
 自分のような人間が本来手を触れてはいけないものを、強い願いが摂理を曲げて、掠め取ってしまったようで後ろめかった。
 だが、昨日の佑輔の言葉はどうだろう。

 庭を通り掛かる騎士が、バルコニーの姫に出会うように。
 理科室の窓から顔を出した郁也が、佑輔の声に視線を下ろして、初めてふたりが交わした言葉。初めて互いを見交わした視線。
 あのとき。
 あのとき既に佑輔は。
(……信じられない)
 郁也のシャーペンを持つ手が震えた。
(信じられない。ボクは、ボクは)
 佑輔が優しく郁也を抱き締める腕。抱き取られた郁也を温かく包む胸。
(あのとき、もう、佑輔クンに)
 それを郁也が望むことを。
 それを郁也が求めることを。
 あのとき既に佑輔は、願っていたというのだろうか。
(初めから、佑輔クンは、ボクのこと……)
 郁也は頬杖を突く振りをして目尻を隠した。
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