3、サファイアブルーの水槽-3

文字数 3,233文字

 約束の場所までどのくらい掛かるか分からなかったので、郁也たちは早めに部屋を出た。地下鉄を乗り換えてS野で降り、待ち合わせの場所に着いたときにはまだ誰も来ていなかった。
 日曜日なのに、どの出口からも次々とひとが溢れ、行き交っていた。日曜でこれなら、金曜の夜などはさぞ混み合うに違いない。
 行き交うひとの中で、明らかに不審な行動を取る男たちがいた。黒いコートに身を包み、女性にのみ声を掛けている。ナンパとも違うその動き。
 郁也は気が付いた。謂わばこれは組織的なナンパ。風俗店のスカウトたちだ。
 女性は女性であるというだけで広くその商品価値を認められる。これだけ性解放が進んだ今の世にあっても、男性の性の価値はこれほどメジャーではない。
「よお。まだほかは来てないな」
 松山がやって来た。
「おお」
 佑輔が返事をした。
「何見てんだ」と松山が郁也に訊いた。郁也は風景から目を離すことなく松山に答えた。
「この世界で性の対称性は破れているな、と思って」
「はあ? 何だそれ。俺は物性論までは何とかなっても、量子論はダメだぞ」
(うーん、いい反応!)
 松山の返答に少し満足しながらも、コートのポケットに手を入れたまま、郁也はつんとして言った。
「人数多い方がいいんでしょ。まほちゃんも呼んだからね」
 松山はたじろいだ。郁也を指差し佑輔に小声で尋ねる。
「何怒ってんだ?」
 佑輔は笑いを含んだ声で答えた。
「直接本人に訊いてみたら」
 こうして待ち合わせをしていると、自然と身体は改札口を向いてしまう。集まるひとが皆地下鉄で来るとは限らないのに、不思議なものだ。
「あ、橋本さんだ」
 ホームから上がって来る彼女の姿を、松山は早々と見付けてしまう。どんな格好をしているのか、春物のベージュのコートに隠されて、中の衣装は分からない。

 改札を出た橋本に、黒いコートのスカウトがひとり取り付いた。ティッシュか名刺のようなものを彼女の手に無理矢理握らせ、何かしつこく話している。親切そうなその男の笑顔に、何のことだか分からない橋本は困惑しつつも冷たくあしらえずにいた。
「あーあ、捉まってるよ。橋本さん、素材はいいからなあ」
 松山は微妙に失礼な台詞を呟いた。橋本はK市からひとりでこの街にやって来たと言った。まだ都会の流儀には慣れていなかろう。
 郁也はすっとそちらへ歩き出した。松山が「おい、谷口」と郁也に声を掛けたが、郁也は立ち止まらなかった。橋本に付き纏う黒コートの前に回り込んだ。
 郁也は橋本の肘を掴み、冷たい声で言い放った。
「このコ、ボクの連れだから」
 郁也の横顔に、たじたじとスカウトの男は退いた。郁也は橋本の肘を掴んだまま歩き出した。
「あ、あれ、何? 何かのキャッチセールス?」
 焦った橋本が郁也に訊いた。
「『売ろう』っていうより、『買おう』って方かな」
「『買う』? あたしから?」
 橋本は何も分かっていない。子供っぽいのは服装だけではないのかも知れない。
 郁也は構わず、橋本を引き摺るようにして待ち合わせ地点に戻った。郁也がパッと掴んでいた肘を離したので、橋本は一瞬よろめいた。橋本は足に低めのパンプスをはいていた。
「橋本さん、大丈夫だった? 駄目だよ、あんなの相手にしちゃあ」と松山。
(何が「駄目だよ」か。面白がって見てた癖に)と郁也は松山をじろっと睨んだ。
「でも、助けが行っただろ。よかったな、橋本」
 そう言って佑輔が郁也をちらと見た。郁也は照れ臭くなってそっぽを向き、ポケットに手を突っ込んだ。
「あとは、お姐さんと田端だな」と松山が時計を見た。

 果たして真志穂は来るだろうか。
 引き籠もりの生活から、専門学校に通うまでに回復して丸一年。
 真志穂は松山と矢口、それから当然佑輔とは面識があるが、知らないひとのいる知らない場所に、顔を出せるだろうか。郁也は無理しなくていい、とメールして置いた。
(来たくなったら、来て見て。驕りらしいから)
 郁也はそう送ったのだが。
 田端が現れ、殆ど同時に真志穂もやって来た。
「ご無沙汰してます、お姐さん」
 背筋をピンと張って松山が挨拶をした。
 真志穂はそう緊張した素振りもなく、「えーと、松山君だっけ、矢口君だっけ」と首を捻った。
「松山の方です」
「ああ、御免御免」
 そうした会話を、郁也は落ち着かない気持ちで聞いていた。佑輔にそっと「去年の学祭前に、一度ね。その、彼がメイク教えて欲しいって。ほら、あのとき」と耳打ちした。
「ああ。成る程」
 佑輔は特に気分を害した様子もなかった。郁也はほっとした。
 初対面同士を軽く紹介し合いながら、松山の先導で彼らは矢口の待つその店へ向かって街を横切った。

 学院祭の中でも、彼ら学院生にとって最も重要なのはクラス対抗の仮装大会であった。一年、二年と郁也は個人賞である「仮装大賞」を連続受賞した。並み居る上級生を押し退けての快挙であったが、三年次、彼らは今年こそクラスの勝利を狙っていた。
 ヒロインをいかに美しく出来るか。その重要課題に挑み、ヘアメイク担当の松山は真志穂に彼女が郁也にメイクするところを見せて貰ったのだった。
 妖精のように愛らしく仕上がった郁也を自慢したくて、松山と矢口は郁也を高校生のパーティーに連れて行った。そこで郁也があまりにモテたため、さすがにまずいと思ったふたりは慌ててそこへ佑輔を呼び出した。
 真っ白な膝上のふわふわのドレス。幾重にも重なったレースのフリルの裾と、白いストッキングの上端のフリル。郁也が動く度にそこにちらちら隙間が出来て、ほんのり浮かび上がった血の色が覗いた。大きく開いたデコルテは白い羽で縁取られて、突然目の前に現れた佑輔の姿に、高鳴る郁也の胸の動悸がそこから見られてしまうのではないかと郁也は思った。
 あれも夢のような一瞬の記憶。郁也の幸せを彩る、記憶の宝石だ。

 飲食店の入るビルをエレベーターで五階まで上がる。郁也がエレベーター内の案内板を物珍しそうに眺めていると、エレベーターは衝撃なく止まった。五階はワンフロア全体を一軒の店が占めていた。松山が扉を開いた。
「おお、いらっしゃい」
 きゃあきゃあうるさい数人の女のコに囲まれて、矢口がソファから大きく腕を振った。ほかに客はいない。
「おう。皆様お誘い合わせの上お越しになって遣ったぜい」
 松山がふんぞり返って近付いた。その様子に橋本が転げ回る勢いで笑った。
「こりゃお揃いだな。ありがとう」
 矢口は立ち上がって彼らを出迎えた。真志穂には「ご無沙汰してます。その節はどうも……」と礼を欠かさず、初対面の橋本にはその手を取って口づけせんばかりに歓迎し、そして。
「田端君……。君かあ。これは驚いた」
 矢口はしばし言葉を失った。
 田端は「やあ。押し掛けちゃって御免」と頭を掻いた。
「何を言うんだ。却って助かるんだ。会えて嬉しいよ」
 矢口は田端の肩を叩き、全員を奥の広いボックス席に案内した。途中賑やかにまとわり付くお姉さんたちには、「お前らうるさいよ。こっち来んなよ」と軽く睨み付けて通り過ぎる。佑輔はその様子に眉をひそめた。
「すっかりハレムだな」
 矢口は横目で佑輔を見返した。
「俺は自分の貞操は自分で守らなくちゃならんからな。時には弾幕も必要さ。学院出てひとり暮らしを始めたら、諸方面からの攻勢が一気に強くなった」
 矢口はかつて、自分の父親の権力、財力、政治力を目当てに、娘をあてがおうとする親たちについて郁也にこぼしたことがある。御曹司でいるのも大変だなと郁也はそのとき思ったものだ。
 矢口のもうそのままホストで食べて行けそうなきめ細かな心遣いは、そんな生活の中で身に付けられたものだと知ると、何だか痛々しかった。誰のことも大切にして、特定の誰かと仲良くならないようにする技術だった。根っから優しい男のコなのだ。
「みんなが幸せな家庭生活を送ってる訳じゃ、ないってこと」
 矢口は「家庭生活」のところを強調して、佑輔の背中をばしんと叩いた。
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