8、カドミウムイエロー、天国の門から漏れ来る光-2

文字数 3,679文字

 郁也は「目を開けて」と佑輔に涙声で命令した。焦茶の瞳を前に郁也は大きく呼吸した。佑輔の瞳を覗く目に力を入れる。
「佑輔クンは、どうしてそんなにお金が欲しいの」
 佑輔は、ひとの目を見て嘘を吐けない。そこが郁也と違う処だ。郁也は佑輔の目をじっと見た。佑輔の茶色の瞳が、何かを観念したように光った。
「……だって、郁、着た切り雀じゃないか」
「え……?」
「春物こそこの間真志穂さんと買って来たけど、それ以外は二年前のあのオレンジ一枚だけだろ」
「佑輔クン……?」
「いっつも同じ服なんて、そんなの可哀想で。郁は本当に可愛いからさ、もっともっと、キレイに着飾らせてやりたくて。郁が着て見たいと思う服はみんな着せてやりたい。そしてデートでも何でも郁の好きなだけしてやりたい。それを着て行く処がなくなったら、南の島でも、ヨーロッパでも、どこへでも連れて行きたい」

 佑輔はそこで大きく瞬きをした。肩で息を吐いて、また話し始めた。
「郁が何度か訊いたように、郁の家が出してくれるお金に、甘えちゃいけないってのも確かにあったよ。何しろ郁のお父さんなんか、ポンと二十万もくれちゃったりするんだ。男として負けたくないってのは、どうしようもなく俺にもある。でも、それよりも」
 佑輔は目を伏せてふっと笑った。
「ここに越して来たときの買い物リスト。あれ、まだ全部終わってないだろ。すぐにも必要なものは何とか揃ったけど、あれもあったらいいな、これもあったら郁は喜ぶな、って。それに、郁は育ちがいいから、きっと布団よりベッドの方がいいんだろうな、だったらここより広い部屋じゃないと、とか。そんなこと思い始めたら、金なんて」
 佑輔は肩で大きく息をした。
「金なんて、幾らあってもいいような気がして」
「佑輔クン」
「ごめん。俺、舞い上がってた」
「……佑輔クン!」
 郁也は佑輔の首に腕を回して身体を預けた。張り詰めた気が緩み力が抜けた。
「でもそんなこと、郁には言えなかったよ。言ったら、郁は絶対、止めてくれって俺を止めるもの。そんなことしないでって。分かるんだ、俺。郁は優しいから、自分のために俺がそんなに働くの、きっと止めてって言うだろうなって」
「……馬鹿。分かってて、どうして」
 声が詰まって続けられない。郁也は佑輔の胸に顔を埋めた。

 佑輔は自分の胸に翼を休める小鳥にそっと腕を回した。
「どうしてだろうな。きっと、俺がそのくらい郁を好きってことだろうな」
 郁也の耳許に佑輔が呟く。郁也を抱き取る腕は、郁也が苦しく感じないぎりぎりの力が入って郁也を安心させた。原始の濃密な海のようだ。郁也は今にも羽ばたきそうな身体の震えをこらえて指を噛み、ぐっと膝に力を入れた。佑輔の腕の中で郁也は背を伸ばした。
「じゃあ、もう少し余計にボクを好きになって」
「郁」
 郁也はきっぱりと宣言した。
「ボクが止めて、って言うようなことは、ボクの気持ちを優先して、しないで。自分の気持ちより、ボクを優先して。でないと」
 佑輔はこわごわ郁也の顔を覗き込んだ。
「でないと?」
 郁也は睫毛を伏せて唇を噛み、再び佑輔の焦茶の瞳を見た。
「……もう、ボクに触らせて上げない」
 上目で佑輔を見据える瞳が、もうとっくに許していることを告げていた。佑輔は涙で濡れる頬を拭いもせずに、郁也の身体を抱き上げた。
 

 何日振りだろう。
 もう何の迷いもなく、郁也は思う様佑輔の腕の中で巻き起こる感覚の嵐に酔った。佑輔の身体も、迷いなく願うままに郁也の隅々を愛し尽くした。互いのための互い。互いの身体を慈しむ互いの身体。
 もしかして、自分の他に誰かがいるのではという疑念。
 そのひとと睦み合ったため、佑輔の情が枯れているのではという妄想。
(ふふふっ)
 思い返せば笑い話だ。
 郁也は、ふたりは笑い話をまたひとつ増やした。
 ふたりで生きて行くというのは、笑い話を増やしていくことなんだ。そう、佑輔に抱かれて郁也は思った。

 強い感覚に虚脱している郁也の許に、佑輔が風呂場から戻って来た。
「郁、大丈夫か」
 佑輔は今でも必ず訊く。自分が無理をして郁也を傷付けてしまっていないか心配する。自分の欲望が制御を外れる瞬間が、慣れた行為の中でもまだあるのだろう。佑輔の欲望をそんなに強く引き出し続ける自分。郁也は自惚れていいのかも知れない。
「平気だよ。佑輔クン、優しかったもん」
 長い睫毛をしばたたかせて郁也は気怠くそう答える。いつものように。自分の隣に滑り込む佑輔に、郁也はゆっくりと腕を伸ばした。佑輔は満ち足りたように微笑んで、郁也の腕の中に収まった。
「……佑輔クン」
「ん?」
「ボク、やっぱり、佑輔クンが好きだなあ」
「何だ、急に」
 佑輔がくすぐったそうに笑う。郁也の腰に回した腕にそっと力を入れて佑輔は言った。
「惚れ直したか」
「うん」
 郁也は素直に頷いた。
「さっきね。佑輔クンに、『何にそんなにお金が要るの』って訊いたとき。もしかして決定的な答えが返ってくるかもって思ったら」
「決定的って何だよ」
「だから、佑輔クンが貯めてるお金がボクのためじゃなくて、逆の目的かもって」
「変なこと考えてたんだな、郁は」
 俺、そんなに器用じゃないから。一遍にふたつもみっつも考えられないよ。佑輔はそう郁也の身体を揺すった。「あ」と郁也は溜息を漏らした。身体の奥に残る感覚の鋭敏さ。郁也は息を整えた。
「……佑輔クン、なかなか答えてくれなくて。あのとき、『ああ、やっぱり』って思ったら、ボク死にたくなっちゃった」
「郁」
「もう生きていたくないなって。佑輔クンがいなくなったら。佑輔クンがいないのに、頑張る意味って、もうないなって」
「郁……」
 佑輔は郁也の顔を覗き込んだ。郁也の大好きな茶色の瞳が、心配そうに光っている。

 郁也は笑った。
「駄目だなあボクって。仮定の話だけど、もし佑輔クンに好きな女のひとが出来て、それがとってもいいひとで、そのひとと結婚すれば絶対佑輔クンは幸せになれるって分かったら、ボク、そのひとに佑輔クンを譲らなくちゃいけない。ずっとどこかでそう思ってるんだ。だって、ボクといても佑輔クン、子供も持てないし、お父さんお母さんに顔向け出来ないでしょ。世間一般に認められる幸せって、重いよ。だからボク、いざってときにはいつでも、ひとりに戻る覚悟でいなきゃって。そう、こっそり思って来たんだけど」
「郁」
 佑輔は腕を上げ郁也の髪を掻き分けた。
「それが本当の『好き』だって、頭では分かってる筈なのに。なのに、やっぱり嫌だって。耐えられないって。もう生きていたくないって」
 郁也の目尻から涙がひと筋枕に落ちた。
「何て我が儘で、利己的なんだろう」
 ごめんね、佑輔クン。郁也は佑輔の背を撫でた。以前より、骨の浮き出た佑輔の背を。
「……もっともっと我が儘で、自分のことばっかり考えて欲しいなあ」
「佑輔クン?」
「郁ってば優しいからさ。いっつもいっつも自分のことは後回しだろ。俺のこと考えてくれるのは嬉しいけど、俺心配だよ。本当は郁はこんなんでいいのかなってさ。こういうことだって」
 佑輔はそっと郁也の丘を揺らした。
「俺、すぐ暴走しちゃうから。郁にはもっとこうして欲しいってのがあるんじゃないかって、終わってから俺、いつも不安に思う」
「佑輔クン……」
 郁也は恥ずかしさに身悶えした。
「そんな、『して欲しい』なんて。上級編過ぎて、ボクにはまだまだ無理だよ。だって」
 郁也はそこで言葉を切った。羞恥に伏せた睫毛をそっと上げると、佑輔の茶色の瞳が郁也の次の言葉を待っていた。郁也は唇を噛んだ。佑輔は待っている。
「佑輔クンになら、何をされても、触れられるだけで、見つめられるだけで、ボク、おかしくなっちゃうんだ。訳が分からなくなって、身体がかあっと熱くなって。それが凄く、凄く」
 郁也は茶色の瞳から逃れるように佑輔の頸を引き寄せた。郁也は佑輔の耳に微かに吹き込んだ。
「気持ちイイんだ……」
 佑輔の肩が郁也の腕の下でぴくんと震えた。郁也の男のコがまた甘く駆動してしまうのが、郁也には堪らなく恥ずかしい。佑輔は郁也の女のコにも男のコにもいつも優しい。佑輔の腹の辺りに甘え掛かるそれを、佑輔はそっと甘やかしてくれる。初めはそっと。郁也が天使の羽を伸ばす頃には荒々しい激しさで。そうして郁也の飛翔を促すのだ。自分の手に掛かって郁也が恩寵の光に包まれるのが、無上の喜びであるとでも言うように。
(ああ……)
 光が、降りて来る。
 かつて神様が楽園から追放した人間に、唯一残した楽園の光。
 その恩寵の光は人間の生に聖なる輝きを灯す。
「佑輔クン……!」
 郁也は佑輔の髪に指を絡め息を呑んだ。
 聖なる奇跡。
 それは郁也がこの世界で生き続けることを郁也に許したたったひとつの希望の光。
 恩寵を分かち合う。
 この世界で郁也とそれを分かち合う、たったひとりの男のコ。
 愛してる。
 愛してる。愛してる。愛してる。光の中で、その呪文が無限に積分される。爆発的な拡がりに、郁也の意識は散乱し、楽園を見る。
(佑輔クン、愛してる)
 これこそが、楽園だ。
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