5、インジゴの夜に-1

文字数 3,529文字

 月曜四コマ、「英会話B」。
 講師の先生は「世界中で最も話者の多い言語は何だか知ってますか?」と学生たちに問い掛けた。指を差された学生が「English」と答えると、彼は「No」と首を振った。
「Broken English!」
 先生はそう言って悪戯っぽく笑って見せた。
 今や世界では英語を母語としないあらゆる地域のひとたちが、意思疎通のツールとして英語を使っている。発音、語法は乱れていても、大切なのは「伝える」という意志。だから上手く表現することを考えずに、とにかく話すことを練習するべきだと彼は言った。
 そうして今日、彼は学生達に「introducing」(紹介)を訓練した。郁也にとって難しいものではなかったが、数人づつのグループで準備をしている様子、その後ひとりづつ当てられてグループ内の誰か、又は自分を紹介する様子を、講師は室内をこまめに回って採点していた。実際に英語を使って表現する能力のみならず、積極的な参加の姿勢を評価すると彼が最初の時間に話した通りだった。内気な性格の郁也だが、あんまり引っ込んでばかりいない方がよさそうだ。
 どこで覚えたのか、S1の烏飼はキレイな発音だった。やや乱暴ながら、体裁の整った言葉遣いをしていた。講師が「ほう」という顔で何やらクリップボードの内側に書き込んでいた。郁也も「へえ」と烏飼を見た。今日も彼は黒いライダージャケットを、講義中もぴったりとその身に付けていた。

 講義が終わって、バラバラと学生達が散って行く。郁也は戸口の混雑を避けるために、ひと呼吸置いてからゆっくりと立ち上がった。ひと気のなくなった廊下へ出る。曲がり角で、背後から烏飼が声を掛けて来た。
「君、英語上手いね。どこで習ったの」
 郁也は立ち止まった。
「別に大したことないけど」
 言い掛けて郁也は息を呑んだ。
 烏飼は信じられない行動に出た。郁也の尻に手を遣りぎゅっと掴んだのだ。
「そういう冗談、止めてくれない」
 得意の冷たい目を烏飼に向けて、郁也は感情を表に出さずそう言った。
「へええ」
 烏飼は郁也の氷のような視線にも全く動じる様子なく、空いた手を郁也の顎の高さで廊下の壁に付けた。
「そういうリアクションなんだ」
 いつの間にか郁也は廊下の端に追い詰められていた。烏飼はそう言いながら郁也の反応を、表情を面白そうに観察した。郁也の尻に置いた手を、烏飼は図々しく動かした。
「普通の男はそんな反応しないけどな。本当の冗談だと大笑いするか、思いっきり俺を軽蔑して殴り飛ばして去って行くか、反射的に『ぎゃっ』と叫んで飛び退くか。こういうことをされる感触に」
 そこで烏飼は言葉を切り、右手を微妙に動かした。
「余程慣れてない限りはね」
 郁也は奥歯を強く噛んだ。密接する烏飼の存在を無視するように、真っ直ぐ前を見て郁也は言った。
「何が言いたいの」
「ふふっ」
 鼻先で笑い、烏飼は郁也の耳に「素直だね」と吹き込んだ。郁也は嫌悪に鳥肌が立った。さりとて今から烏飼を力で押し退けることも出来ない。烏飼がどういう積りか分からないからだ。
「君、一度俺と付き合わないか」
 烏飼はそう言って薄ら笑いを浮かべた。郁也は真っ直ぐ前の壁を見つめたまま、肩をぴくりと動かした。烏飼は郁也の横顔を舐めるように見て、郁也の耳たぶを噛まんばかりに言った。
「言ってる意味、分かるよね君なら」
 烏飼は咽の奥で面白そうに笑った。
「君みたいなタイプ、本当は俺全然シュミじゃないんだけど。流石にそこまで可愛いと興味を惹かれるよね、そういうときどんな感じになるのかって」
「放してくれない」
 郁也は冷たい声で言った。
「ひとを呼ぶよ。男に迫ってたなんて、公になるとマズイよね」
「ああ。君もね。公にしたくないこと、色々あるでしょ。コトを大きくすれば、関係ないこともあれこれ掘り出されちゃったりするよね」
 郁也は怒りをこめて烏飼を睨んだ。
「はは、怖い怖い。分かったよ。今日はこの辺にして置いて上げる」
 烏飼は最後ににゅっと力をこめてから、ようやく郁也の尻から手をどけ身体を離した。郁也は大きく息を吐いた。
「じゃ、またね、谷口君」
 烏飼はそう言って、楽しそうに笑いながら廊下を歩き去った。
 

 ナンパ、だった。
 して見ると、烏飼はそういう男なのだろう。
 郁也はふらふらと学食へ向かった。
 このまま真っ直ぐ部屋には帰りたくない。
 佑輔は運送会社のバイトに行った。帰りは十一時近くなる。こんな後味の悪い思いであと六時間もひとりは嫌だ。それに、あんな奴に触られたまま、佑輔と暮らす部屋に入りたくない。どこかで厄落としをしたい気分だった。
 他の三人は今の時間同じ講義を取っていた。学食で待っていれば誰か現れるだろうか。
「おう、谷口。今帰りか」
 松山の声だ。郁也はホッとして肩の力を抜き、後ろを振り返った。
「松山君……」
 松山は血相を変えて飛んで来た。
「おい、どうした谷口。何かあったのか。言って見ろ」
 松山の顔を見て気が緩んだのだろうか。郁也の頬にぽろぽろ涙がこぼれた。潤んだ視界には松山と、その奥に田端の心配そうな顔が見える。橋本はいない。
「かおりちゃんは……?」
「ああ、あいつならサークルだって」
「……そう」
 彼女がいなくてよかった。あのコの耳には入れにくい。
「まあまあ、座って落ち着いて、それから何があったか話して見ろ」
 松山が郁也を学食のテーブルに着かせ、田端が温かい飲みものを買いに走る。両脇を彼らに守られて、ようやく郁也は口を開いた。
「何かヘンな、ナンパされた」
「『ナンパ』だあ? 誰に」
 勢い込んで松山が郁也を覗き込む。
「S1のひと。烏飼君っていうの」
「何て、言われたんだ」と田端がそっと尋ねた。
 郁也は田端の持って来てくれたココアをひとくちすすった。
「ホントはお前なんかシュミじゃないけど、そんなに可愛いと興味が湧くって」
 お尻、触られた……。郁也が消え入りそうな声でそう訴えると、松山は逆上してその場に立ち上がった。
「何つーハレンチなっ! ナンパってより、それじゃ痴漢じゃねえか。油断も隙もあったもんじゃねえ。許さんぞ。もうそいつがお前に指一本触れられねえように、同窓の連中に招集かけてやるっ」
「そうだよ。可哀想に。随分酷いこと言われたね。失礼だよそいつ」
 田端はそう言って、郁也のココアのカップを持つ手が震えないように、横から支えようと手を伸ばし掛けた。その手はあと数センチのところで止まり宙に浮いた。
「東栄出身者はこの大学にゃ多いんだ。そん中には、後生大事にお前の画像を持ち歩いてる奴だっている。お前のためならみんな喜んで飛んで来るぜ」
 松山は嘘か本当かそんなことを郁也に言った。郁也を安心させるため真剣な面持ちの松山に、郁也はようやく微笑み掛けることが出来た。
「……ありがとう」
 ひっくとしゃくり上げて、郁也は深呼吸した。
「ごめんね。もう大丈夫」
「無理するなよ。俺たちならいいんだから」
 田端が優しくそう言った。郁也はそちらにも頷き掛けて、「ありがとう」と礼を言った。
「ココア、ご馳走さま」
 田端は大きくかぶりを振った。

 松山が、同じく田端の差し入れたコーヒーを飲んで言った。
「いやあ、それにしても。いるんだなあ、そういう奴」
「そういう奴って?」田端が松山の顔を見上げた。
「いや。谷口のこと『シュミじゃない』って言ったんだろ、そいつ」
「うん」
「確かにアレだよな。男が好きな奴からすれば、お前みたいのは男っぽくなくて、好みではないんだろうな」 
「え……」
 郁也は暗い顔をした。
「あ、いや。ひとそれぞれ。ひとそれぞれだから。そういう奴もいるってこと。だがそいつがお前に失礼なことを言っていい、ってことにはならないから。それはそれ。これはこれ。な?」
 松山は妙に慌てて弁解した。
「……うん」
 郁也は自分が何故こうもショックを受けているか、分かり掛けて来た。
 烏飼がゲイなら、その彼が食指を伸ばした郁也、それも男だ。
 男のコばかりの中で、ただひとり「女のコ」扱いされて大事にされるのとは違って。
 郁也はもはや男のコとして選ばれたり選ばれなかったりする存在だ。郁也はもう「男」なのだ。
 佑輔が側にいてくれる限り、自分が男でも女でも大して変わりはないと郁也には思える。
 しかし、社会的に自分の存在が明確に「男性」として規定されてしまうと。
 郁也の中の女のコには、それはとてもショックなことだったのだ。
 だが、それはいつかは乗り越えなければならない壁である。遅かれ早かれ、この壁は郁也の前に現れることになっていた。
 ただ現実にそれにぶち当たってしまったことが。
 それが郁也の中の女のコには、ちょっとばかり痛かった。
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