9、女神はウルトラマリンの裳裾を引いて-1

文字数 3,597文字

「とにかく、体重が元に戻るまで佑輔クンはバイト禁止!」
 後で体重計買って来るから。郁也は佑輔にそう言いつけた。
 申し訳ないが、男のプライドは脇へよけて置いて貰う。
 プライドで身体壊したりしたら、ボクが許さない。
「もしボクに贅沢させたいんなら、学生が終わってからにして頂戴。いいね」
 佑輔は渋々首を縦に振った。
 本当は、郁也に余り時間がないことを、佑輔は知っている。だから焦っていたのだ。郁也はそれに気付いていた。郁也が本心ではそれを気にしているのを、佑輔が哀れに思っていてくれることを。
 どこまで優しい男の子だろう!
 でも、優し過ぎて、限度を知らない。このひとの暴走を止められるのは自分だけだ。今度暴走しそうになったら、ボクが止めて上げなくちゃ。
 佑輔の過労を知った運送会社は、事務的な作業に回すので来いと言ってくれた。だが郁也は首を縦に振らなかったので、佑輔は切りのいい今月いっぱいで終了させて貰った。居酒屋は当然あのままバックレだ。玉ねぎも体力勝負なので駄目。
 ふたりの生活費は、当分親からの仕送りと、郁也のバイト代で賄うことになる。佑輔の仕送りなぞ雀の涙で、概ね郁也の金だ。
「ボクのバイトの日は、佑輔クンがご飯作って待っててよ。そしてボクにいっぱい優しくして。それだけでいいから」
 微妙なプライドが動き出さないよう、郁也は徹底的に佑輔に甘えた。佑輔も素直に郁也に尽くした。恩寵の光はふたりの紐帯をきつく、強くする。
 橋本はあれ以来、郁也に近寄って来なくなった。入学して数週間、そろそろ他の知り合いも増え、理学部に少ない女のコ同士のネットワークを構築しつつある様子である。時折郁也が視線を感じて振り向くと、その先に橋本の姿があった。まだ完全には気持ちを切り替えられずにいるようだ。
 田端は突然彼らと距離を取る橋本に、初めは当惑したようだったが、何かあったのを察したらしく何も言わずにいてくれた。郁也や松山と一緒にいることもあったし、増えつつある他の友人と行動を共にすることもあった。郁也のいるところには来ない橋本を気遣って、彼女と座ることもあった。全く何事もなかったように振る舞ってくれた。


 矢口に呼ばれて、彼の夜景自慢の部屋へ行った。場所を知る松山が先に立って郁也と佑輔を案内した。
「えっ? こんなところ?」
 郁也が驚きに声を上げた。松山がずかずか上がり込もうとしているのは、この都会のほぼ中心部、彼らの入学式が行われた会場に近い、この街のシンボルとも言うべき公園通りから一本入った、超高級マンションだったからだ。真志穂も凄い処に平気で住んでいるが、これは酷い。松山はしれっとした顔でインターホンを鳴らした。応答があって扉の鍵がかちゃりと開いた。
「何だかメンドくせえな」
と佑輔が不満を漏らした。
「うわあ。キレイだねえ」
 エレベーターは外壁に面した部分がガラスで出来ていて、すーっと小さくなっていく街並に郁也は歓声を漏らした。夕暮れは街の輪郭を紅に染め、巷にネオンが瞬き始めていた。郁也は佑輔を振り返った。佑輔は頷いて一緒に外を眺めた。
「よお。悪かったな、こんなところに呼び付けて」
 矢口は相変わらず上機嫌で部屋の扉を支えた。「靴は脱ぐのか」と訊ねる佑輔に、「ははは。一応日本のマンションだから」と苦笑して上がり框にスリッパを出した。
「じゃ、失礼します」
 台所から女性が頭を下げるのに、矢口は「ありがとうございました」と丁寧に答えた。地味な色合いの着物に結い上げた髪。歳の頃は三十代前半か。口調は丁寧な割に見送りもしない矢口に、松山は目を剥いた。
「お前、ストライクゾーンが広いにも限度があるんじゃないか」
「ばーか。違うよ。あれは俺じゃないよ」
「は?」
「俺じゃなくて、俺のオヤジ。オヤジの女だよ」
 矢口が言うには、政界入りを狙って地域の産業界への食い込みを強くしたい矢口の父が、この都会に居を構えてから懇意にしている女性とのことだ。関係が浅いだけに少しでも絆を深めようと、息子の方にもあれこれ親切にしてくれるらしい。今夜も友人が集まると聞くと、料理の用意を買って出てくれたと矢口は言った。
「彼女も必死なんじゃない? 単身赴任中の男に刺さり込んでいい目見たいんでさ」
 矢口はテキパキと飲みものを並べた。
「俺は別にピザでも取ろうくらいに思ってたんだけど」
 郁也はそれを手伝いながら、淡々と解説する矢口の表情を見ていた。

 矢口が女のコに対して距離を置くのは、周囲の大人たちの行動に幻滅したせいかも知れない。所詮男と女とはそういうものだと、憧れるより先にいろいろと知ってしまって。何人もの女のコと付き合っても、矢口はきっと郁也の見ている楽園は知らない。郁也を高みへと引き上げる、あの恩寵の光は彼を照らさない。あれは本当に好きなひととじゃないと、駄目だ。郁也は矢口が気の毒になった。
「いやあ、たまには女抜きってのも、寛げていいよなあ」
 ノンアルコールでの乾杯の後、矢口が心からリラックスしたようにそう言った。郁也は噴き出した。傍らでは佑輔もにやっと笑っている。松山がひとり憮然としていた。
「全く、お前らがそうやって資源を無駄遣いするお蔭で、俺たちがいかに迷惑してるか、考えたことあるのか」
 女なんて無尽蔵に湧いて出るもんじゃないんだぞ、と松山はむすっとしてグラスを上げる。
「はは。悪い悪い。別に俺、口説いて回ってる訳じゃないんだけど。気が付くと何だか囲まれてるんだよな。ところで『お前ら』って、俺と誰?」
 松山は更にむっとした顔で、郁也を顎で示した。
 郁也の表情が曇る。

 大通りから一本入っただけなのに、この一室は都会の喧噪から無縁だった。窓からは都会の街並みに食い込む山が見えた。夜景で有名なこの山にはロープウェイで登れる。その頂上で夜景を見ながら口づけしたふたりは永遠に結ばれるという都市伝説が、そういうことに疎い郁也の耳にも入っていた。観光名所だ。そこから視線を左に移すと街一番の繁華街。ビル群が立ち並び、あの日郁也が見つめた観覧車がここからも見えた。
 矢口はグラスを片手に頷いた。
「……ああ。佳織姫ね」
「矢口君、いつから気付いてたの」
 郁也は静かにそう訊ねた。矢口は上目で郁也をちらっと見てから、グラスの縁を舐めながら言った。
「初めから『ああ』とは思ってたよ。佳織姫、お前に話し掛けられる度に嬉しそうにしてたからな。だけどこの間、ふたりで店に来たろ? あのとき」
 矢口はそこで言葉を切った。郁也が小さくなって続く言葉を待っている。矢口のグラスが空になった。佑輔が促すようにグラスを満たした。
「お前のあの完璧な王子さま振り。俺、思わず谷口は宗旨替えしたのかと疑ったよ」
 あれじゃあ普通、女は落ちるわ。矢口はそう言って溜息を吐いた。
 郁也は傍らの佑輔へ視線を走らせてから、下を向いた。
「そう……かな。ボク、自分では分からないんだ。ただ、あの時点では男のコっぽい方がいいかなと思っただけで」
「成る程な」
 矢口は大きく頷いた。
「谷口はさ、男のコとして自分が取るべき行動をと思うと、無意識に女のコがそうして欲しいような理想の男のコを演じてしまうんだ」
 無理もないよな、お前、中身は女のコなんだから。矢口は揶揄うのではなく、いたわるように郁也にそう言った。
「宝塚に女がはまるようなものか」と佑輔が呻いた。「ああ、上手いこと言うな」と矢口も同意した。
「宝塚かどうかはともかく」
と松山が鶏の唐揚げを口に放り込んで言った。
「これ以上女がこいつに迷わないようにしないと。堪ったもんじゃねえよ。なあ瀬川、お前もそう思うだろ」
「……まあ、お前がそう思う理由とは、一〇〇%違うだろうけど」
 佑輔が自分のペースでむしゃむしゃやると宴席が台無しになる。遠慮しながら取り皿にとった枝豆を大切に咀嚼していた。
「女のコからそういう意味で好かれるの、こいつにとっては嬉しいことじゃない。避けられるものなら避けて欲しいよ。な?」
 佑輔は郁也を振り返った。このメンバーに隠すことはもう何もない。佑輔に見つめられて、郁也の頬はふっと熱くなる。
「……うん」
 その様子にやれやれと首を振ってから、矢口が腕を組んだ。
「谷口もさ、俺たちに対しては別に誤解を招くような態度はしないじゃない。こういうニュートラルな状態で女のコにも接するといいんじゃない」
「ニュートラル……?」
 郁也は首を傾げた。
「いや、それはこいつの場合、単にお前らには慣れてるってだけだと思う。こいつ、極端に人見知りだからさ」
 松山が反論した。
「けどこいつの周りの人間全てに、俺たちみたいに三年以上も付き合うのを、待ってて貰うのは不可能なんだから。その間に変な誤解されないようにはどうしたら、っていうのが問題なんだろ」
 確かにその通りだ。四人とも手に手にグラスを持って黙り込んだ。

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