7、グラスグリーンに匂う風-4

文字数 5,025文字

「あいつ、まさか電源切ったりしてねえだろうな。ああ、えーと。『本日晴天なれども波高し。二コマ終了後直ちに三人分の糧食を確保の上、図書館裏に来られたし』と。こんなもんだろ」
「暗号電文にでもした方が、感じ出そうな文面だね」
 郁也は笑った。松山は「俺ってセンスいいだろ」と得意げに胸を張った。
「理系にしとくのは惜しい程のセンスだからな」
「あ!」
 郁也の顔がパッと明るくなった。
「ボクもそう言われたよ、中野君に」
「おお、それそれ。中野サン、頑なに文系上位論者だったからな」
 彼らと同期の美術部の中野は、文系学問を「人類の英知を検証する学問である」として、所謂実証科学の上に位置づけていた。実証科学の実証が何を実証しているか、検証する機能を持つメタ科学である、と言うのだ。 
「偏った、面白いヤツだったよな」
「多分、一生あんな感じだよ。ボクと同じクラスになった中等部の頃、十二歳で既に彼はああだったからね」

 ざわざわと遠く学生たちの話し声が聞こえた。早めに切り上げる先生の講義が終わった頃合いなのだろうか。松山は時計を見た。そろそろだ。何があったかと血相を変えて、三人分の弁当を抱えてあの角から、佑輔が掛けて来る。郁也は待ち遠しく感じた。松山がくれたティッシュで頬を拭いて、前髪を整えた。涙で顔に張り付いた髪の筋を、元の位置に戻してやる。仕上げに睫毛をパチパチ動かした。
「女のコだねえ」
 松山が感心した。
 泣いてたのはバレちゃっても、あんまりブスな顔は見せたくないんだ。だって、千年の恋が、冷めちゃうからね。

 果たして、佑輔は乗って来た自転車を半ば蹴飛ばすようにして駆けて来た。手には学生生協で買って来た弁当の袋。
「おーい。どうしたあ。何があったんだ」
 佑輔は大きく手を振った。ぐんぐん近付いて来る。背の高い佑輔は、リーチも大きい。 
「おお、待ったぞ瀬川」
 座ったまま佑輔を見上げる松山の顔も見ずに弁当の袋を押し付け、佑輔は郁也の前に膝を付いた。
「どうした、郁。泣いたのか。何があった。郁?」
 周りには松山の他誰もいない。佑輔は肩に掛けた鞄を放り出して、両手で郁也の顔を挟んだ。
「郁? どうしたんだ。ん?」
「佑輔クン……」
 今まで泣いていて腫れた顔を佑輔に覗き込まれ、郁也は恥ずかしくて死にそうになった。
「そんなに、見ないで。恥ずかしいから」
 消え入りそうな声でそう言って郁也は目を伏せた。郁也が答えないので、佑輔は郁也の頬に手を当てたまま、松山を振り返った。
「松山、お前、こいつに何か言ったのか。何でこいつ、こんなになってるんだ」
「さあな」
「答えろよ」
 佑輔は鋭い目で松山を睨んだ。
「レシートあるか」
「ああ?」
「レシートだよ。あるなら早く出せ」
 佑輔は財布から白い切れ端を出し、松山が腕を伸ばしてピッとそれを奪った。松山は三人分の弁当代を端数切り上げで佑輔の財布に突っ込んだ。
「何だよこれ」
「迷惑料、いや、権利料かな。お前のいないところでこいつが泣いて、それに俺は居合わせたから。迷惑なのはこっちだけど、一応、お前の権利を尊重するってことで」
「分からんな」
「分からないのはこっちだ。それより、そいつ随分盛大に泣いてたから、きっと腹空かしてるぜ。解放して、食わしてやれよ」

 空腹なのは佑輔も同じだったらしい。佑輔は買って来た弁当のひとつを取って蓋を開け、郁也に手渡してもうひとつ取った。郁也が照れ臭そうに箸を付けるのを確かめてから、佑輔は勢い良く自分の弁当を食べ始めた。郁也は弁当を食べる佑輔の口許を見守った。いつもの佑輔のように食べている。郁也は安心した。少しお腹が空いたのを感じた。
「ちゃんと食えよ谷口。腹減ってると余計に悲しくなるぞ」
「うん。食べるよ」
 郁也は頑張って口を動かした。佑輔が松山の顔を見た。
「松山……」
「俺がこいつを見付けたのは、二コマに向かう教養の前。こいつが泣きながら俺にぶつかって来たので、俺コケそうになったんだ。見たらこんなだし、言ってることは支離滅裂だしで、とても講義には出られそうにないと判断して、ここで話を聞いていた。何を話したかはそいつから聞けよ」
 郁也は箸を止めた。張り詰めた顔で佑輔の方を向いた。
「佑輔クン、ごめん。ボクたちのこと、かおりちゃんに知られちゃった。佑輔クンの着てるそのシャツをボクが着てたこと、彼女覚えてたんだ」
「これか?」
 佑輔はグリーンの生地を指先で引っ張った。
「うん。何故だか彼女ショックを受けてて。ボクらのこと、そんなにインパクトあるかしらって思ってたら……」
 郁也はその先を口籠もった。郁也がぐずぐずしていると、松山が横からあっさり言ってしまった。
「橋本のヤツ、こいつに惚れてたんだって」
「……ああ」
 佑輔は頷いた。郁也は勢い良く佑輔に迫った。
「『ああ』って何。佑輔クン、かおりちゃんの気持ち、知ってたの」
「まあな」
 佑輔は気まずそうにそう答えた。

「どうして知ってたのに、教えてくれなかったのさ。矢口君と言い、佑輔クンと言い。そんなにボクがぼうっとしてるの、見てて面白かったのかよ。かおりちゃんが報われない相手にのぼせてるの、見てて楽しかったの」
 郁也は拳を握り締めて叫んでいた。また涙があふれていた。ぜいぜいと肩で息をして、郁也は佑輔を睨み続けた。佑輔はちらっと郁也を見て、ぼそっと「弁当、引っくり返すぞ」と言った。郁也は膝の弁当を傍らへよけた。郁也は再び叫んだ。
「どうして。どうしてなんだ! みんな、ボクのこと『女だ』『女だ』って嫌な顔して。自分のこと女のコだって納得したら、身体はどんどん育って来るし、今度は男のコであることを要求される。ボクが男のコと住んでたら、『酷い』って詰られる。ボクは一体どうしたらいいの! ボクがどうすればみんな気が済むんだ! 『酷い』だなんて、酷いのはどっちだよ。もうボク、ボク……」
 郁也はその場に崩れ落ちた。
「ボク、もう、疲れたよ」
 膝の上に丸くなって、郁也は声を殺して泣いた。腹が立っていた。怒りが郁也の身体中で膨れ上がって、もう閉じ込めて置けなかった。郁也が叫ぶ言葉の端々から、膨れ上がった怒りがあふれ出した。怒りは後から後から溢れてくる。嚙み締めた唇からは血の味がした。
「郁……」
 佑輔が郁也の肩にそっと触れた。郁也はそれを乱暴に振り払った。
「どうして知ってて、気付いてて黙ってたんだよ」
 郁也は佑輔にも腹が立っていた。
(佑輔クンの馬鹿。馬鹿。キライ。だいっキライだ)
 溢れてくる佑輔への怒りには、橋本の気持ちを知っていて黙っていたこと以外のものが含まれていた。郁也はそれを気付いていた。佑輔は郁也に何も言ってくれない。何も。
「佑輔クンは、ボクに何も言ってくれない。かおりちゃんのことだけじゃないよ。いっつも、何も。ボクなんかには、言っても無駄だって思ってるんだ!」
「郁」 
 佑輔は悲しそうにおろおろした。そんな顔しても駄目だ。そんな顔すれば、そしてちょっと抱き締めれば、ボクなんて軽く誤魔化せると、思ってるんでしょう。佑輔クンなんて。郁也は佑輔を追い詰めようとした。口を開いた。それを言ってしまっては、戻るところに戻れなくなる。そんな最後のひとことを、郁也は口にしようとした。
「……」
「谷口。お前ちょっと落ち着け」
 松山が郁也の開いた口許に、横からぐっと手を伸ばした。松山はそのまま、レフェリーが絡まり合った選手を離すように、郁也と佑輔の間に入った。

 郁也の顔の前に腕を突き出して、松山は郁也に言った。
「弁当食えよ。残ってるぞ。腹空かしてるから頭に血が昇るんだ」
 松山は次に首を回して、佑輔に視線を向けた。
「瀬川。お前もお前だ。幾らこいつのことが好きでも、こいつの話を黙って聞いてるな。こいつのアタマの中は女だぞ。感情が先走ったら理屈なんて飛ぶんだ。普段の明晰なこいつじゃなくなるんだから。適当なところでストップ掛けてやれ」
 佑輔は面白くなさそうに黙って頷いた。郁也はおかしかった。松山は大真面目だが、郁也がこんなに暴走したのは松山がいたからだ。普段なら、ふたりだけなら、とっくに止まってる。どちらかが相手の身体に腕を伸ばす。抱き締められたら、もうその先何も言えなくなるんだから。郁也はくすくす笑った。笑っているうちに、どんどんおかしくなって来て、遂に郁也は腹を抱えてゲラゲラ笑っていた。
「あはははは。あーっはははは」
 佑輔の顔を引き攣らせていた緊張が、少し緩んだ。
「……郁?」 
「あははははは。ごめん。ごめんね佑輔クン。ボク、ボクねえ」
 郁也は尚も笑い転げた。女学生が箸が転がったのを目撃してしまったように、笑い続けて止まらなかった。
「あはははは。ごめん。最後の方は明らかに八つ当たりだったね。あはははは。ごめんね佑輔クン」
「郁……」 
 佑輔はほっとしたように肩の力を抜いた。そのままさもおかしそうに笑い続ける郁也の肩をそっと擦って、「俺の方こそ、黙ってて悪かったな」と謝った。

 松山が、
「それは謝るところじゃないだろう。無闇に甘やかすなよ」
と割り込んだ。
「松山……」
「谷口お前、少し冷静になれ。もしな、例えば橋本が誰か他の、そう、例えば矢口辺りを好きになったとするぞ。そして矢口にはもう決まった誰かがいるとする。橋本とは全く違うタイプの女だ。橋本には万に一つの望みもない。じゃあ、お前は矢口にそのことを話すか? まあ、矢口ならとっとと自分で気付いちまうだろうから、この場合の例として適切でないかも知れないが、気付いてないとして、お前喋るか?」
 郁也は笑い止めた。ガラス玉のような目を松山に向けた。
「言わないよ」
「どうしてだ」
「諦めるか想い続けるか、それを決めるのはかおりちゃんだけど、見込みのない相手自身に周りから伝えられるのは、幾ら何でも惨めだ」
 松山は大きく息を吐いた。
「どうしてそこまで分かってて、あんなヒステリーを起こせるんだ。お前、瀬川が可哀想だと思わないのか」
「思わない」
「谷口!」
 松山は郁也を叱り付けた。聞き分けのない妹をたしなめるように。郁也の目は変わらず何の表情もなく、ただ黙って松山を見上げていた。
 佑輔が松山と郁也の間に入った。
「松山。ありがとう。俺たちのことを、こいつのことを本気で考えてくれて。こいつもな、ただ橋本のことだけだったら、こんな風にはならないんだよ。こいつ」
 佑輔はそこで言葉を切って、郁也の肩に腕を回した。
「これまで色々苦労して来てるから。それで、ちょっとナーバスになってるんだ。それだけだよ。」
 俺が、悪いんだ。佑輔はそう付け足した。松山は、佑輔にそこまで言われては引くしかなくなり、むっつりと押し黙った。

「そうか。お前が悪いのか」
「松山?」
「よし、分かった」
 松山は腰に手を当てて胸を反らした。
「お前ら、三コマは出ないで部屋に帰れ。代返はしといてやる。瀬川、今日はバイトは?」
「ああ、入ってる」
「じゃ、適当な理由付けて休みにしろ。ふたりで部屋でゆっくりして、ようく話し合え。さっきの谷口の言葉からは」
 松山はそこで大きく息を吸った。
「谷口が聞きたいと思っていることを、瀬川が黙ってひた隠しにしてることが核心のように聞こえたぞ」
 松山君て、結構鋭い。流石ボクのお兄ちゃんだ。松山君みたいなひとを好きになればよかったのかなあ。でも、松山君は絶対、ボクを抱き締めてくれない。
 佑輔は立ち上がった。膝を丸めてうずくまる郁也に、骨張った手を差し出す。郁也の大好きな佑輔の手。だが、郁也はその手を取れなかった。自分ひとりで立ち上がった。宙に浮いた佑輔の手。佑輔は凄く悲しい顔をしてそれを引っ込めた。
(ごめん。ごめんね佑輔クン) 
 郁也はまた泣きそうになって、唇を嚙み締めた。今はまだ、そのときじゃない。

 佑輔が自転車を引いて来るのを待って、郁也は鞄を持ち上げた。
「じゃね、お兄ちゃん」
「おう。ちゃんと話し合えよ。どうしても埒が明かなかったら、そのときは俺を呼べ。今日はケータイ、ずっとONにして置くから。何時になってもいいからな」
「うん。ありがと」
 ボクら、草壁先生には面割れてるから、代返はしなくていいよ。
 松山は郁也が辿り着くのを待っている佑輔に、「チャンスは一度だからな。ルールはあのときから、変わってないぞ」と叫んだ。佑輔は首を縦に振ったようだった。
 郁也は白いタンポポを踏み分けて佑輔の自転車へと歩いた。
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