6、揺れるジョンブリアンの裾-2

文字数 4,274文字

 三コマ目を五人で取れば、その後佑輔はバイトに向かう。郁也は大学の廊下の端、烏飼と顔を合わせる「英会話B」だ。
 次に失礼なことされたら、今度は張り倒してやる。郁也は腹に力を入れて講義室へ向かった。
「Hallo, everyone. Today, we have training about...」
  講師が軽快な口調でレッスンを始める。郁也は講義の内容に集中しようとした。
 途中何度か、烏飼が講師の質問に答えた。てきぱきとして的確な返答だ。講師は全員、といっても二十人を切る程だが、学生たちの実力を把握したらしく、それぞれに適したレベルの質問を振っているようだ。郁也も幾つか質問された。手加減なしのスピードに郁也が何とか答えると、講師は「Exellent!」と手許に何か書き込んだ。
 郁也は父が好きだった。年に何度かしか会えない父に甘えるため、郁也は子供の頃から英語を練習したものだ。お蔭で郁也は恐らく、母が学生時代経験したような苦労を味わうことはないだろう。それは両親に感謝した方がいいかも知れない。
 講師と淀みなく英語で会話する郁也を、講義室の反対側から烏飼がじっと観察していた。

 講義が終わった。郁也はそそくさと道具を片付けて、混雑する戸口を廊下へ出た。松山と田端が廊下の壁に凭れて郁也を待っていた。郁也がそちらへ行こうとすると、背後から肩を掴まれた。烏飼だ。
「そう慌てて、どこへ行くんだい、谷口君」
 烏飼は不敵に笑っている。松山が郁也の肩から烏飼の手を払い除けた。
「おおっと。こいつに気軽に触るなよ」
 烏飼は松山と田端の存在に気付いた。
「……へえ。君ら、谷口君の『お友達』かい? 素敵だなあ。俺も仲間に入れてくれよ」
「そんなんじゃねえよ」
 松山は低く唸った。
「このコはちょっとシャイなんでね。そう構われるとキンチョーしちゃうんだよね」と田端が髪をさらっとかき上げて烏飼に笑い掛けた。
「そうそう。だからあんまりしつこくしないでくれるか、悪いけど」
 松山が烏飼に鋭い視線を送る。
「こういうことは言いたかないが、俺たちを敵に回さない方がいい。数を頼むのは卑怯もののすることだが、はっきり言って人数は多いからな」
「『俺たち』って、誰のことだい?」
 烏飼は薄ら笑いを崩すことなく松山に尋ねる。
「……俺たち『東栄八十六期』だ。こいつのためなら骨身を惜しまない上の代も大勢いる」
「君たち東栄学院か」
 烏飼は目を輝かせて皮肉に笑った。
「へええ。東栄学院には伝統的に『ある』って言うもんねえ。いいなあ、男の園かあ。天国だね。羨ましいよ。谷口君に何かあると、そうやって君らは飛び出して来るって訳だ」
 松山はぶるっと身体を震わせた。
「冗談じゃねえよ。おかしな言い方するなよな」
「冗談だよ」と烏飼は笑った。
「俺は彼がバイト探してるのを見掛けたので、役に立てるかもと思っただけさ。金が要るんなら、そこらでちんたら『いらっしゃいませー』とかやってんの、馬鹿馬鹿しいだろ。谷口君なら」
 そこで烏飼は田端の背中に隠れるように震えている郁也に視線を向けた。
「効率良く稼げるよ。俺が保証する」
「別にこいつは金になんか困ってねえよ」
「へえ、そうかい」烏飼はそう言った松山には目もくれず、「じゃ、『誰』が困ってるのかな」と郁也を横目で見てくすくす笑った。郁也は拳を握り締めて真っ赤になった。田端が心配そうに「谷口?」と声を掛けた。
「残念だなあ。君って逸材なんだけど。まあ、気が変わったらいつでも言ってよ。きっと力になれると思うよ」
 烏飼は郁也に向けて片手を挙げ、誰もいなくなった廊下を悠々と歩いて行った。
「『逸材』? どういうこった」
 松山は訝しんだ。
「こんな我が儘で、気難しくて、愛想のひとつもないヤツに、何を遣らせようってんだ」
「それは幾ら何でもあんまりじゃないの」
「その通りだろ。何か反論出来るのか」
「うう」
 松山と郁也の掛け合いに、苦笑しながら田端は言った。
「少なくともマトモな意味合いのバイトじゃ、ないようだ。関わらない方がいい。いいね、谷口」
 言われなくとも。誰があんな奴に。


 橋本は少しづつキレイになって行った。
 垢抜けつつあった、というのが正しい。
 講義とサークルという新しい生活の流れに慣れ、彼女はサークルの先輩に紹介して貰った採点のバイトを始めた。その収入で、橋本は一枚、また一枚と洋服を買った。手持ちのものとの組み合わせを考えるようになり、郁也に助言を求めつつ、橋本は徐々に年相応にキレイなひとりの女性になろうとしていた。
 或るとき、彼女は郁也に小さな声でこう言った。 
「昨日、サークルの先輩に告白されちゃったんだ」
「へええ。で、かおりちゃんは何て答えたの」
 郁也のそのリアクションに、橋本はぐっと口を閉じ黙っていたが、しばらくして、
「答えられないよ。だって、あたしその先輩のこと、そんな風に思ってなかったもん」
と早口に言った。
「なら、ちゃんとそう言わなきゃ駄目だよ。中途半端に期待持たせたままにするのが、一番罪重いんだからね」
 橋本は俯いて、「……うん」と答えた。
 素直なその返答に、郁也は笑って頷いた。
「よしよし、いいコだ。慌てなくても、そのうちきっと素敵なひとと出会えるよ。そうしてかおりちゃんが本当にいいと思ったひとが現れるまで、どうでもいい男は遠去けて置くんだね」
 橋本は顔を上げた。
「じゃ、郁也くんは? 郁也くんも遠去けなきゃ駄目?」
「ボクは……」
 郁也は面食らった。
「ボクらは『お友達』でしょ。あ、でも、ボクがかおりちゃんの周りにいると、素敵なひとの出現を邪魔しちゃうかな」
 離れてよっか。郁也は悪戯っぽくそう笑った。
 橋本は答えなかった。

 無言で肩を並べて歩きながら、郁也は先日の橋本の言葉を頭の中でなぞった。
 橋本は疑問に思っていた。郁也がヒールのある靴でスムーズに街を歩くのを見て、ああいう格好に慣れているのかと後で訊ねた。
 あの土曜日。橋本との約束の前に、予備校の面接を終えた郁也は真志穂とひと足早く待ち合わせた。
 学院を卒業して都会にやって来て、郁也のことを知るものはより少なくなった。ここでなら、郁也はしたい格好で外へ出られる。春物の服も買った。だが靴は一足、生まれて初めて一昨年買った、白いパンプス一足切りだった。
 真志穂は自分の買い物の合間に郁也に言った。
「もう一足くらい、買っちゃいなよ。白いのの次は、黒いのがあるといい」
 真志穂はそう言って、郁也のために選んでくれた。光沢のある黒い細い紐が幾重にも組み合わさって、きらきらとシルバーとガラス玉の飾りがついていた。ヒールの高さも五センチくらい。これなら許容範囲だった。
 郁也は服は真志穂のを着せて貰い、靴はその日買ったそれを履いた。隙間から肌が覗き、紐が絡み付いた足首を強調するデザイン。大人っぽくてセクシーな感じ。
 松山が橋本に見せた画像には入っていないが、あのとき郁也が履いていたブーツのヒールは八センチあり、郁也はそれで四キロ歩いた。確かにヒールで歩くのは慣れていた。
 橋本の疑問は松山が上手く誤魔化してくれたが、郁也は橋本になら知られても構わないと思えた。いずれはボクのこと、かおりちゃんには知って貰いたい。そうした上で、本当に友人になりたい。今はまだ隠していることが多くて、郁也は橋本に申し訳ないように感じていた。
「じゃね」
 橋本は体育館へ向かう分かれ途で、郁也にそう手を振った。
「うん。またね」
 郁也も笑って首を傾げる。
 女のコの、友達だ。


 風は暖かみを増し、五月になった。
 日蔭に残る無残に汚れた雪の塊もなくなった。
 郁也が佑輔と住む部屋から大学への道は、途中に広がる大学の実験農場のせいで有機肥料の臭いがした。風物詩だと佑輔は笑った。
 時に風に煽られて、吹き付ける土埃が目に入る。
 佑輔は自転車を買ってもいいかと郁也に訊いた。
「勿論だよ。『いいか』だなんて。佑輔クンの働いたお金じゃない」
「俺の稼ぎばかりじゃないからな」
 郁也は結局家庭教師一軒と、予備校では中学生の数学二コマプラス自習講師を週に数時間、計平均四万五千円程度の収入を得られる見込みであった。佑輔の稼ぎには及ばないが、郁也にとっては精一杯だ。
 移動時間が短縮されれば、効率が上がる。佑輔は言った。
「運送会社もさ、終わってからポイント毎に俺たちを下ろしていくだろ。真っ直ぐチャリで帰れば、もっと早く部屋に着くんだよな」
 大した距離でもないんだし。そう佑輔は腕を組んだ。それに佑輔の学部は農学部で、教養からは少し距離がある。専門の講義が混じる度、佑輔は駆け足で農学部へと急がねばならなかった。

 近所のスーパーへ、自転車を見に行った。佑輔は置かれている中で一番値段の安いものを選んだ。お買い物用の所謂ママチャリだ。郁也はスポーティな、佑輔に似合いそうなものを見ていた。佑輔は笑った。
「いーんだよ、こんなんで」
 帰り途、買い込んだ食料を抱えた郁也を荷台に載せて、佑輔は自転車を漕いだ。郁也は照れ臭くなって、故意と鼻で笑ってこう言った。
「何か、『青春』って感じだねえ」
「当たり前だろ。青春だもん」
 佑輔の返事は屈託がない。郁也は嬉しくて、佑輔の背に寄り掛かりその幸せを嚙み締めた。自分の足が目に入る。この身に付けるのがパンツでなくて、ふわりと拡がるスカートだったら。布をたっぷり使ったスカートが風を受けて、時折ひらひらと郁也の白い足が覗く。足許はきっと白いソックスにベルトの付いた茶色い靴か何かで、小花柄のブラウスと髪にはリボンが揺れる。
 心の中で思い描くのは、いつもそんな女のコの自分。
「ねえ、佑輔クン」
「んー?」
「今度生まれて来るときは、ボク、絶対女のコになる。女のコになって佑輔クンを探すから。見付けたら、ボクをお嫁さんにしてくれる?」
「俺も女になってたりして」
「二回続けてそんなのなんてヤダよお!」
 郁也は悲痛な叫び声を上げる。佑輔が愉快そうに腹の底から笑った。 
「あはははは」
「もう。ひどいよ佑輔クン」
 佑輔はしばらく笑っていたが、郁也に背中を叩かれて嬉しそうに身体をよじった。「ははは。……嘘だよ」
 佑輔の自転車は風を切って四つ辻を曲がった。ふたりの身体が遠心力で傾いて、郁也は慌てて買い物袋を握り直す。
「俺の方が、きっと先に見付けるよ。迎えに、行くから」 
「……うん」
 涙がこぼれそうになって、郁也は目を伏せた。ひとたちには分からないよう佑輔の背に頬を寄せて、郁也は呟いた。
「きっと、だよ」
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