1、春の午後は淡くオレンジ-3

文字数 2,151文字

「落ち着いたら、俺、バイトするから」
「佑輔クン……」
 家賃は折半でと主張した佑輔を、郁也の母淳子は軽くいなした。
(このコがまた馬鹿をしでかさないように、見張っていてくれるだけでいいのよ。どうせこのコがひとりで暮らしてもそのくらいのお家賃は掛かる訳だし、安心料ってことで、そこはあたしに負担させて頂戴)
 淳子はそう言って、家賃の引き落としに自分名義の口座をさっさと登録してしまった。郁也とそっくりな淳子にそう言って微笑まれると、佑輔はもうぐうの音も出ない。
「元から俺、苦学生覚悟の進学だしさ。ウチの親が俺を東栄学院に無理して入れたときから、決まってたことだから」
 親の脛ももう食い尽くしたよ、俺。佑輔はそう言って笑った。
 郁也の胸はきゅっと痛んだ。

 郁也はこの春、母のカードの家族会員用のを一枚手渡された。
 あなたはあんまり丈夫じゃないんだから、あんまり無理しないで、お勉強をちゃんとしなさい。淳子は郁也にそう言って聞かせた。受験勉強は余りするな、と口を酸っぱくして言い続けた淳子は、初めて郁也に「勉強しろ」と言った。
(或る程度ちゃんと勉強しないと、自分が何をやりたいか見えて来ないから)
 淳子は、郁也のような困難を持つコが周囲と摩擦を起こさずやって行くのに、研究者になることを勧めていた。少なくとも、大学院への進学は既定路線だった。
 そして、淳子は「佑くんと、仲良くね」と言うのを忘れなかった。そう言ってにっこり笑った母を前に、郁也はまた泣いてしまった。
(お母さん、ありがとう)
 淳子はしばらく郁也の髪を撫でてくれていた。佑輔の大きな骨張った手とは違う感触。柔らかくて繊細で、穏やかな母の手。

「家賃は負担して貰っちゃうからさ。水道光熱費は俺持ちな。そして食費を折半にしよう」
 郁也はそれじゃあ折半にならないと反論した。家賃は淳子がふたりの生活とは別扱いで負担すると言ったのだから、それを計算に入れずに残りを半分に分けるべきだと。だが佑輔は譲らなかった。
「そのくらいはさ、出させてくれよ。俺、申し訳ないよ」
 そう言って佑輔はしゅんと頭を垂れる。郁也は佑輔が律儀な性格なのは知っていた。律儀で真面目、そして優しい。郁也はそっと佑輔の頬に手を伸ばした。
「分かった。ごめん。顔上げて」
 郁也は両手で佑輔の頬を包んだ。どこまで真面目なんだろう。このひとがこんなに真面目なひとだなんて、深く付き合うまでは分からなかった。可愛いひと。
「ボクもバイト、して見ようかな」
 社会勉強のために、と言って郁也は小首を傾げて笑って見せた。佑輔は鼻の頭をぽりぽり掻いて、「無理すんなよ」と目を伏せた。

「無理じゃないよ。あんまり世間知らずだからさ。少しは大人にならなくっちゃ」
「何か、心配だな」
「もう、佑輔クンまでそんなこと言う。ボクってそんなに頼りないかな」
「そうじゃないよ」
 佑輔はこれからのことの取り決めを書き付けていたメモを見直す振りをして、シャーペンをくるくる手の上で回した。
「郁が、俺よりもっと大人で、カッコいいヤツと出会っちゃうんじゃないかって」
 気が付くとそんなことばっかり考えてるんだよな、と佑輔はぼやいた。郁也はふっと笑った。
「それはお互いさまです」
「郁……」
「どっちかっていうと、その点ではボクの方がより切実なものがあると思う」
 郁也は上目遣いに佑輔の目を見た。郁也の大好きな焦茶の瞳。
「前ほど気にしないようにはしてるけど」

 佑輔と放課後一緒に過ごす日が多くなって、或る日佑輔の部屋に呼ばれて。佑輔とそういうことをするようになった郁也は、「いつか佑輔クンの前に本物の女のコが現れたら、きっと自分は敵わない」と毎日不安で仕方なかった。そしてその不安は現実のものとなった。郁也は悲しみの余り「事故」を起こした。
 ふたりとも余りに幼くて、余りに互いを好きになり過ぎて、どうしていいか分からなかったのだ。
「事故」の後、ふたりは互いに互いを諦めることを止めた。
「焼くほど何トカもてもせず、って言うでしょ。ボクなんかをいいと思うようなおっちょこちょいなひと、そういないから」
 だから心配しなくていいよ。郁也はそう言って立ち上がった。
「そろそろ、お腹空いたんじゃない? 何か食べに出る?」
 灯りを点けてカーテンを引く。さっき買って来たばかりのそれは、糊が利いてパリッとした手触りだ。ふたりは郁也の落ち着く茶系を選んだ。可愛い花柄が目に入ったが、郁也はそれを手に取れなかった。無意識に自分を恥じる自分がまだいる。
 文化的な固定観念が二重三重に郁也を縛りつけている。郁也は苦いものを感じた。

「勿体ないから、ここにいよう」
 佑輔はそれだけ言って郁也を見上げた。
「そうだね。あまり無駄遣いしちゃいけないよね」
「金じゃなくて」
 佑輔は腕を伸ばした。
「時間だよ」
「時間?」
「そう」
 佑輔は郁也の手を取った。郁也は佑輔の傍らに膝を付いた。
「一緒にいよう。ふたりで」
「佑輔クン……」
 郁也は胸が、身体の奥が熱く震えるのを感じた。佑輔の茶色い瞳がきらきら光って、それを見ると郁也はじっとしていられなくなる。佑輔の目に吸い寄せられる。唇が触れ合うと郁也はもう訳が分からなくなって。
 もうふたりは、淳子や佑輔の母の帰宅時間を気にしなくていいのだ。
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