6、揺れるジョンブリアンの裾-4

文字数 3,951文字

 生物学の講義が終わった。
 郁也は松山に声を掛けた。
「松山君、そんなにマトモなもの食べてないんだったら……」
 そこまで言って郁也は佑輔を見た。佑輔は頷いた。
「そうだな。松山。お前にメシを食わせてやる。寄って行け」
「ええ? いいのか?」
 新居だろ、と松山は言った。郁也はもじもじと下を向いた。佑輔が笑った。
「バーカ。お前がいなけりゃ、今俺たちはこうしていなかったかも知れない。或る意味、恩人だからな」
 途中、スーパーで鍋の材料を買った。松山がペットボトルの茶を買おうとして佑輔に止められていた。
「あ、いいよ。普通に湯を沸かして淹れてる」
「え、そうなのか」
「ああ。こいつ冷たいもの苦手だから。駄目なんだ、そういうの。お前が飲むなら入れてけよ」
「ふーん。いや、別にいいよ」
 松山は材料費を自分が払うと言って聞かなかった。場所や手間を提供して貰う自分が持つのが当然だと言うのだ。
「何を水臭い。いいよ」
 佑輔も引かない。
 松山は遂に折れ、「よし、きっちり割勘にしよう。その代わり、俺半分な。どうせ谷口、大して食わんだろうから」とレシートの金額の半分を郁也の財布にがさっと抛り込んだ。

「ちょっと待っててくれ」と言って松山は消え、五分後に「お待たせ」とまた現れた。夕陽が眩しく街路を照らしていた。もう随分日が長い。夜はまだしばらく先だった。
「はい、改めて。いらっしゃい」
 ひと足先に上がった郁也が、松山を振り返って笑った。佑輔が「古くて狭いだろ」と声を掛けた。松山は「へええ」と見回しながら部屋に入って来た。
「もっと、ピンクとか、花柄とかが溢れてるのかと思った。案外普通だな」
「そりゃそうだよ。どんなのを想像してたのさ」と郁也。
「いや、やっぱりそこはそれ、新婚家庭のイメージというものが」
(し、新婚……)
 松山は優しいいいヤツだ。佑輔の隣にいる郁也を、徹底的に女のコとして扱ってくれる。
「佑輔クン、お米お願い」
「おう。松山、お前米くらいは炊くんだろうな」
「え、いや。まあ、そのくらいはな」
「アヤシイな。まあ見てろ」
 佑輔が松山に米の研ぎ方を実演して見せている横で、郁也はコーヒーを淹れた。朝の弱い郁也がこれだけは譲れない嗜好品である。ドリッパーもペーパーも越して来た初日に揃えたが、細口の薬缶だけがまだ手に入れられていない。郁也は普通の薬缶の傾斜角に注意して、可能な限り湯を細い筋状に出すよう心掛けた。
「明るいな。こっち南か」
「ああ。ふた部屋なんだけど、もうひと部屋も南に窓がある」
 カップを手に佑輔が松山に説明した。奥の部屋に通じるドアを開け、松山を案内した。
「こっちは南というより、この時間なら西日が凄いけどな」
 ふたりの寝室にしている奥の部屋は、夜具は押し入れに片付けられ、来たときには床に転がしていた生活雑貨も今では買って来たアルミの棚に整頓されて、さっぱりし過ぎて淋しい程だ。実家での佑輔の部屋のようだ、と郁也は笑ったことがある。独立して実家を出た兄の部屋に細々したものは移動して、自分は何もないガランとした部屋に住んでいた佑輔。この部屋も少々飾りがあってもいい。そのうちふたりの写真でも、引き伸ばして飾ろうかな、と郁也は思っていた。
(一度写真館で、ちゃんと撮って貰おう)
 郁也は真志穂に、二年前からそう言われていた。それはまだ実現していない。そうこうしているうちに、郁也はもうあの頃の美しさを失った。
 それは飽くまで比較の問題で、この時点でも真志穂の手に掛かれば、橋本を驚愕させる程度には美しくなれるのだが。

 キレイに片付けられ、掃除も行き届いた明るい部屋に、落としたコーヒーの香りが満ちる。松山は言った。
「何か、『正しい生活』って感じがするな」
「何それ」
 郁也はきょとんとした。
「自分で落としたコーヒー。ペットボトルの飲みものは買わない。明るくこざっぱりとした部屋に住んで。今時そんなきちんとした暮らしをしてるヤツなんて、余程の年寄りでもそういないんじゃないか」
「年寄り……」
「勿体ないな」
 松山は大きく溜息を吐いた。
「谷口、お前が本当の女のコなら、勿体なくて瀬川なんぞには絶対やれないところだ」
「ははは。何の権利があってだよ」
 佑輔は嬉しそうに笑う。
「それって、ボク、男のコでよかったってこと?」
 鍋だけでは物足りなかろうと、郁也はもう一品青菜の胡麻汚しを用意した。酢醤油であっさり食べる鍋との味の対比で考えた副菜だ。理解してるんだかしてないんだか、返事だけはいい松山に、郁也は全ての手順を簡単に説明しながら作業を進めた。佑輔も郁也の指示で、野菜を洗ったり、材料を冷蔵庫から出し入れしたりして、郁也の説明に耳を傾けていた。

「いただきまーす!」
 松山は久し振りの家庭の味に、はふはふ言いながら郁也を見た。
「旨い。谷口、料理上手いな」
「鍋なんて、誰が作ってもこんなもんだよ。ひとり分小さな鍋で煮ると手軽だから、松山君も覚えなよ。洗って切って、煮るだけだったでしょ」
 それを聞いて、佑輔が郁也の顔をのぞき込んだ。
「郁。それは出来るヤツの言葉であって、俺たち未経験者にとっては『切る』ってとこからハードル高いの」
「そうなの? じゃあ、早く慣れるといいよ」
 松山君もね、と郁也は笑い掛けた。松山は笑っていなかった。
「松山君?」
「……お前が谷口をそう呼ぶの、初めて聴いた」
 珍しく佑輔が顔を赤くした。
「そうか? ずっとこうだぞ」
 短くそれだけ答え、佑輔は鍋をパクついた。
「何だよ。何か文句でもあるのか」
 尚も佑輔を見る松山に、まだ赤い顔をしている佑輔が訊いた。
「……いや。文句なんかないよ。良かったな、谷口」
「え?」
 佑輔につられて郁也もちょっと恥ずかしい。
「沢山、沢山そう呼んで貰え」
「……うん」
 郁也は小首を傾げて「佑輔クン、優しいよ」と松山に報告した。松山も満足そうに「そうか」と頷いた。佑輔は更に真っ赤になって、いつもより早いペースで箸を動かした。

「折角だから、かおりちゃんや田端君にも声掛ければよかったね」
「駄目だな」
 佑輔はにべもない。
「どうして」
「橋本の下宿は食事付きだろう。田端だって自炊してるって言ってたぞ」
 俺たち何も出来ないヤツらに、炊事を教えるってのが今日のテーマだ、と佑輔は言った。
「そうだっけ」
「それに、この部屋に五人は狭すぎる」
 佑輔は立ち上がって薬缶を火に掛けた。
「狭いかなあ。お相撲さんじゃあるまいし」
 郁也が首を傾げてぶつぶつ言うと、松山が揶揄うような目をした。
「瀬川はね、ヤツらをここに入れたくないんだと」
「どうして? 嫌いなの?」
「嫉妬深いんだよ、お前の『佑輔クン』は」
「え?」
「松山、この野郎、余計なことべらべら喋んな」
 佑輔が淹れた茶を運ぶ途中で松山を蹴る真似をした。松山も大仰に痛がる振りをして大笑いした。

 ピロピロとメロディが聞こえて来た。郁也のケータイだ。
「噂をすれば、だね。かおりちゃんだよ」
 そう言って郁也は通話キーを押した。
「あ、かおりちゃん。どうしたの」
 橋本は、郁也の明日土曜日の予定を訊いた。どこかのホールで、映画の衣装展をやるらしい。一緒に行かないかと言うのだ。
「土曜日はボク、バイトがあるんだ。……うん、そう。予備校。……うん。うん。……日曜? えーっと……」
 郁也は佑輔の顔を見た。日曜は佑輔もバイトを入れずに、一日郁也といてくれる大事な日だ。
「じゃあ俺『玉ねぎ』入れるわ。行って来い」
 佑輔は優しく頷いた。郁也は佑輔のその言葉を確かめて、橋本にOKの返事をした。
「うん。いいよ。……え、誰もいないよ。……分かった。じゃ日曜日」郁也はキーを押した。
「映画の衣装だって。松山君興味ある?」
「衣装かあ。そっちには俺、あんまり」
「そう? じゃあまほちゃんに連絡しとこうっと」
 郁也は再びケータイを操作した。
「あ、まほちゃん? あのね……」
 テーブルに肘を突いて松山が「やっぱ可愛いな」と呟いた。佑輔はそれを横目でじろっと睨む。
「やらんぞ」
「いや、要らないけど」
 首を傾げてケータイと喋る郁也に目を細めている松山。佑輔はムスッとして訊いた。
「お前も誰か見付けるんじゃなかったのか。演劇部はどうした」
「ああ。女子部員も多いんだけどさ。何しろ、俺たちこいつを三年間毎日見てただろ。基準がズレちまってるんだよな」
「人間見た目じゃないぞ」
「そうじゃなく。谷口はさ、顔がキレイなだけじゃないだろ。何と言うか、こう、滲み出る可憐さがあるよな。儚いような、切ないような」
 佑輔は松山に向き直った。
「それってお前」
「違う、違うって。誤解すんな」
 松山は慌てて手を振った。
「……だからさ、その辺の女のコ見てもなかなかいいと思えなくて」
 佑輔はようやくうっすら笑った。
「そうか。お前も大変だな」
「はは。瀬川にそれ言われんの、すっごい腹立つ」
 郁也が通話を終えると、松山が自分の買って来た箱を開けた。さっき立ち寄ったスーパーで、松山が消えた五分間で手に入れて来た箱だ。中からはキレイな細工の焼き菓子が出て来た。
「わあ……」
 郁也の顔から笑みが溢れる。
「こんなに……いいの?」
「ああ。腹一杯食った後は別腹っしょ」
 そう鷹揚に郁也に頷いて見せる松山に、佑輔は「随分気が利くな」とぼそりと言った。
「矢口や大塚と付き合ってると、自然とな」
 連中、女のコには目がないから、と松山が苦笑した。
「俺、連中とは別行動が多かったからな」
と佑輔が言った。郁也は幾つもある焼き菓子の、どれを選ぼうか指を迷わせている。
「お前はもう遊ばなくていいだろ。こんな可愛いお姫さまが側にいてくれるんだから」
 松山が腕組みをしてたしなめるように佑輔に言った。こんな可愛いお姫さま。佑輔は照れ臭そうに鼻を掻いた。
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