1、春の午後は淡くオレンジ-1

文字数 2,429文字

 お父さん。ボク、好きなひとが出来たんだ。
 この春からそのひとと一緒に暮らす。
 人間生きてると、思いもよらない、いいことがあるんだね。
 生まれて来てよかったって、初めて本気でそう思うよ。


 鍵を差し込み、がちゃがちゃ回す。少しコツが要るようだ。渋い手応えがあって、ふたりの部屋の扉が開いた。
「わ……あっ」
 1LDK南向き風呂付き、家賃月四万八〇〇〇円。
 天気のせいか時間のせいか、不動産屋に連れられて見に来たときよりも明るい。
「いいんじゃない、古くて安い割には」
 郁也は笑って玄関を振り返った。
 郁也の後から、バスケットシューズの紐を弛めるのに手間取っていた佑輔が、ようやく部屋に上がって来た。佑輔も部屋を見回して、「そうだな」と同意した。
 ここで、ふたりの新生活が始まる。
 終バスの時間が近付いても、慌てないで済む生活だ。
 郁也が嬉しそうにきょろきょろ室内を眺めていると、佑輔がバケツを持ったままの腕を郁也の肩に回した。
「郁……」
 郁也の目の前に、バケツから突き出たトイレたわしが揺れる。
「佑輔クン」
 郁也は首筋に佑輔の唇を感じて一瞬目を閉じた。
「駄目だよ。運送屋さんが来る前に、ざっと掃除を済まして置くんでしょう。ほら、離して」
 郁也は佑輔の腕をとんとんとあやすように叩いた。

 JRを降り、不動産屋から貰った資料の通りに地下鉄に乗り換える。ふたりは近くのドラッグストアに寄って、簡単な掃除道具を仕入れて来た。何も持たない一からのスタート。何だかとっても、わくわくする。
 佑輔はテキパキと流しに通水させ、ガスの元栓を確認し、前の住人が置いて行った部屋の照明を付けたり消したりした。郁也はバケツと雑巾で、部屋の床を清め始めた。目に付くものの確認を終えた佑輔もそれを手伝い、まだ肌寒い部屋が暖かくなる頃、運送屋がドアのチャイムを鳴らした。
 ナイスタイミング。ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。
 親許から離れたばかりの学生の荷物はふたり分でもわずかなもので、ちんまりとした段ボール箱が幾つか部屋の片側に並んで終わった。それでも、物が入ると途端に部屋は広くなくなる。こぢんまりしたアパート。八畳・六畳の一応1LDKだ。リビングの他にもう一部屋あるのは、ケンカしたときのため。どんなにぷんすかしていても、扉を閉めてしまえば平気だから。部屋探しのとき、ふたりは候補の部屋の間取りを並べてそう笑った。
「そう言えば、細々したケンカって、したことないねボクたち」
 そのとき郁也は佑輔にこう言った。佑輔は、笑って「洒落にならない大きなのはあったけどな」と答えた。そう、入院しちゃうほど大きなのね。郁也も笑った。
 過去の悲しみを、そうやって笑って話せるようになっていた。
 もう、大丈夫。郁也は目を伏せて柔らかく微笑んだ。

 家から運び込んだ荷物を解くと、中からは頼りない生活雑貨がほんの少し顔を出した。食器、洗面道具、電気製品などが少々。ふたりはそれらを床に並べて途方に暮れた。それらを収納する棚のようなものがあるといい。郁也は自分の家から持って来たテレビとゲームを取り出し、配線を繋ぎ始めた。佑輔はふたり分の寝具と衣類を、奥のひと間へ持って行った。そちらには一応押し入れが付いている。
「何か、押し入れに入れてそのまま使える、抽斗みたいの売ってるよなあ」
「ああ、あるよね。ホームセンターとかかな」
「うん。それから、何が要るかなあ。食器棚みたいのと、テーブルみたいなものがあれば机は要らないよな」
「暖房器具は何かしら要るんじゃない? まだ寒いよ。ストーブを今から買うか、それは秋にして今はこたつか何かにして置くか」
 佑輔はカーテンレールの金具を指で弾いた。吊すべきカーテンを持たないそれはカシャと頼りない音を立てた。二部屋計三ヶ所に窓がある。
 郁也は勢い良く佑輔を振り返った。
「あ、洗濯機。洗濯機は最低欲しい」
「洗濯機? それって幾らするんだ」
「さあ。買おうと思ったことないもん」
 学生街なら古道具屋も品揃えよかろうし、出来る限り新品を買うのは止めよう。この街へやって来る列車の中で、予めふたりはそう決めていた。テレビの配線を終えた郁也は、比較的丈夫そうな段ボール箱をひっくり返し、その上で買い物リストを書いて見た。その手許を佑輔が覗く。
「……結構あるなあ」
「そうだね。でも、初めから全部揃ってる必要はないんだし、少しづつ増やしていけばいいんじゃない? この中で差し当たって必要なのは、これと、これと」
 郁也はリストの中からすぐにも要るものに丸を付け、「結構あるね」と呟いた。

「カーテン」
 佑輔が唐突に言った。
「え?」
「カーテンは、すぐにでも必要だろう。よし、ひとまずその辺のホームセンターに行って見よう。ホームセンターで買えるもの、抜き出そうぜ」
 郁也は佑輔に続いて靴に足を突っ込みながら、「でも、どうしてカーテン?」と首を傾げた。佑輔は郁也の顔を穴が開く程じいっと見て、郁也の手首を掴んだ。
「折角一緒の部屋に住んで、お預けなのか、俺たち」
「あ……!」
 郁也は口許に手を当てて真っ赤になった。そんなの無理だ。佑輔が掴んだ手首を引くと、郁也の身体は佑輔の胸にふわりと収まった。
「思い付かなかったのか」
 佑輔は揶揄うように郁也に訊いた。郁也は微かに「……うん」と答えて俯いた。
「郁ってこんなに頭いいのに、ときどき信じられないくらい鈍いよな」
 この体勢で俯くと、郁也は丁度佑輔の肩に凭れる形になる。去年から郁也は少し背が伸びた。背丈なんてと思いながら、佑輔の身長を越してしまわなかったことは郁也にとって大きな幸運で、郁也は心の底ではほっとしていた。彼氏を上目遣いに見上げる可愛い女のコ。そのポジションは、出来れば失いたくない。
「ごめん」
「いいさ。もう慣れてる」
 佑輔はそう言ってくすりと笑った。
「さあ、行こう。暗くなる前にひと仕事終わらせなくっちゃな」
 春の風が勢い良く吹き上げる、世界へ。

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