1、春の午後は淡くオレンジ-10

文字数 2,271文字

 やがて、弘人が口を開いた。
「では、佑輔君。君が郁也と一緒にいるのは、贖罪のためかね」
 佑輔と郁也は身を固くして弘人を見た。
「一生この子に従いて行こうと思うのは、君がこの子に対して犯した罪が、一生分より重いと判断したためですか」
 弘人は佑輔を責めているのではなかった。その証拠に弘人の口許には穏やかな笑みが浮かんでいた。郁也は父が何を意図しているのか分からなかった。
 佑輔は唇をぎゅっと引き結んで弘人を見据えた。そしてゆっくり口を開いた。
「違います。僕が郁也君とともに時を過ごしたいと思うからです。郁也君が大人になって、いずれ年老いて枯れていくのをずっと側で見ていたい。郁也君の隣に誰かがいることを許されるなら、それは僕であって欲しい」
 佑輔は弘人の前で郁也の肩を強く抱いた。
「僕は郁也君を愛しているんです」
(佑輔クン……)
 郁也は嬉しくて涙をこらえることが出来なかった。郁也は佑輔の胸に凭れてしゃくり上げた。佑輔は郁也を抱き寄せて、その肩をさすりながら弘人の目をじっと見つめた。

 弘人は微笑んで郁也を自分の側へ呼んだ。
「郁也、おいで」
 郁也は佑輔に頬を拭われて、父の前へ進み出た。
「郁也」
「お父さん」
「いいひとと出会ったね」
「お父さ……」
 弘人は泣きじゃくる郁也の頭にその大きな手を載せた。
「わたしはね、君のような個性の子が、本当に幸せになれるかいつも気になって仕方がなかった。淳子さんは『大丈夫よ。あたしとあなたの子だもの』と気軽に笑うが、わたしは心配だったよ。わたしは淳子さんと出会って、君という子に恵まれて、本当に幸せに生きて来た。だからわたしの大切な君にも、幸せな思いをして貰いたいんだ」
弘人は郁也の顔を覗き込んだ。
「今、君は幸せだね?」
「はい、お父さん」
 郁也はこくりと頷いた。郁也の答えに、弘人は甘く顔を綻ばせた。
「願わくば、その幸せが末永く続きますように。どこにいてもわたしは祈っているよ」
 弘人は、向かいで膝の上で硬く拳を握りしめている祐輔に目を向けた。
「そして、佑輔君」
「はい」
「この子をよろしく、頼みます」
 弘人は息子と同じ歳の若僧に頭を下げた。
「君にも親御さんがいらして、その方たちも君の幸せを願っているだろうが、人生に何か選択肢が現れる度に、自分が何を選べば心のままに幸せでいられるかを、どうか立ち止まってよく考えて欲しい。さっきの言葉が君の本心なら、きっと正解は決まっているだろうと思う」
「はい。きっとそうします」
 弘人は郁也の細い身体を抱き締めてから立ち上がった。
「さて、恋人たちの栖み家だ。年寄りは退散しようかね」
「お父さん」と郁也が涙声で笑う。
「すっかり泣かせてしまったね。可愛い顔が台無しだ。……ああ、郁也。何か欲しいものはないかい。わたしからふたりへのお祝いだよ」
「洗濯機」
 郁也は即答した。これには弘人も面食らったようだが、ひとり息子が可愛くて仕方がない親バカ振りを発揮して、「洗濯機かい。いいよ」と甘く笑った。
 最近日本では、幾らくらいするのだろうか。これくらいあれば足りるかい。
 そう言って懐から数枚の札を取り出して郁也の細い指に握らせた。
 佑輔が弘人にコートを手渡した。自分たちのコートも手にしているのを見て、弘人は首を振った。
「見送りは結構だよ。わたしは淳子さんと違って方向音痴じゃないんだ。ひとりで行ける。泣き腫らした顔の君たちを連れて歩いたら、まるで児童虐待のようじゃないか」
 あははと弘人は笑って靴を履いた。
「じゃね。身体に気を付けて。ふたりとも仲良く暮らすんだよ」
「ありがとう、お父さん。お母さんによろしく」
「ああ、分かった」
 佑輔は郁也の隣で、弘人に深々と頭を下げている。玄関口から手を振る郁也に軽く手を振って、弘人は自宅へ向かって行った。

 ドアを閉めて、鍵を回した郁也を、佑輔は強く抱き締めた。
「郁。俺、今まで随分悲しい思いさせたよな。ごめんな」
「いいんだよ。だって、あのときちゃんと謝って貰ったもん。ボクこそ、佑輔クンを苦しめた。ごめんね」
「郁」
 佑輔は掠れた声を絞り出すように呟いた。
「どこまで優しいんだ。こんな俺に」
「佑輔クン……」
 郁也の胸は歓喜に震えた。さっきみたいな言葉、きっともう一生聞けない。あんな告白、一生に一度だ。佑輔があんなに饒舌に語るのも初めてだった。
 郁也は心の中で父に感謝した。父のお蔭で聞けた言葉だった。
「さあ、もう止めよう。今、ボクたちは幸せだよ。少なくともボクはね。佑輔クンはどう?」
 おどけてそう尋ねる郁也に、佑輔はふっと笑った。
「ああ。幸せだ」
「じゃあ、この幸せが今このときに最大になるように努力するの。そして明日も、明後日も。毎日同じようにすれば、ずっと幸せでいられるよ。ね?」 
 郁也は目許を赤くしたまま、にっこり笑って佑輔を覗き込んだ。佑輔はその笑顔に一瞬何も言えなくなって、鼻の頭を掻いた。
「頭いいな、郁は」
「頭いいよ。だってボク、佑輔クンと暮らすことにしか今頭使ってないもん」
 郁也はこたつの上を確かめた。
「お父さん、幾らくれたんだろ。うわ」
「どうした、郁」
 佑輔は目の縁を手の甲で拭いながらやって来た。
「買えそうか」
「買えるなんてもんじゃない。新札だから分かんなかったけど、二十万ある」
「えっ」
「きっと両替したばっかだな。全部新札だなんて」
 郁也は当たり前のようにそれを、ふたりの生活費プール用にした缶の中へ入れた。
 佑輔はその様子を横目で見ながら、コートを吊しに部屋を横切った。
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