1、春の午後は淡くオレンジ-2

文字数 2,433文字

 郁也は父にメールを送って置いた。
 郁也の実家には、父の前では英語使用というルールがある。昔、母の淳子は英語が苦手で、修士論文だか博士だかでえらく難儀をした。そのときは父の弘人が手伝って何とか切り抜けたが、それ以来、父は母を英語に慣れさせるため、英語使用ルールが出来たらしい。郁也はそう聞いていた。
 父自身、論文を評価してくれたアメリカの大学で研究を続けている。あちらへ渡ったときは困難もあったが、要は慣れの問題である、主要な論文も国際会議も英語であることが多い、と、父の言うことはいちいち尤もで、母の淳子は反論出来ない。
 反論出来ない、というよりも、弘人の言うことに逆らう気はない。郁也の目にはそう写る。
 そういう事情で、謂わば母のとばっちりのようなものだが、郁也にも英語でなければ、電話もメールも、父は相手をしてくれなかった。お蔭で郁也は理系アタマの割には、苦労なく英語の点が取れた。確かに慣れの問題なのだろう。
 進学のため、佑輔とこの街へ引っ越して来る前に、郁也は父にメールした。いつもなら英語で送るメール。今回郁也はもの凄く悩み、考えに考えて日本語で打った。英語だと「好きなひと」、その性別をぼかせなかった。日本語のメールを、父が読んでくれなければそれでいい。

 二年前、十六の郁也が馬鹿なことをしでかして入院したとき、父から一本の動画メールが届いた。そこでは父は日本語だった。あんなに長く日本語で話す父は、もしかして郁也にとって初めてだったかも知れない。
 父の言葉の端々に、思春期に差し掛かった我が子への気遣いが溢れていた。一緒に暮らした時間の短い我が子を、父は愛して、心配していた。その父に、郁也は自分が今幸せに生きていることを、ひとこと伝えたて置きかったのだ。
 郁也は先月、父の許を訪ねて戻って来た母に訊いた。
「お母さん。ボクのこと、お父さんに話した?」
 母は郁也に対してはもうとうに、不憫な娘を応援する気持ちになっている。
「いいえ」
「……そう」
「それはあなたが自分で言うことよ。言いたくなければ無理しなくていいし、言いたくなったらあなたの口から伝えるの。大事なことでしょ。あたしは軽々しく喋ったりしないわ」
 弘人さんはステキなひとよ。そんなことで狼狽えたりしないと思うわ。母はそう付け加えるのを忘れなかった。母は心底父に惚れている。
 郁也は考えた。
 父にも心配を掛けた。普段離れて暮らしている分、父は郁也の様子を気にしている。自分をこの世に生み出してくれたそのことを、郁也は今や恨んではいなかった。
 だが、まだ男親にカミングアウトする気にはなれない。
 郁也にはまだまだ抵抗があった。

 物心付いたとき、郁也はすでに周囲の男のコたちとは明らかに異なっていた。遊びの内容も、興味の対象も、長じてからは言葉遣いや仕草、表情、等々。そのため、通っていた小学校では随分いじめられ、担任の女教師すら郁也を気味悪がった小学四年の頃など、郁也は殆ど登校していない。
 そんな環境から離れたくて入った私立の名門校で、郁也は佑輔と出会った。
 十六の夏。女のコであることと男のコであることとの狭間で、決心が付かずに揺れ動いていた郁也を、佑輔は優しく抱き止めてくれた。佑輔にとっては、郁也が女のコでも男のコでも、大して違いはないように言ってくれた。
 奇跡、だった。
 少なくとも郁也にとってはそうだった。
 佑輔に愛され、佑輔に抱き締められて、郁也は初めて自分の身体を許せた。生まれて来たことを自分に許すことが出来た。毎日幸せだった。暗い巣穴から出て野山を跳ね回る子兎のように、郁也はのびのびと学院に通った。
 その様子は周囲の男のコたちから見ても微笑ましいものであったようで、この一年とちょっとくらい、郁也はクラスの「お姫さま」のように皆から大切にされた。郁也と佑輔の交際を知る一部の友人たちは、郁也が少しでも快適に暮らせるよう、色んな方面でバックアップしてくれた。
 小学校でこっぴどくいじめられて以来、同じくらいの年齢の人間たちを一切信用せず、集団というものを全て潜在的な敵の集まりだと信じていた郁也にとって、郁也が通った東栄学院の生徒たちは、自分の偏見を気付かせてくれるに足るものだった。
 勿論学院生が皆郁也に好意的であった訳ではない。反感を抱いて突っかかって来るものも複数いた。だが、全員が敵ではなかった。これは郁也にとって貴重な体験だった。

 そして母は、そんな郁也を見抜いていた。郁也は母にもそんな自分を隠し通して来た積りだった。郁也の中の女のコのことも、郁也が誰かに憧れ、恋したことも、そんな誰かと抱き締め合ったことも。だが母には全てお見通しだったようだ。
 郁也が「事故」で入院したとき、真っ青な顔で駆け付けた佑輔を見た母は、郁也の身に何があったのか大体分かってしまった。郁也が退院してからは、母は寧ろ郁也を応援して、佑輔との仲をより強固にするための手段を色々と講じたりした。そんな郁也の母を、佑輔も慕って尊敬した。
 母は郁也の味方だった。必要とあらば結婚してしまえ、とまで淳子は言った。それはつまり、現行法の許では外科的措置を含む性別の変更すら容認するものだ。女性である母は、女のコの心を持って男のコの身体に生まれ付いた郁也の困難を、想像するに難くなかったのだろう。
 だが、何の問題もなく男性として生きている父に、郁也は自分の問題を上手く伝えられる気がしなかった。自分が佑輔と一緒に生きていく決意をしたことを、いずれ話さなければならないとしても、それはまだ先のことにして置きたかった。少なくともメールでちらっと書くようなことではない。だから郁也は日本語で、「好きなひと」の性別もぼかして、ただ自分が幸せに暮らしていることだけを伝えた。
 生まれて来てよかったと、今自分が本気でそう思っていることだけ。
 そして、そう思えるようにしてくれたひとが、寄り添っていてくれることだけ。
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