7、グラスグリーンに匂う風-3

文字数 4,619文字

「ちょっとちょっと、どうしちゃったの君の彼氏」
 烏飼が擦り寄って来た。
「何がだよ、ルーク」 
 郁也は烏飼をじろっと睨んだ。
 烏飼は慌てて「ここでその名で呼ばないでくれよ」と背中を丸めて周囲を見回した。
「怖いなあ、そんな目で睨むなよ。ひとが善意で心配しただけじゃないか」
「善意で心配?」
 郁也は訝しげに烏飼を見た。
「そうだよ。今そこでちらっと見掛けたけど、肩はがっくり落ちてるし、目の周りに隈は濃いし、顔色も良くないよ。あれ、君の顔色も良くないね」
 駄目だよ、幾ら若いからってあんまり励み過ぎちゃあ、と烏飼は下品にげたげたと笑う。郁也はカッとした。
「そんないいもんじゃないよ」
「ふーん、そうなの?」
「いいから、放っといてくれない」
 郁也は足早にそこから去った。

 今日も郁也は佑輔の自転車の荷台に載せられて大学へ来た。ほんの五分程度の距離に、佑輔は軽く息切れしていた。郁也は心配に心臓を掴まれたように感じた。明らかに過労の症状だった。そこへ無神経な烏飼の出現。郁也は苛々した。
(佑輔クンの馬鹿。どうして言ってくれないんだ)
 郁也は悲しくて、悔しくて、心の中で何度も佑輔に恨み言を言った。本人を前にすると、佑輔の優しい笑顔を前にすると、郁也は何も言えなくなる。抱き締められて甘く口づけされると、郁也はもう駄目だった。かつて郁也が何度も使った手を、今度は佑輔に使われてしまっていた。
 郁也はさっきまで掴まっていた佑輔の背中を思い起こした。深いグリーン系のチェックのシャツ。やや厚手の素材のそれを、冬中佑輔はジャケットのように羽織っていた。今はそれを一枚普通に着ていたが、郁也が腕を回すと胴回りで布が余っていた。以前は佑輔の身体にぴったりしていたのに。
 抱き合うときの身体と身体も前より骨同士がぶつかり合う。郁也の身体には肋骨が浮き出ているが、それは元々のこと。変化があるとすれば佑輔のほうだ。

「郁也くん」
 後ろで橋本の声がした。
「お早う、かおりちゃん。……どうしたの」
 振り返って見た橋本の表情は、硬く凍り付いていた。
「今そこで、瀬川くんと会ったの。専門の講義が入ってるって、農学部の方へ向かったわ。あたし、『じゃね』って言って歩いて来たの」
 郁也の初めて見る顔だった。
「かおりちゃん」
「あたし、今日の瀬川くんの着てるシャツ、どうも見覚えがある気がして、考えながら歩いて来たの。今思い出した、郁也くんの顔を見て」
 郁也はゆっくりと唇を閉じた。
「初めて矢口くんのお店に行ったとき、松山くんや田端くんも、真志穂さんもいたあの日、郁也くん、あれ着てたよね」
 橋本の瞳が黄色く光った。
「あたし、それを『お洒落だね』って言った。本当にそう思ったから。郁也くんの身体には大き過ぎるサイズのシャツを大雑把に羽織って、何だかとっても素敵だった。あたし訊いたよね。『故意と身体に合わないサイズを買うの』って。郁也くん、何も答えないで笑ってた」
 郁也は下を向いた。身体が震える。
「どうして? ねえ、どうして瀬川くんがあのときの郁也くんのシャツを着てるの? 貸して上げたの? お揃いなの? どっちも違うよね。あのシャツ、今日見た瀬川くんのサイズに合ってた。瀬川くんのものだったんだよね」

 橋本は黙ったままの郁也に答えさせようと、笑おうと試みたが駄目だった。笑顔にならず虚ろに開いた唇を震わせた。
「ねえ、どうして瀬川くんの服を、あのとき郁也くんが着てたの?」
 橋本の声が暗く震えた。
「それってやっぱり、そういうこと……?」
「そういうって、どういうことさ」
 下を向いたまま郁也は言った。やっとそれだけ。咽に何か大きなものが詰まっている。それは棘がぐるりに生えていて、郁也が何か言うのを阻害した。
「だから、それは……」
 橋本は口籠もった。

 郁也はぎゅっと目を瞑った。このコの許容範囲は、ボクが冗談で女のコの格好するところまでで終わりなんだ。ボクの中身が、かおりちゃんと同じくらいに女のコで、男のコを好きになったり男のコと付き合ったりするところまで許してはくれないんだ。郁也は小学校での女性教諭を思い出した。彼女が十かそこらの郁也を見るときの、あの目付き。どんなに隠そうとしても、隠せなかった彼女の素直な嫌悪。
 郁也は諦めた。大きく息を吐いて、咽を塞ぐ塊を吐き出そうとした。郁也は言った。
「そうだよ。あれは彼のシャツ。あのとき、ボクが借りたんだ。どれを着て行こうか考えてたとき、たまたま目に入ったから。仕舞ってるところに区切りはないからね、ボクのも、彼のも」
「え……」
 橋本は息を呑んだ。
「ボクら、一緒に住んでるんだ。君が言いたかったのは、そういうことだろう? そうさ。単なるルームメイトじゃないよ。ボクらは、一緒の大学に入りたくて、一緒に暮らしたくて、受験勉強頑張ったんだ。もうずっと、ボクらは……」
 こんなところで、こんなコ相手に、ボクは何を説明しようと言うんだろう。
「ボクと、彼は……」
「あのとき、郁也くん、笑ってたよね」
 橋本の声は涙に濡れていた。郁也は顔を上げた。想定外だった。
「笑ってた。おかしいよね。さぞおかしかったでしょうね。あたし、何にも知らなくて。……馬鹿みたい」
「かおりちゃん?」
「馬鹿だ、あたし。そんなこと何も知らなくて。そんなの。そんなのって」
 橋本の頬を次々に涙が流れ落ちた。
「酷いよ。郁也くん」
 橋本が手でごしごしと目をこすった。そのまま両手で顔を覆い、橋本は呻いた。
「あたし、郁也くんのこと好きだった」
「え」
 今度は郁也が驚く番だ。橋本は続けた。
「なのに。そんなの酷いよ! 他の女のコだったら諦めも付くけど、瀬川くんって、それって何なの! 何なのよ!」
 橋本は郁也を酷いと責めた。
 郁也は耐えられずその場から逃げた。
 橋本に負けない滂沱の涙を隠しもせずに。


 何も考えられなかった。もうここに生きていたくなかった。どこへ行くともなく、郁也はただ走った。頑丈そうな何かにぶつかり、走る郁也の方向が逸れても、全く感知せずに走り続けようとした。
「谷口? 谷口か。ちょっと待て」
「……松山君」
 郁也は声のした方に顔を向けた。松山は自分にぶつかって来た郁也の手首を素早く掴んで、小動物を捕まえるようにそうっと郁也に声を掛けた。
「どうした? 何があったんだ? また瀬川の野郎か?」
 郁也はふるふると被りを振った。
「かおりちゃんに、知られちゃった」
「どうしてまた」
「佑輔クン、今日自分のシャツ着て学校に来たのね。グリーンのチェックの。ボクがあの夜着てたヤツ。あの、みんなで初めて矢口君の店に行ったとき。ボクあのとき、佑輔クンのを借りて着てて」
 ぽつぽつ語りながら郁也が少しづつ落ち着いて行くのを確認して、松山はそっと言った。
「……お前ね。そんなことしてれば、バレるよ」
 郁也の目からはまた涙があふれ出した。
「だって、だってえ。あのとき、ボク、まほちゃんと買った新しい服、着て行きたかったんだもの」
 松山は郁也の手首を捕まえたまま青くなった。
「どこが『だって』なのか、さっぱり分からん」
「可愛い春物のブラウスとスカート、着て行けると思ったら、松山君かおりちゃんのこと呼んじゃうから。じゃあ、せめて佑輔クンのシャツ借りようと思って」
「どこから『じゃあ、せめて』になるのか、論理が読めん」
 松山は首を振った。
「よし、分かった。全然分からんが、とにかく分かった。お前そのツラでは講義どころではなかろう。俺が聞いてやるから、全部話せ」
 立ち話って訳にもいかんな、と松山は何やら呟いて、ひと気のない図書館の裏手に郁也を誘導した。

 構内の主要通路で、構内移動のための循環バスも通過する正面側とは違い、図書館の裏側は通るものもない叢だった。盛り上がった木の根本に座った彼らの肩の辺りまで、雑草が生い茂っている。しばらく前に刈ったきり放置されているのは、予算のせいだろう。
「……かおりちゃんね、ボクのこと『好きだった』って」
 郁也はしゃくり上げながら呟いた。ひっくと細い肩が上下する。松山が郁也を大声で叱り飛ばした。
「お前ねえ。だからお前は遠慮しとけって、俺言っただろ。何ひとりで資源の無駄遣いしてんだ。勿体ないって言葉、お前知らんのか」
「何だよお。そんなにポンポン言わなくたっていいじゃないか。ひとがこんなに傷付いてるのに」
「俺がポンポン言わなくて誰が言うんだ。瀬川なんかどっぷりベタ惚れで、お前にはひとっ言もないじゃないか。こんな下らんボランティアしてやるの、俺くらいのものだろう。少しは感謝して聞けよ」
「うう……」
 負けじと言い返す郁也に、また松山は勢い良く言い返し、遂に郁也は何も言うことがなくなった。郁也は黙って涙を流した。松山は郁也が泣くままにして、自分はその側に座って風に吹かれていた。しばらくして松山は言った。
「お前、理屈っぽいし、回転早いから今まで分からなかったけど。アタマん中、まんま女な」
 郁也は恨めしそうに松山を上目で見た。
「そうだよ。そう言ったじゃない。ボクが自分のこと話したとき、松山君もその場にいたよね」
「いたけど……。いや、こんなに理解出来ない論理を吐く人種が、この世にいるとは思わなかった。俺的にはこれまで築き上げた常識が、ガラガラ崩れ落ちるくらいの衝撃だ」
「ボクで練習して置きなよ。本番前に充分さ」
 こんなボランティアして上げるの、ボクだけだよ。郁也はようやくくすりと笑った。
「こんなのと日常普通にやってけるなんて、瀬川のヤツ、大したものだな。俺、心の底から尊敬するわ」
「……ボクだってベタ惚れだもん。佑輔クンにはあんまり無理なこと、言わないよ」
「俺には言うのか」
「だって、ボク、松山君には惚れてないもん」
「はあーあ」
 松山はがっくり肩を落とした。

 郁也は深呼吸した。タンポポの綿毛が鼻に付いてむずむずした。
「ごめんね、松山君。ありがとう」
「いいさ、別に」
 松山はタンポポを一本むしって、綿毛をふうっと吹き飛ばした。白い綿毛は風に乗ってふわりふわりと飛んで行った。
 郁也は小さくくしゃみをした。松山が黙ってティッシュをくれた。郁也は一枚取り出して鼻先に当て、「何か松山君て、ボクの本当のお兄さんみたい」と言った。
「何かお前って、俺の本当の妹みたい」
 松山は郁也を横目でじろっと見て言った。
「自分の友人のところに嫁に出したはいいが、所詮自分の友だちなんて高が知れてて、何かある度に心配んなってちょこちょこ首突っ込まざるを得なくなる、大バカ兄貴の気持ちだよ」
 とほほ、と松山は頭を抱えた。
「松山君……」
 松山はくっと首を上げて、空を仰ぎ見た。
「ま、仕方がない。乗り掛かった船だもんな。あのとき、お前が入院した後、お前をこれ以上泣かせんなって瀬川をぶん殴ってから、この役割は俺に固定なんだ。後はせいぜい矢口くらいか」
 矢口か。察しのいい彼なら、橋本の気持ちなど、とっくにお見通しだったろう。教えてくれればよかったのに、と郁也は思った。だが、そんなおせっかい、彼の柄じゃない。何もかも見透した上で、心配そうに成り行きを見守る。それが彼に相応しい。先回りして本人たちの経験を妨害するようなことは決してしない。
「お、そうだ。あいつにメールして置こう。こんなに苦労してやって、下らない焼き餅焼かれちゃ堪らんからな」
 松山はポケットからケータイを取り出した。
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