5、インジゴの夜に-4

文字数 3,975文字

「……ほら、出来たよ、いくちゃん」
 真志穂が優しく郁也に声を掛けた。郁也はマスカラが下瞼に移らないように注意しながら目を閉じて、ひと呼吸置いて目を空けた。鏡に映ったその姿は。
「キレイだよ。いくちゃん」
「まほちゃん……」
 先日真志穂と買ったブラウス。二枚の内のシンプルな白を、今日郁也は身に付けて来た。比翼の襟は僅かに開いて、郁也の鎖骨を際立たせていた。その細い頸から、視線を上げて。郁也は真志穂の魔法を見た。
 乳白色の潤んだ皮膚に、澄んだ瞳が輝いていた。頬はふっくら丸みを帯びて、優しいカーブを描いている。唇はぷるんと艶めいて、見るものの心をどきっとさせる。
 郁也は何も言えず黙っていた。瞳が潤む。
「……ボク、もう、十八なんだ」
「うん」
「骨の位置がね、変わって来てるの。自分で、分かるんだ」
「うん。そうだね」
「それから、顎がね。こう、頸に繋がるラインが」
「いくちゃん……」
 もう、言葉にならない。
 郁也は唇を噛み、涙をこらえた。
「いくちゃん、まだまだ、キレイだよ。よく見れば変化はあるかも知れないけど、それはそれ。今のいくちゃんを可愛いお姫さまにするメイクをすれば、こんなにキレイになるんだから」
 大丈夫。まだまだイケるよ。真志穂は小声でそう言って郁也にウインクした。

 郁也は数回瞬きをして、ようやく橋本に視線を向けた。
「かおりちゃん、どお? あはは、笑うでしょ」
 橋本は咽をごくりと鳴らした。
「郁也くん。どうしてそんなにキレイなの」
「かおりちゃん」
 橋本は両目を大きく見開いて郁也を見つめる。郁也は怖くなった。何とかこの場を凌がなければ。
「あはははは。そんなに褒めても何も出ないよ。ああ、このひとからは何か出るかもね。実際、凄い腕でしょう、まほちゃんは」
 この仕上がりは素材のせいではなく、真志穂の技術によるもの。郁也は橋本にそう印象付けようとした。
「ううん。郁也くん。あなたがこんなにキレイなひとだなんて、あたし今までちっとも気付かなかった」
「かおりちゃん……」
 郁也は椅子から立ち上がった。
「かおりちゃん、ボクって、変だと思うかい?」
「郁也くん」
「こういう姿のボクを見て、気持ち悪いと感じる?」
 橋本は首をぶるんと振って郁也を見上げた。
「ううん。あたし、そんなこと」
「そう。よかった……」
 郁也は橋本の顔を覗き込んだまま、ほっとして思わず笑みを漏らした。たったひとり出来た女のコの友達を、こんなに早く失いたくなかった。

「さ、いくちゃんも、おいで」
 真志穂は郁也も着替えさせた。さっき買って来たばかりのワンピース。ミッドナイトブルーに銀ラメのソフトな生地が身体にぴったりフィットして、肩紐のところには羽飾り。デコルテにはダイヤのようなスパンコールがびっしり並んでいた。仕上げに髪をふわっと立ち上げて。
「お姫さまっていうより、魔女だね」
 郁也は笑った。
「『白夜の国のお姫さま』だよ。夜の女王になるための修行中ってとこ」
「あはは」
 真志穂の発想はいつも面白い。アーティストの才能があるひとって、やっぱり違う、と郁也は思う。
「せっかくこんなにキレイにしたのに、このまま脱いで『はい、終わり』てのも詰まんないよね」と真志穂。
「そうですよね。どこか遊びに行きますか」と橋本がそれを受ける。
 いつかどこかであったような展開。真志穂の処に誰かを連れてくるといつもこうだ。
 郁也もついわくわくしてしまった。この都会の夜を、この姿で歩く。何て素敵。
「あ、でも、ボク……」
 郁也は残念そうに目を伏せた。佑輔がバイトから帰って来る。郁也のために、今日も朝から汗に塗れて働いていた佑輔が。
「いーじゃん。この間の矢口君の店に、みんな呼んじゃおう。どーせみんなヒマなんでしょう。今から呼べば集まるよ」
 真志穂が明るくそう言った。大きく頷いた橋本が松山と田端にメールを打つ。真志穂が郁也にだけ聞こえるように、「佑くんにも、見せたげよ。今日のいくちゃん」と言った。郁也は「うん」と頷いた。涙がひとつぶ、頬を伝った。


「郁……」
 もう、どうしてこのひとったら、ボクの願った通りの反応をしてくれるんだろう。
 佑輔は「白夜の国のお姫さま」になった郁也を見ると、何も言わずにその場に佇み、何秒も何秒も郁也を見つめ続けた。業を煮やした松山に「おいっ。眠ってんのか」とどつかれるまで、食い入るように郁也を見つめて黙っていた。
「……いや、寝てないよ」
 松山への返事にも全然気が入っていない。郁也は裸身を見つめられるよりも恥ずかしくなり、真っ赤になって下を向いた。
「もう、こいつらの鈍いテンポには付いて行けねえよ。あっち行こうぜ。お前ら勝手に好きなだけやってろ」
 そう吐き捨てて、松山は残りのメンバーの肩を押して奥のボックス席に収まった。集まったメンバーは松山、佑輔それに田端。矢口は連絡付かなかったが、土曜なら放って置いてもこの店に顔を出すようだ。真志穂も松山も、ふたりを揶揄うように笑って、賑やかに移動した。松山に肩を押された田端が、行き掛けにちらっとこちらを見たような気がした。

「佑輔クン」
「座ろうか」
 佑輔は郁也にカウンターの椅子を引いた。郁也がしゃなりとそこへ落ち着くと、静かに隣に腰掛けた。
「ボク、もう、十八なんだ」
「うん」
「でも、まほちゃんは、『まだまだ大丈夫。キレイだよ』って」
「そうか」
 佑輔は出て来た飲みものをひとくち飲んで、「良かったな」と笑ってくれた。
「ボク、どんどん、男のコになってくんだね」
「郁」
「ひとから見ても、もう、すっかり、普通の男のコなんでしょう、ボク」
 佑輔は笑った。
「その姿を見て男と思うヤツはいないと思うぞ」
「佑輔クンたら」
 郁也も思わず笑ってしまう。郁也は皿からチョコレートをひとつ摘み、ぷるっと光る唇に入れた。
「郁」
「なあに?」
「後悔してるか」
「え」
 郁也はゆっくり佑輔を見た。
「『何』を?」
「ん……その」
 佑輔は口籠もった。鼻の頭を数回掻いて、しばらくしてからようやく言った。
「あのとき、身体に手を入れなかったこと」
「佑輔クン……」
 郁也は息を呑んだ。
「どうして。どうしてそんなこと言うの」
「俺の我が儘だったかな、と思って」
 郁也は首を振った。
「ううん。そんなことない」
 だってボク、決心、付かなかったんだもの。

 確かに郁也は考えていた。
「事故」で入院した後、そのまま学院には戻らず手術をして、女のコになってから大検をパスし、一年遅れくらいで大学に進学すれば。家から遠い地方の大学を選べば、誰にも知られず違和感もなく、もしかして女のコとして生きられるかも知れないと。だけど。
「ボク、佑輔クンが好きだったから。もう佑輔クンに会っちゃ駄目なんだって思ったら、なるようになれって思ったけど。だけど佑輔クン、来てくれたから、ボクのところに」
 病室のベッドの上で、郁也は初めて「好きだよ」って言って貰った。憧れてた、大好きな、初めて郁也を抱き締めてくれた男のコに。一生、どんなに願っても、絶対自分の許には訪れっこないと絶望していた幸せを、あのとき郁也は手に入れた。これ以上願ったら罰が当たる。
「女のコになったらなったで、一生そういう目が付いて回る。どんなに隠しても、なにかある度にひとは噂するでしょう。今後世の中はよくなっていくかも知れないけど、少なくとも今はそうだよね。ボクはきっと、そういうの耐えられないから。それくらいなら、男のコのままで、ボクの中身を隠して生きる方がきっとラクだよ。ボクの中身は、佑輔クンだけが知っててくれれば、もうそれでいいんだ」
 それに母も父もまほちゃんも、オマケに、松山君、矢口君、中野君、横田君……。郁也は自分の性質を理解してくれた友人たちの名前を挙げた。最後に須藤の名前まで。
「みんな、分かってくれてるんだ。それだけで、ボク幸せだよ」
 本当にキレイだった頃のボクの姿を失っていくのは、ちょっぴり残念だけど。郁也はそう言って笑った。でも、女のコになっても歳は取る。失っていくことには変わりがないんだ。
「郁」
 佑輔はじっと郁也を見つめた。その目は悲しそうで、何かをぐっとこらえているように見えた。
「どうして佑輔クンがそんな悲しそうな顔をするの。ボク、今とっても幸せなんだよ。それは佑輔クンだって分かってるでしょ」
「うん」

「ボク、ゲイのひとから口説かれそうになったんだ」
「何」
 佑輔の顔から血の気が引いた。
「どこのどいつだ」
「もう、これだから。落ち着いてよ。だから嫌だったんだ。これからも生きて行くと、色んなことがあるよきっと。その度にそんな反応されたら、ボク、言わなきゃいけないことも言えなくなるじゃないか。佑輔クンはボクが大事なこと、全部秘密にしてしまってもいいの?」
「うう……」
 そう言われると反論出来ない。佑輔は唸った。郁也は佑輔の腕を愛しげに擦った。
「そのひとはボクのことなんか全然好きじゃなくて、好きなタイプでもなかったみたいなんだけど」 
「じゃ、何でちょっかい掛けて来るんだよ」
「さあ。珍しかったんだろう。それは知らないけど、とにかくボクは、『ゲイのひとの対象になる』ってことは、ボクが男のコだって烙印を押されたように感じたんだ。『ああ、これでもう、ボクは正真正銘、ただの男だ』って」
「郁……」
「それでちょっと、どっきりしただけ。それだけ」
 馬鹿みたいでしょ、と郁也は笑って舌を出した。佑輔はまた黙りこくって、カウンターの下で郁也の手を探した。その気配に郁也が手を差し出すと、佑輔はそれを自分の膝の上でぎゅっと握り締めた。温かい大きな手。いつも郁也を優しく愛してくれる佑輔の手。
「佑輔クン……」
 郁也は胸が一杯になってその名を呼んだ。
「郁」
「ん」
「腹減った」
 あはは。みんなのところに行って、食べものにあり付こうか。
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