4、ローズマダーのクッション-2

文字数 3,345文字

 夕暮れで読み辛くなった掲示板を、郁也は目を凝らして探していた。
 四コマ目、橋本情報で「経済学入門」を取った連中と離れ、郁也は「英会話B」の部屋へ行って見た。楽勝と聞いても郁也は経済には興味が向かず、逆に父に鍛えられた英語の方が、自分にはラクかと思えた。講師は素からの英語話者で、中国系のアメリカ人とのことだった。面白そうな講義で、郁也は(正解だったな)と思った。
 佑輔は、今日から早速運送会社のアルバイトに出掛けた。決まった時間に来る送迎バスのために、その日は四コマ以降を空けて置かなければならない。バイトのない日の佑輔の時間割はびっちり詰まっていた。
「夕ご飯どうするの」
 昼飯をかき込む佑輔に、心配そうに郁也は訊いた。
 三コマ目は「超楽勝」との触れ込みの「情報処理基礎理論」なので、それを取るために五人揃っての昼食だった。田端や橋本の前で余りあからさまなことは言えない。郁也は言葉遣いに注意した。
「どうしたもんかなあ。正門前にバスが来るのが四時半とのことだから、それまでに何か軽く食って置くかな」
「今そんなにしっかり食べて、そんな時間に何か入るの」
「ああ、それは多分大丈夫」
 郁也には信じられないが、佑輔は自信たっぷりだ。羨ましいというか何と言うか。
「何だ瀬川、バイトなのか」と松山が訊く。
「ああ。運送屋の荷物の仕分け」
 佑輔は食べるのに忙しく、言葉少なにそれだけ言った。
「わあ、何だか大変そう」と橋本が高い声を出す。
「それって無茶無茶肉体労働じゃないか」
 きつそうだなあ、と田端が言った。佑輔はそれには答えず箸を置き、黙って茶をすすった。誰より多い量を一番に食べ終わる。この頃には橋本の目も慣れたようで、もう大したリアクションもない。
「お前、昨日農協か何かのバイトもしてなかったか」
「ああ。『玉ねぎ』な。昨日と一昨日」
 松山は味噌汁椀に口を付けながらちろっと佑輔を見たが、それきり何も言わなかった。橋本が言った。
「瀬川くん、どうしてそんなに肉体労働ばっかり入れるの。きつそうなのばっかりじゃない。身体持つの」
 佑輔は「分からん。先ずやって見ないとな」と悠然と答えた。郁也は佑輔の隣で、箸を動かす振りをして下を向いた。郁也は何故佑輔がきついバイトばかりを選ぶか知っていた。
 自分のため、だ。
 郁也と暮らす生活のために、佑輔は金を稼ごうとしていた。

 郁也の家は結構余裕のある方だ。淳子はメーカーの研究所の所長として充分なサラリーを貰っているし、弘人はアメリカの大学で教授をしている他に、微々たるものだが原稿収入などもある。ふたりとも金の掛かる趣味もなく、日本とアメリカを行ったり来たりする旅費くらいがせいぜいだ。ひとり暮らしをするに当たって、郁也は淳子名義のクレジットカードの、家族用のを一枚与えられた。
(明細は送られて来るんだから、訳の分からない遣い方しちゃ駄目よ)
 淳子はそれしか言わなかった。そしてふたりの部屋の家賃は淳子持ち。谷口家の財力に匹敵するだけの金を、佑輔は必死に稼ぎ出そうとしている。
 匹敵はしないまでも、せめて生活費を折半出来るだけの金額を。
 佑輔の心は嬉しかった。だが郁也は佑輔に対して申し訳ない気持ちで一杯だった。自分の家がそう裕福でなければ、佑輔は引け目を感じることもない。だがそれではふたりの暮らし自体が危うくなる。
 せめてボクも出来る範囲で金を稼いで、親の財力に頼る割合を少しでも減らそう。バイト、しなくちゃ。

 郁也は学務係の建物の前に貼り出されたバイトの斡旋情報を、目を皿のようにして探した。時給の高いのは肉体労働、それから教育産業。家庭教師は個人で探しているものと、組織のものとある。予備校の講師の募集もあった。夜中の仕事も時給は高いだろうが、大学は十時以降のバイトの斡旋はしないとある。
「なになに。医学部と理学部限定? へえ。そんな制限を掛けるんだ」
 郁也はひとり言を呟いた。
 医学部生は忙しいだろうから、専門に上がったらバイトどころではないだろう。理学部は売り手市場だ。農学部に入った佑輔が肉体労働ばかりを選んだのは、ひとつにはこうした厳しい現実のせいだった。
 郁也は紹介の申し込みのため、案件の番号を控えていた。
「やあ、バイト探してるの」
 周囲にひとはおらず、明らかにそれは郁也に向けられたものだった。聞き覚えのない声。郁也は声のした方を振り返った。
「君、さっきの『英会話B』出てたよね」
「あ……」
 見たことのある顔立ち。多分理学部の一年生で、郁也とは幾つか同じ講義を取っている。講義室で何度も見掛けた顔だ。
「君、理学部でしょう。多分S2?」
「ええ、そうですけど」
「俺S1。S1の烏飼広海(うかいひろみ)。よく講義で見掛ける顔だなと思って」
「そうですね」
 郁也は自分の名前を名乗った。烏飼と名乗ったその男は、細身の骨格に筋肉をしっかり付けたような身体付きで、それを強調するぴったりした黒いジーンズに、やはり黒っぽいライダージャケットを羽織っていた。顔立ちそのものが整っているというよりも、雰囲気がカッコいい、矢口のようなタイプだった。
「君、可愛いね」
「え」
「金になるバイト探してるんなら、いつでも言ってよ。美味しいの紹介して上げる。俺ちょっとツテがあるんだ」
 驚いて郁也は口を利けなかった。黙ったままの郁也を尻目に、烏飼は「じゃ、また講義室で」と颯爽と歩き去った。
 何だったんだろう、今の。
 郁也は首を捻った。
 こうしている間にも時間が過ぎる。郁也は番号を控えた紙切れを手に、急いで学務係の扉を開いた。


 玄関の扉が開いた。
 郁也は急いで駆け寄った。
「お帰り」
 佑輔は座り込んで靴の紐を解いていた。
「ただいま。まだ起きてたのか」
「小学生じゃないんだから」
 郁也は笑って佑輔の脱いだコートを受け取った。まだ十一時前だ。
「お腹空いてる? 食べるものは一応あるけど」
「ああ、食べる」
 夕飯はふたり分作って見た。佑輔が食べなかったら明日に回そうと思って、時間が経っても食べられる煮物と魚と青菜のお浸し。七時過ぎ頃食卓に付いたが、ひとりだとどうも箸が進まず、郁也はほんのちょっとしか食べなかった。
「ボクもちょっと摘んで見ようかな」
 郁也は佑輔の隣に自分用の取り皿を出した。佑輔は郁也の作ったものを、本当に美味しそうに食べる。学食で義務のように黙々と平らげるのとは違って、ハイペースながら一品一品嬉しそうに食べてくれる。郁也もそんな佑輔を見るのが嬉しい。
「今日のはどんな仕事だったの」
「ああ、そのまんまだよ。集められて来た荷物をベルトに載せて、自動で行き先毎に分けられた荷物をまとめて数量をチェックして、長距離輸送のトラックに積んで」
 佑輔は口を大きくもぐもぐ動かしながら、きらきら目を輝かせて聞く郁也に説明する。佑輔の襟許からは汗の匂いがした。
「そのうち慣れて来たら、事務的なチェックの方に回されるかも知れない。でもまあ、しばらくは力仕事だな」
 そうなんだ、大変だね。郁也はそう言って取り分けた煮物を口に運んだ。箸で摘み上げにくいそれを、郁也は身を屈めて頬張った。ゆったりしたパジャマの胸許から、郁也の薄桃色の肌が覗く。佑輔は箸を置いた。
「あ、お茶淹れようか」
 郁也は立ち上がろうとした。
「郁」
 佑輔はその手を取り引き寄せた。郁也の身体はころんと佑輔の胸に倒れ込んだ。
「佑輔クン」
 佑輔は何も言わずに郁也の唇を吸った。郁也の腕が佑輔の胴を回って背中を掴む。その咽は呼び起こされる感覚の甘さに切なく唸った。唇を、舌をこうして互いに弄んでいると、眠っている欲望が次々呼び覚まされて身体の中一杯に膨れ上がる。息をするのも苦しい程だ。
「あぁ……佑輔ク、ン……」
 郁也の唇を離れた佑輔のそれは、郁也の頬を、頸を伝い、釦を外したパジャマを開いて下へ降りて行く。勝手知ったる秘密の庭。佑輔はその右と左のどちらの反応がより鋭いかまでを、今やすっかり知り抜いていた。
「あ!」
 痙攣する郁也の身体から無理矢理引き剥がすように唇を離して、佑輔は「シャワー浴びてくる」と風呂場へ消えた。
 郁也はしばらくその場から動けなかったが、やがて目を閉じ深呼吸してようやく立ち上がり、食べた後を大急ぎで片付けた。
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