5、インジゴの夜に-3

文字数 3,666文字

「かおりちゃーん、こっちこっち」
 郁也は大きく手を振った。橋本が気付いてせっせとこちらへ駆けて来る。
「ごめんなさい。待った?」
「ううん。全然。あたしたち先に来てちょっと買い物してただけ」
 真志穂が真新しいペーパーバッグを持ち上げて見せる。
「ちょっとばかし散財しちゃったよね」「ね」真志穂と郁也は顔を見合わせた。

 三人は真志穂の部屋へ歩き始めた。
「そうだ、かおりちゃん、服のサイズは?」との真志穂の質問に、橋本が号数を答える。
「でもあたし肩の辺りに筋肉付いてて、ワンサイズ大きいのを詰めて貰ったりするんです」
「ああ、メーカーやデザインによってはフィット感変わるもんね」
「ふーん。そうなんだ」
「はは、いくちゃんは理想的なモデル体型だもんね」
「そうなの? よく分かんない」
 郁也がこれまで着た服は、自分の男のコ服以外は全て真志穂が用意したものだった。外へ出られなかった真志穂は通信販売で次々と様々なテーマの衣装を仕入れ、好きにミシンを踏んであちこち調整して郁也に着せた。郁也は真志穂とサイズが同じだったので、表向き自分の服を郁也に着せるという感じだった。
 だが、郁也の見たところ、自分が着せて貰った後、かなりの枚数がそのまま放置されている。あえてそれを指摘はしないが、郁也は不思議に思っていた。そしてそれらの服を真志穂は、高校時代過ごした街で真梨恵と借りていた部屋を引き払ったとき、処分せず、広い実家に送りもせず、この街で新たに借りたマンションに全て持ち込んだらしいのだ。そのため、専門学校生が借りるのにワンルームでは足りず、真志穂はふたり暮らしの郁也のところと似たような間取りの部屋に住んでいる。しかも繁華街から歩ける距離に。

「ええっ、真志穂さん、こんなところに住んでるんですか」
 真志穂が何の躊躇いもなく大理石を模したエントランスを進んで行くのを、橋本が驚いて叫んだ。
「ははは。まほちゃん家、お金持ちだからね」
「そう。本当はいくちゃんにも行く筈だったお金だから。とっとと使っちゃおうと思ってる、あのババアの金なんざ」
 そう言って真志穂は思いっ切り顔をしかめた。
 部屋の中はこざっぱりして、無駄なものもなくスッキリしている。四角い部屋の一角に、ライトとミラーと道具の詰まったワゴンが一台置かれていた。
「わあ……、本格的」
 橋本が目を丸くしている。郁也もここへ入るのはまだ数度なので若干もの珍しいが、真志穂が台所で湯を沸かす音がしたので、そっと行って引き継いだ。お客さまのお相手して、と無言で真志穂の肩を押した。
「素敵なお住まいですね」
「そう?」
「あはは。矢口君とこはもっと凄いらしいよ。ボク行ったことないけど」と郁也は台所から声を張り上げた。
 松山がそう言っていた。「生半可じゃねえよ。夜景がキレイでさあ、女のコなんかころっと参っちまうぜ、ありゃあ」との評を先日聞いた。
「最近高いマンション売れ残って困ってるみたいだから、不良在庫のひとつなんじゃないの」と真志穂が言うので、郁也も「あは。違いない」と笑った。話の見えない橋本がきょとんとしたので、郁也は笑いながら説明した。
「矢口君こそ、君の言う通り、正真正銘のお坊ちゃまだよ。建設会社の御曹司で、お父上は近々政界入りするって噂されてる。玉の輿狙うんなら彼以上のターゲットはないよ」
「いくちゃん、それって勧めてるの」
 真志穂が橋本の肩に両手を掛けた。
「駄目だよ。こんな可愛いお嬢さんに。あんなホスト」
「だからだよ。彼がいつも遊んでるギャルとも、親に言い含められて彼を狙うお嬢様とも違う、こういうバランスの取れたタイプ、珍しくていいと思うんだよね」
 ホントは、悪いコじゃないんだよ、矢口君て。郁也は小さくそう付け足してお茶のセットを運んだ。「ふーん、そんなもんかねえ」と真志穂はカップに口を付けた。橋本は下を向いて何も言わず、真志穂のメイク道具を手に取り眺めていた。
「……真志穂さん、これって何に使うものですか」
「まあ、このコは。ビューラーも知らないのかい」
「あはは。だからほら、まほちゃん。さっさとそのコを、お姫さまにして上げてよ。きっと本人が一番びっくりするからさ」

 顔の周りの髪をダッカ―ルで止める。襟にタオルを掛けて服が汚れないようにする。コットンにローションをたっぷり含ませて、橋本の若い素肌を整える。
「キレイな肌だね。バドミントンやってたって言ったっけ」
「はい。高校三年間。今もサークルに入ってます」
「外の陽射しに当たってないからかね。肌理細かくてつやつやだ」
 真志穂が落ち着いた声で橋本に声を掛けながら、手順を進めて行く。郁也は真志穂の隣で、真志穂が次に使う道具を手渡す。息の合った動きであった。
「好きな女優さんとか、憧れるタイプとか、ある?」
「さあ、ここしばらく受験準備でテレビも見てなかったから。あ、でも、昔からスキなのは、ヘプバーン」
「キャサリン? それともオードリー?」
「あ、オードリーです」
「どの作品の彼女が好き?」
「そうだなあ。全部いいけど、強いて言うなら、『暗くなるまで待って』かなあ」
「へえ? じゃあ、彼女の美しさがポイントなんじゃ、ないんだね」
「ああ、まあ、そうです。彼女の芯の強い、心が綺麗だな、と思わせるようなところですかねえ、あたしが魅かれるのって」
 郁也はふたりの会話を聞くともなしに聞いていた。「暗くなるまで待って」とは、中年に差し掛かった年齢のヘプバーンが、盲目の女性を体当たりで演じたサスペンス映画である。女優としての彼女の魅力を訊ねて、万人を虜にした若かりし頃の愛らしい彼女を挙げないひとがいるとは。真志穂は別に映画の好みを訊ねたのではない。

 会話の端々から、真志穂が橋本のイメージする女性像を探る。その間にも、郁也に「あ、それじゃなくて、うん、その幅の広い方」「うーん、そうだな、そのリキッドの黒。それ」などと指示を出し、郁也も的確にそれに応えた。その様子を、橋本は何の違和感も感じていないようだ。郁也がメイクの道具や手順に精通している男のコだと既に理解しているか、化粧のことなど考えたこともないかのどちらかだ。後者であろう。
「はい、出来た」
 真志穂は橋本の肩からタオルを外した。郁也が姿見をからからと橋本の前に引いて来る。
「え……」
 橋本は絶句した。
 大きな二重。穏やかな意志を感じさせる眉。理知的な唇。引き締まった、それでいて優しげな頬。
 鏡の中には、橋本がこれまで見たこともない、きりっとした美人がいた。
「うそ……。こんな風になるなんて」
「ね? 言った通りでしょう」
 郁也は髪からダッカ―ルを外しながら橋本に微笑んだ。
「郁也くん。こんなになるって、思わなかったあたし」
「さ。かおりちゃん。次はこっちの部屋にね。髪は服を着てからにするから」
 真志穂はそう言って橋本を奥の部屋へ連れて行った。郁也は真志穂の使った道具を片付け、お茶を淹れ直す支度をしてふたりが出て来るのを待った。
「いくちゃん、これ、どうお」
 真志穂の明るい声がした。郁也が振り返ると、五十年代風の円形スカートに大きなリボンを結んだ橋本が立っていた。
「和製ヘプバーンにはちと遠いけど。いいんじゃない」
「遠いかなあ。結構いい線行ったと思うんだけど」
 郁也と真志穂の間で、橋本が頬を紅潮させていた。
 さっきの椅子に再び橋本を座らせ、今度は丈の長いケープを着せる。足許には既に郁也によって新聞紙が敷かれていた。真志穂がちゃきちゃきとリズミカルに鋏を動かして、橋本の髪を整えて行く。上の方に重さを残して襟足を軽く。最後に残したトップの髪を整髪料で更に膨らませて、完成だ。
「ほうら。本日のお姫さまだよ」
 郁也は橋本に鏡を向けた。
 郁也の視線を気にしながら、橋本は右を向いたり左を向いたりして、別人の自分を確かめた。信じられなくて、嬉しくて。その気持ちを痛い程知っている郁也は、好きなだけ橋本をそうして置いた。少女が子供の殻を脱げないでいるとき。きっとそこには照れ臭い、恥ずかしい気持ちと、どうしてよいか分からず途方に暮れる当惑とがあると思う。橋本は今日、その殻から救い出された。キレイな季節に生まれ変わった、誕生の瞬間だ。

 郁也が羨ましそうに橋本を眺めていると、真志穂が「さ、次はいくちゃんだよ」とタオルを手に郁也を呼んだ。
「ええ。いいよお」
 郁也は尻込みした。橋本の前でそんなこと。そう思いながらも、郁也の胸はどきっと弾んだ。
 真志穂も心得たもので、強制するように「いいからいらっしゃい」と尊大に手招きした。「ええー?」と郁也は橋本に(困ったな)という目を向けて、渋々真志穂の前の椅子に腰掛けた。
「かおりちゃん絶対笑うよぉ。恥ずかしいな」
「笑わない! 笑わないよ。だから、安心してよ。真志穂さんの手に掛かったら、郁也くんがどんな風になるのか、あたし、見てみたい!」
「このひとは男性メイクはしないんだよ、言っとくけど」
「分かってるって」
 橋本は無邪気に笑っている。郁也は覚悟を決めた。
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