第25話

文字数 2,718文字




 一階の『焼き肉屋』でホッピーを飲みまくり、真奈美はふらふらした面持ちで階段を上がる。
 ホッピーとは、発泡酒のようなものと合成酒の焼酎みたいなものを半々入れて飲む、安上がりな酒だ。
 真奈美は、琴美と酒を飲む時は、好んでホッピーを飲んだものだ。
 ここ渋谷では、やたらとホッピーの幟を店の外に立てかけてあるところが多いので、真奈美の中では、この街の象徴のように捉えていて、だから、ホッピーが大好きなのだ。
 二階にあるリハーサルスタジオの扉の前で、真奈美は立ち止まる。
 琴美、杏城サマは、よくここでバンドの練習をしていた。
 琴美はVJとして街の有名人だったが、真奈美が琴美と出会ったのは、ここのリハスタだった。
「はじめて会ったとき、私、杏城サマに突っかかって行ったんだよねぇ」
 思い出すと泣きそうになる。
 真奈美は琴美を失いかけ、そして、加奈子まで、暴漢に襲われた。
 犯人は未だ捕まらず。
 真奈美は誰かに助けて欲しくなる。
 自分に彼氏がいれば、慰めてくれただろうか。
 でも、彼氏といちゃらぶルートを拒絶したのは、自分自身だった。
 真奈美は「加奈子がいるから、別に彼氏はいらない」と思ってここまでやってきた。
 でも、その結果、今の苦しい状況を切り抜けることが困難になっただけだった。
 自分じゃ結局、なにもできない。
 無力であることを突きつけられ、一体運命は自分にどうしろと言うのか。
 全くもって不条理だった。
 三階に上がる。
 加奈子とルームシェアしている部屋のドアを開け、入る。
 電気をつけると、空白であるかのような錯覚すら受ける。
 今はもう夜。
 加奈子が退院の予定の日だったが、部屋に加奈子は帰ってきていないようだ。
 リビングに立つと、玄関の鍵が解錠された音が聞こえた。
 黙って部屋に侵入してきたのは、志乃詩音だった。
 バッドタイミング。
 真奈美は舌打ちした。
「加奈子はまだ帰ってきてないわよ」
 詩音は目を細めて、「そう」と、呟いた。
「豚娘さん、あなたにはこの世界がどう見えているのかしら。……兎角、この世界は、憎しみと矛盾と、それから少しだけの感動から出来ている。つまりそれは、憎しみの涙と、矛盾に悩む涙と、感動の涙。その涙が海に変わり、ひとは死んだとき、涙で出来た原初の海へと帰っていく」
「なにが言いたい」
「涙の海が原初の海ならばまた、母親の胎内の羊水も涙で出来ているんじゃないかと思ってね。受け継がれる涙の海の行き着く果てが、この世界の終末なんだわ」
「詩人のつもりなの? 悦に入るなキモい」
「文系脳のあなたに合わせて言っているのに、やっぱり豚はしょせん豚ね。ケータイ小説とか言うアングラ世界に満足して悦に入ってるのはあなたの方でしょう。一億層中流のこの国に、アングラ文化はいらない。だからどのみち、このまま進めば全てのアングラクリエイターもまた、『業界』にみかじめ料としての献上金を渡すことになるわね。安値で買い叩かれて終わりよ」
「自分はメジャーアーティスト様だからって、調子に乗るなよ」
「危惧してるのよ、私の可愛いお姫様、加奈子のことを、ね。メジャーにいても、要するに顔だけ整って媚びを売るのが酷い、若さだけが武器の女でしかないわ。でも、バカな男どもは、今日もそんな女に、懲りずに騙され続けてる。外見だけのクソ女と、それに群がるクソ男。……音楽? 歌? 音楽なんて所詮はただのBGMにしか過ぎないわ」
「じゃあなんであんたはそんなクソ女に、望んでなろうとするのよ。つじつまが合わない」
「私はね、壊したかったのよ。家族を、友人を、家庭のエディプスを」
 エディプス・コンプレックス。
 いや、詩音は女だから、エレクトラ・コンプレックスか。
 真奈美は頭を巡らす。が、意味がわからない。
 この女は一体、なにを言っている?
「そして、家庭は壊れたわ。加奈子も、壊れた。私が壊したの。壊れたから、もう、私しか見ていないし、私も可愛く壊れたあの子しか見ていない。壊したから、私が回収に来たの、壊した責任を取りに。……壊れて泣きわめき続けるあの子の涙を一生側にいて眺めるのが、私の夢。あの子の流した涙の海で、私は泳いでいたい。ここまでの道のりは長かったわ。前へと突き進む私が本当に欲しかったのはいつも後ろで姉の私を眺めている自分だったなんて、私のお姫様は、気づきもしなかったでしょうね」
 真奈美は名にも言えない。
 この女は狂っている。
 それしかわからない。
「お姫様のラプンツェルは瞳を潰されたわ。私もあの子の瞳を潰したの。潰された瞳はもう、私しか見れない。瞳を潰されたまま、城を追い出されたラプンツェルのように、あの子も荒野を彷徨っている。その涙が可愛くて……壊した甲斐があったというものよ。倉敷真奈美、あなたは加奈子に似つかわしくないし、あなたの想いは加奈子には絶対に届かない。私にひれ伏して、ここから去りなさい。噛ませ犬の出番はもう終わったのよ」
 詩音は声を出して笑う。
 チャンスだ、と真奈美は思った。
 今、こいつは自分の言葉に酔って、自分しか見ていない。
 真奈美は棚の上にあった算段警棒を掴むと、その切っ先を伸ばし、そして詩音に飛びかかった。
「なにが瞳を潰しただッ! 加奈子があんたしか見てない? 冗談言うなよッ、あんたの方だけが加奈子しか見ていないんだッッッ!」
 頭頂部を算段警棒で殴りつける。
 詩音はなにが起こっているのか把握できない。
 その間に、真奈美は何度も何度も詩音を殴りつける。
 どうにか現状を知り、身体をよじらせた詩音の後頭部を五回連続で警棒を叩きつけると、詩音は倒れ、その場で気を失った。
 頭を殴りまくったので、額から血が、まるで映画の血糊みたいに豪勢に流れ出ている。
 真奈美は、人間が現実でもこんなに血が流れるもんなんだ、と感心していたが、気を取り直し、緊急用に買っておいた災害用のロープを二本持ってくると、倒れている詩音の手足を縛った。
 腕は後ろ手に縛る。
「拉致ってのも、楽しいかもね」
 真奈美はタオルを二枚持ってきて一枚を口に突っ込み、もう一枚で猿ぐつわにするため、口に突っ込んだタオルを固定して顔に縛った。
 計画性ゼロ。
 後先考えずムカついて、勢いで殴って拉致ってしまったけど。
 果たしてこれからどうするか。
 またあの『ペット』が来るだろうが、その時はその時で考えればいいか、と真奈美は思い、一仕事終えた気分でパスタを茹でることにした。
 畳には、詩音が流した血が凝固しはじめている。

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