第1話
文字数 2,979文字
二〇〇三年十一月。東京都渋谷区、丸山町。
はじめて食べたサボテン・ペヨーテのステーキの食感はスターフルーツの実のようで、ジューシーだった。
しかし志乃加奈子はもう、この食感にも味にも慣れた。
ペヨーテは幻覚を見せるのがウリだというが、加奈子が思うに、幻覚作用なんて、ありそうもなかった。
自分の隣でガツガツとうまそうにペヨーテのステーキを食べる倉敷真奈美を観ていると、こんなもののどこらへんが魅力のある食べ物なのだろうか、と加奈子は疑問に思う。
肉や野菜などの煙で満たされるこの『焼き肉屋』の店内でナイフをくるくる指で回して加奈子は低い天井を見上げると、すすけた照明。
なんだかこの街を満たす暗い闇にいるという事実を突きつけられたみたいで。
飲食店の中なのに、おいしさが吹き飛ぶマズいことを思い出してしまう。
この街には現実逃避の手段はない。
この店なんかやペヨーテも、もちろん現実逃避を助ける手段ではない。
おいしいは嬉しい。
そうかもしれないが、現実を忘れるほどのものはない、食べ物にも、幻覚サボテンにも、そしてこの渋谷にも。
というかペヨーテよりも部屋で音楽を聴いて爆音にまみれた方がまだマシだ。
加奈子はため息をつく。
幻覚性のあるサボテン、ペヨーテねぇ……。
ペヨーテを食べる手を休めナイフを指で回す加奈子を眺め、真奈美は「くるくる回すの、お上手、ジョーズ」と言って、映画『ジョーズ』のサントラを声で再現する。
ジョーズとかいうサメに人々が食べられる映画みたいな怪物による破壊じゃなく、あのハリウッドの国は人間の手によってビルに飛行機が突っ込まれたばかりだし、なんとも風刺が効いてんな、と加奈子は口元を緩めた。
加奈子がここ、渋谷区円山町に引っ越してきたのはまさにあの国に飛行機が突っ込んだその三日前だった。
ケータイに緊急ニュースがメールで配信されてきた時は迷惑メールの類いかと思ったが、そうではないということを知り、加奈子は先行き不安になったものだった。
が、どうもそれはこの日本のオプティミズムに釘を刺したみたいで、メンヘラの加奈子は「私、生きやすくなるかも」という期待を持てたりもした。
それこそ加奈子のオプティミズムそのものが疼く。
「それにしてもさー」
ジョーズのサントラをやめた真奈美が口をとがらせる。
「駅前のエキシビジョンさぁ、最近字幕でMDMAの乱用禁止、とかひっきりなしに流れるじゃん」
「んん? ああ、流れるわね」
「でも、一旦三丁目や丸山に入ると合法ドラッグの店が乱立してたり、宇田川にもドラッグのバイヤーが突っ立ってたりして、緊張感全然ないよね、なんか」
「そうだね。今食べてるペヨーテも合法ですぐに食べられるし」
「そのうちなんでもかんでも規制されはじめんじゃん? 『危険ドラッグ』とか言って」
「危険ドラッグ。名前のセンス最高」
「でしょ! 今れーてんご秒で浮かんだ名前なんだけど。危険じゃないドラッグってあんのかよ! みたいな」
「煙草も値上がりだし」
「『丸山の薬局』はきっと大盛況だよ。商売敵がじゃんじゃん減っていって、げーのーかいとかに太いパイプ持ってるそういうとこが一人勝ち!」
ブラックジョークここに極まれり、みたいなこんな会話が、今ではずっと続いてる。
加奈子はルームメイトの真奈美に笑いかけながら、疲れ切った心を隠すように、Zippoの火を付け、しばらく炎を見つめる。
「カブキチョーでは顔認識ソフト付きの監視カメラ設置だってー。どこもかしこも、なに考えてんだか」
足をテーブルの下でバタバタさせながら喋る真奈美を見ながら、加奈子は口元のアメリカンスピリットに火を付ける。
「なんでもかんでも監視。安全! みたいな。んなわきゃねーっつの」
「そうだね」
加奈子は紫煙を吐く。
「ああ、もう、うぎゃー。げほげほ」
煙で咳き込む真奈美。
「……しっかしあの飛行機のビル破壊で危機意識、高まってるのかな」
その通りだろう、と加奈子は思うが、言葉には出さない。
まだ、あの話は現在進行形で続いていて、それを加奈子にはうまくイメージ出来ないのだ。
なにかを自分も語る必要がある、と自分の奥底が訴えかけてはくるのだけれども。
「危機意識っつっても、人の生活を全部管理しようっていう腹黒さを感じるなー。国民全員に通し番号つける話なんかもすんなり通りそうだし、管理する側の思惑に流されていってしまうこの庶民の感情。ポピュリズム動員サマサマなんじゃねーの、国家としては。どこもかしこもゲイテッド化ってね」
足をじたばたさせながら大声に似たトーンで話す真奈美は特に周りを気にしていないから、加奈子はちょっと声が大きいんじゃない? と真奈美に言って周囲を見渡す。
が、店の中の人々は焼き肉を焼いて喋るのに夢中で、加奈子達に目を向ける者はいなかった。
居酒屋でトークすると、一人で飲んでるオッサンとかが話を聞いていたりするものだが、その点、肉を焼く音とその焼く動作の忙しさで他人の話題に関心を寄せることがあまりないこの『焼き肉屋』は、少し危ない会話をするのに、意外に適しているのである。
加奈子は胸をなで下ろす。
「今日はこれからどーすんの、加奈子ちゃん。私はもう部屋に戻るけど」
「私はバイト」
「どっちの?」
「ラブホ」
「そっかぁ。お風呂のお湯、入れとく?」
「頼むわ」
「ラジャ」
加奈子と真奈美はルームシェアをしている。
だから実は、わざわざここで危なっかしい話をする必要はないのだが、しかし、真奈美は外でドラッグやらなんやらの話をするのが好きなのだった。
困った子ね、と加奈子は思いながら、ペヨーテのステーキを平らげた。
真奈美は「お勘定ー」と、店員に話しかけた。
加奈子は、私が払うというと、「いーの、いーの」と加奈子を制し、自分の財布をセカンドバッグから取り出した。
レジのところに加奈子と真奈美が行くと、店の入り口から加奈子たちの見慣れた人物が入ってきた。
ビジュアル・ジョッキー(VJ)の杏城琴美であった。
「オッス」
手を上げ挨拶をする琴美に、
「キャー。杏城サマー」
と、真奈美ははしゃいでみせる。抱きつこうとする真奈美のおでこを手で押さえ近づけなくさせながら琴美は、
「志乃加奈子。曲は?」
「鋭意制作中」
「飯は?」
「今食った」
「これからどうすんの?」
「加奈子ちゃんはこれからバイトだよー」
口づけしようと唇をタコの口のようにする真奈美を、琴美は手で制したまま、「ふーん」と、つまらなそうな仕草をする。
「じゃ、これから私は真奈美ちゃんを借りよっかな」
「お好きにどうぞ」
「キャー、杏城サマに食べられちゃうー」
「私はここじゃ焼き肉しか食わねぇよ」
加奈子はレジから入り口の方へ歩き出す。
「じゃ、私はもう行くから」
琴美は軽く加奈子の肩を叩く。
「あんまり思い悩むなよ」
「はいはい」
振り向かないまま手を振って、加奈子はバイトに向かった。
「曲の締め切りもあるな。だりぃ」
加奈子は外に出て髪をかきむしり、それから深呼吸した。冬も近い夜の丸山の外気は、そんなに良い空気じゃなかった。
はじめて食べたサボテン・ペヨーテのステーキの食感はスターフルーツの実のようで、ジューシーだった。
しかし志乃加奈子はもう、この食感にも味にも慣れた。
ペヨーテは幻覚を見せるのがウリだというが、加奈子が思うに、幻覚作用なんて、ありそうもなかった。
自分の隣でガツガツとうまそうにペヨーテのステーキを食べる倉敷真奈美を観ていると、こんなもののどこらへんが魅力のある食べ物なのだろうか、と加奈子は疑問に思う。
肉や野菜などの煙で満たされるこの『焼き肉屋』の店内でナイフをくるくる指で回して加奈子は低い天井を見上げると、すすけた照明。
なんだかこの街を満たす暗い闇にいるという事実を突きつけられたみたいで。
飲食店の中なのに、おいしさが吹き飛ぶマズいことを思い出してしまう。
この街には現実逃避の手段はない。
この店なんかやペヨーテも、もちろん現実逃避を助ける手段ではない。
おいしいは嬉しい。
そうかもしれないが、現実を忘れるほどのものはない、食べ物にも、幻覚サボテンにも、そしてこの渋谷にも。
というかペヨーテよりも部屋で音楽を聴いて爆音にまみれた方がまだマシだ。
加奈子はため息をつく。
幻覚性のあるサボテン、ペヨーテねぇ……。
ペヨーテを食べる手を休めナイフを指で回す加奈子を眺め、真奈美は「くるくる回すの、お上手、ジョーズ」と言って、映画『ジョーズ』のサントラを声で再現する。
ジョーズとかいうサメに人々が食べられる映画みたいな怪物による破壊じゃなく、あのハリウッドの国は人間の手によってビルに飛行機が突っ込まれたばかりだし、なんとも風刺が効いてんな、と加奈子は口元を緩めた。
加奈子がここ、渋谷区円山町に引っ越してきたのはまさにあの国に飛行機が突っ込んだその三日前だった。
ケータイに緊急ニュースがメールで配信されてきた時は迷惑メールの類いかと思ったが、そうではないということを知り、加奈子は先行き不安になったものだった。
が、どうもそれはこの日本のオプティミズムに釘を刺したみたいで、メンヘラの加奈子は「私、生きやすくなるかも」という期待を持てたりもした。
それこそ加奈子のオプティミズムそのものが疼く。
「それにしてもさー」
ジョーズのサントラをやめた真奈美が口をとがらせる。
「駅前のエキシビジョンさぁ、最近字幕でMDMAの乱用禁止、とかひっきりなしに流れるじゃん」
「んん? ああ、流れるわね」
「でも、一旦三丁目や丸山に入ると合法ドラッグの店が乱立してたり、宇田川にもドラッグのバイヤーが突っ立ってたりして、緊張感全然ないよね、なんか」
「そうだね。今食べてるペヨーテも合法ですぐに食べられるし」
「そのうちなんでもかんでも規制されはじめんじゃん? 『危険ドラッグ』とか言って」
「危険ドラッグ。名前のセンス最高」
「でしょ! 今れーてんご秒で浮かんだ名前なんだけど。危険じゃないドラッグってあんのかよ! みたいな」
「煙草も値上がりだし」
「『丸山の薬局』はきっと大盛況だよ。商売敵がじゃんじゃん減っていって、げーのーかいとかに太いパイプ持ってるそういうとこが一人勝ち!」
ブラックジョークここに極まれり、みたいなこんな会話が、今ではずっと続いてる。
加奈子はルームメイトの真奈美に笑いかけながら、疲れ切った心を隠すように、Zippoの火を付け、しばらく炎を見つめる。
「カブキチョーでは顔認識ソフト付きの監視カメラ設置だってー。どこもかしこも、なに考えてんだか」
足をテーブルの下でバタバタさせながら喋る真奈美を見ながら、加奈子は口元のアメリカンスピリットに火を付ける。
「なんでもかんでも監視。安全! みたいな。んなわきゃねーっつの」
「そうだね」
加奈子は紫煙を吐く。
「ああ、もう、うぎゃー。げほげほ」
煙で咳き込む真奈美。
「……しっかしあの飛行機のビル破壊で危機意識、高まってるのかな」
その通りだろう、と加奈子は思うが、言葉には出さない。
まだ、あの話は現在進行形で続いていて、それを加奈子にはうまくイメージ出来ないのだ。
なにかを自分も語る必要がある、と自分の奥底が訴えかけてはくるのだけれども。
「危機意識っつっても、人の生活を全部管理しようっていう腹黒さを感じるなー。国民全員に通し番号つける話なんかもすんなり通りそうだし、管理する側の思惑に流されていってしまうこの庶民の感情。ポピュリズム動員サマサマなんじゃねーの、国家としては。どこもかしこもゲイテッド化ってね」
足をじたばたさせながら大声に似たトーンで話す真奈美は特に周りを気にしていないから、加奈子はちょっと声が大きいんじゃない? と真奈美に言って周囲を見渡す。
が、店の中の人々は焼き肉を焼いて喋るのに夢中で、加奈子達に目を向ける者はいなかった。
居酒屋でトークすると、一人で飲んでるオッサンとかが話を聞いていたりするものだが、その点、肉を焼く音とその焼く動作の忙しさで他人の話題に関心を寄せることがあまりないこの『焼き肉屋』は、少し危ない会話をするのに、意外に適しているのである。
加奈子は胸をなで下ろす。
「今日はこれからどーすんの、加奈子ちゃん。私はもう部屋に戻るけど」
「私はバイト」
「どっちの?」
「ラブホ」
「そっかぁ。お風呂のお湯、入れとく?」
「頼むわ」
「ラジャ」
加奈子と真奈美はルームシェアをしている。
だから実は、わざわざここで危なっかしい話をする必要はないのだが、しかし、真奈美は外でドラッグやらなんやらの話をするのが好きなのだった。
困った子ね、と加奈子は思いながら、ペヨーテのステーキを平らげた。
真奈美は「お勘定ー」と、店員に話しかけた。
加奈子は、私が払うというと、「いーの、いーの」と加奈子を制し、自分の財布をセカンドバッグから取り出した。
レジのところに加奈子と真奈美が行くと、店の入り口から加奈子たちの見慣れた人物が入ってきた。
ビジュアル・ジョッキー(VJ)の杏城琴美であった。
「オッス」
手を上げ挨拶をする琴美に、
「キャー。杏城サマー」
と、真奈美ははしゃいでみせる。抱きつこうとする真奈美のおでこを手で押さえ近づけなくさせながら琴美は、
「志乃加奈子。曲は?」
「鋭意制作中」
「飯は?」
「今食った」
「これからどうすんの?」
「加奈子ちゃんはこれからバイトだよー」
口づけしようと唇をタコの口のようにする真奈美を、琴美は手で制したまま、「ふーん」と、つまらなそうな仕草をする。
「じゃ、これから私は真奈美ちゃんを借りよっかな」
「お好きにどうぞ」
「キャー、杏城サマに食べられちゃうー」
「私はここじゃ焼き肉しか食わねぇよ」
加奈子はレジから入り口の方へ歩き出す。
「じゃ、私はもう行くから」
琴美は軽く加奈子の肩を叩く。
「あんまり思い悩むなよ」
「はいはい」
振り向かないまま手を振って、加奈子はバイトに向かった。
「曲の締め切りもあるな。だりぃ」
加奈子は外に出て髪をかきむしり、それから深呼吸した。冬も近い夜の丸山の外気は、そんなに良い空気じゃなかった。