第7話

文字数 6,567文字




 加奈子は自分の部屋と同じ円山町の町内にあるラブホで、今日もバイトをする。
 この日は、受付ではなく、掃除と、ベッドメイキングだった。
 今日も相も変わらずに、ラブホは大盛況だ。
 夕方からのシフトだったが、「ご休憩」の客は夕方でもたくさんいる。
「お泊まり」の客で賑わう前に、「ご休憩」から帰ったあとの空いた部屋の掃除を、しっかりこなす。
 ベッドメイキングは、二人一組で行う。
 シーツ交換の時など、二人でやった方が都合がいいからだ。
 せっせと働き、受付業務も少しして、帰るのは深夜になった。
 加奈子はなにせ家が近いので、かなり無理なスケジュールを、いつも組ませられる。
 だが、無心で働けるここは、加奈子にとっても都合がいいのだ。
 深夜二時。あとは「お泊まり」の客だけで埋まった頃に、バイトは終了した。
 加奈子はラブホを出て、部屋には帰らず駅まで歩いた。
 駅南のモヤイ像の近くのコインロッカーを開ける。
 そこには、加奈子の「道具」が詰まったエコバッグがしまってある。
 それを取り出して、加奈子は人もまばらな夜の街を歩く。
 ハチ公の近くでは、さわやかソングの弾き語りにーちゃんと、それを観てる数人の女の子が体育座りしてる姿が見られ、加奈子はあんな男のどこがいいのだろうか、と肩をすくめた。
 公園通りの方に来ると、さすがに小綺麗なビルばかりなので、人はほとんどいない。
 加奈子は、看板の前で立ち止まる。
 加奈子はエコバッグから前掛けエプロンを出して着る。
 それからスプレー缶を取り出し、振る。
 からから音をさせて、スプレーはかき混ざる。
 そして加奈子は今日も、スプレーを噴射して看板を真っ赤に染め上げる。
 あと少しで看板が完全に真っ赤な看板に生まれ変わりそう、というところで、加奈子の顔に、ライトの眩しい光が当たった。いきなりのまぶしさで、加奈子は目を伏せる。
「こら、キミ! ここでなにをしている!」
 相手が言い終わる前に、加奈子はダッシュで逃げ出す。
 相手はライトを下ろし、走って追いかけてくる。
 加奈子が相手を確認すると、それは警官だった。
 二人いる。
 見回りで偶然見かけたというより、スプレーで「いたずら」している人間が最近出没するという情報を持っていて、「来ました」とばかりに加奈子を発見した、と考える方が妥当だった。
 加奈子はダッシュで逃げる。
 どこから路地に入ろうか思案して走っていると、手招きしている女の子を発見する。
 この街には似合わずゴスロリで全身を着飾っている。
 どう考えてもその子は目立つが、考えることは辞めて、加奈子は手招き通り、その子のいる路地を曲がった。
 ゴスロリも足が速かった。
 加奈子はその子と一緒になって、路地の中を曲がりまくりながら逃げる。
 しばらくすると、警官が追うのをあきらめたのがわかった。
 遠くでパトカーのサイレンの音が鳴っている。
 走るのをやめてパトカーでの応援要請かもしれない。
「しばらく路地を出ない方がいいわ」
 路地裏でゴスロリが加奈子に言った。
 加奈子は息を切らせながら頷いた。
 ゴスロリは息切れを全くしていなかった。
 加奈子は、その場で冷たいアスファルトの地面に腰を下ろし、スプレーが少しかかったエプロンを脱いで、エコバッグにしまった。
 スプレー缶はどこかで落としてきてしまったらしい。
 が、それはまた宇田川のハンズで買えばいいだけの話だ。
 加奈子は呼吸を整えた。
 ゴスロリ少女を加奈子は座ったまま見上げる。
 片目に黒い眼帯をしている。加奈子がじっと見ていると、
「恥ずかしいからそんなに見つめないで」
 と、頬に手を当て、カラダをくねらせた。
 どうも、本当に恥ずかしいらしい。
 そんな目立つ格好をしてて今更なにが恥ずかしいのか、と加奈子がクネクネ動くその姿を見ていると、
「隠れましょう。こっちよ」
 と、ゴスロリは加奈子についてくるように、また促した。
 なんか新手の商売の勧誘だったらめんどくさいなとは思ったものの、実際、パトカーがサイレンを鳴らしているし、ついていった方がまだマシのような気がしたので、加奈子は立ち上がってゴスロリの後に続き、歩く。
「私は三択・ロースちゃんよ。よろしく」
「はぁ」
 仮名にしてもそのネーミングセンスはどうだろうか。
 しかし、加奈子は、その杜撰な仮名を堂々と言えるこの子は、かなりの強者なのではないか、とも思うのだった。
「こっちこっち」
 三択・ロースが手招きする先は、男性ものの服屋の入り口だった。
 灯りは全部消えていて、店はクローズしている。
 が、ロースが店先でなにか暗号のような言葉をインターフォンに言うと、入り口が開いた。
 ロースが普通に入っていったので、後を追って、加奈子もエコバッグを片手に、入っていった。
 店内に入ると、身体の引き締まった二十代後半くらいの男が立っていた。
 こいつが、入り口の鍵を開けたらしい。
「お帰り、ロースお嬢。そちらは?」
 ロースは一瞬、戸惑う。
 名前を知らないからだ。
 それを察して、
「志乃加奈子、です」
 と、加奈子は自分の名前を告げた。
 名前を告げると男は頷いて、
「さ。こっち」
 と、店内の奥の方に案内する。
 この男、どっかで顔を見た気がする。
 しかも写真で。
 加奈子はそんなことを考えながら三択・ロースと男の二人について店内を歩く。レジの奥、カーテンを男が開けると、そこには地下に繋がる階段があった。
 慣れた感じで、男とロースは階段を降りていく。
 加奈子は恐る恐る、二人の後をついていった。
 階段の壁にはグラフィティが所狭しと描かれているが、一様にそれらのグラフィティはレベルが高い。
 この国のグラフィティはなんだかんだで「街の落書き」程度にしか認識されないし、それは『グラフィティ・アート』とはほど遠いレベルだからなのだろうが、この壁に描かれているのは、かなりレベルが高かった。
 その中で、「バター猫」という署名とともに描かれている絵に、加奈子は目をとめた。
 この絵柄は、見たことがある。街で? うん、街でも見た。
 だけど、どこか違う場所でも……。
 加奈子が足を止めていると、眼帯の反対の瞳を輝かせて、ロースがふうふ、と笑う。
「この絵は、うちのナンバーワン、バター猫ちゃんのグラフィティよ」
「バター猫?」
「そ。たぶん、うちらの『突破口』」
「おい、話すな、ロースちゃん」
 先に降りていた二十代後半男が、ロースにキツい口調でたしなめようとするが、
「店長。いいじゃないの、自慢しときましょうよ」
 と、言った。
 屈強な肉体に無精ヒゲ。鋭い目。この『店長』の醸し出す雰囲気は、異様だ。
「あ、この人はここの一階の店の店長、マーガリンさんよ」
 ぞんざいな名前だなぁ、と加奈子は思ったが、
「服屋。『ハイパーマーガリン』ていうの。店長はラッパーで、マーガリンっていうMC。知ってる?」
 と言われ、加奈子は目を丸くした。
「知ってる」
 マーガリン。確かに、名前を、加奈子は知っていた。顔も知ってるはずだ。有名人なのだから。
 ヒップホップグループ『ハイパーマーガリン』のラッパー、MCマーガリン。
 この街発祥で独自路線を切り開いている名ラッパーだ。
 彼はギャングスタ・ラップの真似事をしている、という批判もあったが、しかし、この景色を見て加奈子はなるほどな、と思った。
 なんだか、ヤバい雰囲気だからだ、人も、この目の前の光景も。
 ギャングスターにふさわしい。
 真似事ではなく、彼はギャングスタかも、と。
 本場の『ギャングスタ・ラップ』というのは、ギャングの世界をネタにラップをするものだが、その本場で名を馳せた2パックという人物は、実際にギャングの世界にその半生を生きてきて、それをラップという韻律のある歌にした。
 彼はそれをねたまれ、射殺されてしまったほどだ。
 しかし、この国のラップは、裏の世界を描いても、裏とは関係のない人がラップすることが多い。
 売れないタレントやモデルの女の子だけを集めて働かせている、主に西麻布などに点在する『ガールズバー』という存在。
 それにも驚きだし、そこに、この都市の裏世界と表の華やかな世界が交差する場所があって、外国のギャングスタと類似した、本当の裏の世界の悪霊たちがいるこの都市のありようには、加奈子も聞いた時には閉口した。
 だが、その話には続きがあり、今ここにいる『マーガリン』なるラッパーは、本当にこの街の悪の世界に通じている、という噂があった。
 その『ガールズバー』界隈で、裏の人間と一緒になって悪巧みし、悪名を轟かせているとか。
 加奈子の「なるほどな」という言葉には、まさにそこにフォーカスして、である。MCマーガリンの「ギャングスタの真似事をしている」という批判は、音楽リスナーたちの中での批判であって、この街で音楽をしている人間は皆、「マーガリンという男は本当にヤバい。人物がヤバいし、ヤバい世界の事情を本当にラップで喋ってしまっている」と、言われていた『本物』なのだ。
 それは、今この状況を見れば、なるほどと理解出来る。
 本物なのはたぶん、この街で店を『店長』として経営していて、地下にこんな空間をつくっているからなのではないか。
 深夜、店の奥から繋がる階段の下で宴を催す、この街で一番の『ワルいラッパー』。
 加奈子は、壁のグラフィティの、絵画特有の威圧感を感じつつ、階段の下の空間を眺め、息を呑んだ。
 階段を降りると、最前から男女入り交じる声が聞こえてきていたが、降りた先というのは、打ちっ放しのコンクリートの空間に、ぼろくなったテーブルやソファが置かれ、タンクトップやBボーイなファッションに身を包んだ、タトゥーだらけの男女の集団が酒をボトルでラッパ飲みをしている空間だった。
 ちょっと、いや、かなり狂っている。
 これはハリウッドに出てくる荒廃した街のバーの風景そのものだが、そんな空間がここに現れるなんて。
 地下に降りきると加奈子は現実感を失う。
 DJなんかやってるけど、こんな『絵に描いたような』場所は、さすがに見たことがなかった。
 いや、田舎から出てきてからまだ三ヶ月も経っていないから、「まだ」見たことがなかっただけなのか。
 加奈子には、そこはわからない。
 わからないが、腕どころか顔にまでタトゥーを彫ってるような人間が集まる場所ってのが異常なのだけは、理解した。
『店長』のマーガリンは、ここから生まれたのか。
 裏の社会の情報を垂れ流すようなラップは、ここで生まれるのか、と。
 地下に降りると、加奈子の周りに人だかりが出来る。
 連中は、加奈子に興味津々だ。
「誰だこいつ」という声もあがり、それにロースが応える。
「最近、広告の看板を真っ赤に塗るという事件がこの街で多発してるけど、彼女はその犯人よ」
 ロースが言い終わると「ひゅー」という口笛と、野卑な笑いが巻き起こる。
 筋肉質な男の一人がウォッカのボトルを片手に加奈子の前にやってきて、「まあ、飲めや」とボトルを差し出す。
 加奈子が受け取ると、「一気飲みコール」がわき起こった。
 加奈子は雰囲気に飲まれ、少し笑ってから、ボトルに直接口をつけ、ウォッカを一気に飲む。
 ボトルの半分を開けると、また口笛が鳴った。
 周りの強面男女に取り囲まれ、加奈子はどうして良いか解らずにいると、ロースが、自己紹介を促した。
「志乃……加奈子です」
 なんで私はこんなとこで挨拶とかしてるんだろう、と疑問に思ったが、しかし、今はそれは考えないことにした。
「加奈子ちゃん……ね。おい、バター猫!」
 店長、マーガリンが叫ぶ。すると、気の抜けた声で「ふぁぃ?」と、人垣の中から手を上げる女の子。ギャルファッションをしたその女の子にロースは、
「あんたの絵、気に入ったってさ」
 と、加奈子を指さした。
「えっ、うっそ! きゃっ!」
 飛びはね歓ぶバター猫は、人垣を押しのけて加奈子の前にやってきた。
「バター猫でっす」
 敬礼するバター猫に、加奈子はお辞儀をした。
「あっはん。私のグラフィティを気に入ってくれるなんてー。私を誉めてもなにもでないぞぉ」
 かなり嬉しいらしく、なにやら照れている様子。
 確かに、街の落書きなんかしてても、普段、歓ばれることなんてないだろう。
 ロースは、この地下室にいるみんなに向けて、言う。
「改めて言うとこの志乃加奈子は、街の看板を真っ赤に塗るという、『アート』の犯人。私たち『ハイパーマーガリン』一座としても、これを支援していきたい。どう?」
 群衆から「おー」とか「お嬢ちゃんやるじゃん」との声が上がる。
 その声を耳にすると、さっきバター猫が照れたのも、なんだか気持ちがわかったような気分になる。
 自分がやっているペインティングが犯罪なのは、加奈子も十二分に理解して、それでもやっているのだ。
 そこに、誉められる要素は全くない。
 解っているから、誰にも教えないで、一人だけでペインティングをしている。
 だが、ここではそんな自分がした行為でみんなが盛り上がっている。
 これは異常な興奮をもたらすものだった。
 加奈子は、掌に汗をびっしりかいているのに気づいた。
 動悸もおさまらない。
「私たち『ハイパーマーガリン』は、匿名の団体。いや、チーム名だけは知られているけど、個人個人は匿名の存在として、やってきた。でも、それをちょっと変える必要性があるとみた。だから、これから、私たちは変わっていくかもしれない。そこで、うちのバター猫を『アーティスト』として売り出すんだけど、加奈子、あなたも加わらない? うちの仲間に」
「『ハイパーマーガリン』って、すでにヒップホップアーティストじゃないの?」
 加奈子は首をかしげる。
 そう、ここにいる店長のマーガリンという男は、ラッパーで、名の知れた存在なのだ。ロースは手を口に当てて笑った。
「ふふふ。ハイパーマーガリンは私たち全員なのよ。その『出店』としての、音楽活動を、キャンペーンとしてやってるってわけ。ここの服屋の利益と宣伝にもなるし。でも、もうすぐ音楽が売れる時代は確実に終わるし、『アート活動』をしてる、本来のハイパーマーガリンの方を、売っていこうと思ってるの」
 加奈子は、このロースという少女が自分と接触することを画策していたことに気づく。
 助けてくれたのは偶然ではなくて、手をこまねいて待っていたからなのだ。
 これが「裏に通じる者」のやり方なのか。
「私たちの仲間になって。志乃加奈子」
「……私、もう帰る」
 加奈子は、階段の方へ向かう。なんだか恐くなったのだ。
「もう帰るん? 私とお酒飲もーよー」
 バター猫が寂しそうな表情で、加奈子の服の袖を引っ張る。それを振り払って、加奈子は歩く。誰も、引き留めない。ロースは、
「また来てね。ううん、私たちは、またいずれ出会う」
 と、加奈子の後ろから、声を投げかけた。加奈子は一瞬立ち止まり、階段を登っていく。
 地下から薄暗い一階に戻ると、入り口で人とすれ違う。
 美人な女性だ。モデルだろうか。
 加奈子はしかし、「自分には関係ない」と思い、すれ違って入り口から外に出ようとする。
 すると、すれ違ったモデルのような女性が、階段前のカーテンのところで振り向いて、
「志乃詩音は、あなたを許さない」
 と、言った。
 志乃詩音……。
 なんでその名を私の前で口にする……。
 加奈子は振り返って、その美人を見た。
 目が合った。
 しかし、言い終えた後のその女は加奈子に興味を失ったかのように、カーテンの奥に消えていった。
 加奈子も相手を追わず、真夜中の路地へと、消えていく。
 この時間はまだ、まばらながら人は歩いている時間だ。
 加奈子は、出来るだけ通行人がいるルートを通って、自分の部屋へと帰った。

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