第21話
文字数 3,225文字
☆
渋谷区のすぐ隣、世田谷区の病院の緊急治療室に、琴美は搬送された。
処置を行ったあと、病室に運ばれた琴美を、加奈子と真奈美、それから凜々子は、見ている。
ベッドに横になり、計器類を取り付けられて寝ている琴美を、立ったままの三人は見下ろす。
三人とも、無言だ。
凜々子が隣に立っている真奈美の方を向くと、涙をためた真奈美は、目を手で拭った。
「師匠……」
凜々子が、呟く。
後に続けて、なにかを言おうとしたが、口をつぐめてしまう。
なにをこの場で言っても、白々しくて、嘘っぱちになってしまいそうで。
「私の名前の由来、知ってる?」
泣きじゃくりそうな震えた声で、真奈美は凜々子に問う。
たぶんそれは、口にして誤魔化さないと、泣き崩れてしまいそうだから。
だから、真奈美は病室での長い沈黙を破り、しゃべり出す。
「真奈美の『マナ』ってうのは、モーセのお話に出てくる食べ物のこと。旧約聖書ね。エジプトを出ておなかをすかせて荒野をさまよう民たちの上に、神が真っ白な『マナ』を降らせるの。それは霜のように薄く、蜜のように甘い。神様は、民たちが約束の地、カナンに辿り着くまで、マナを降らし続けたのよ。……私は霜のように薄く、蜜のように甘い、マナの子。マナの美。真奈美。だから、……そんな私に見初められた杏城サマは、ここでは死なない。死ぬはずがない。……きっと、ぐーたれで、不満を漏らしながらも、カナンの地まで進む不屈の民みたく、マナの力で蘇生するわ。……必ず」
そこで言葉は止み、沈黙がまた訪れる。
この病院には夜中からずっといて、今はもう、朝を迎え、昼頃になっていた。
集中治療室から病室に琴美が移された頃には、次の日になっていたのだ。
思案げに黙っていた加奈子は、「外の喫煙所で煙草吸ってくるわ」と言い、その場を離れた。
みんな知ってる、真奈美という女は、自分が目指すそのモデルとして、理想像として、杏城琴美をいつも見ていたことを。
しかも、直前の数日前に、あの街の『語られることのない歴史』を記述することを、依頼したばかりなのだ。
絆が、今までより深まろうとしていた、その矢先だったのだ。
凜々子は、真奈美を慰めることさえ出来ない。
出来るのは、ただ、遠くないいつか、『記述するために』ここにとどまって、見届けることだけだ。
加奈子は、たぶん琴美と真奈美を、二人だけにしたかったのだろう。
でも、それを察しても、自分は見ることをやめてはいけない、と凜々子は感じ、まだ、ここに同席するのを選ぶ。
病院の中庭に、喫煙スペースがあった。
今じゃもう、嫌煙ブームが過熱し出して、喫煙者には厳しい世の中。
特に医療の現場である病院は、禁煙治療を推進しているところが多いので、喫煙スペースがあるのは非常に珍しい。
なので、加奈子は病院のマップに喫煙所を発見したとき、歓んでしまった。
喫煙所に加奈子が着くと、四つ置いてある灰皿の周りのベンチに座り、多数の患者服を身に纏ったオッサンやおじいちゃんの姿があった。
中庭でひなたぼっこをしながら煙草をくゆらす人々。
この風景は、十年後には見ることは出来なくなっているだろう、と加奈子は推測する。
推測するから、今のこの風景を、目に焼き付けておこうと思う。
果たして自分は、十年後にも煙草を吸っているだろうか。
いや、愚問だなと加奈子はシニカルに微笑んだ。
Zippoを点火させ、口にくわえたアメリカンスピリットに火をともす。
それを見ていたご老体が、
「お嬢ちゃん、煙草なんてやめなさい」
と、諭すようにゆっくりとした口調で言う。
「女の子が吸うなんてダメじゃよ。妊娠したときに、悪い影響が出るし、あまりかっこの良いものでもないじゃろ」
「そうですね」
煙草の煙を吐きながら、加奈子は答えた。
会話はそこで止み、喫煙所にいる一同は空を見上げたり、病院の中庭を見たりする。
もう冬だ。
それなりに、寒い。
芝生も枯れかかっている。
でも、暖かいなにかがここにはあった。
たぶん、病気や怪我に見舞われた者特有の諦念だろう。
諦念、つまり、あきらめる、ということは、絶望や失望とイコールではない。
運命を受け入れたからこその、穏やかな感情という諦念もあるのだ。
この喫煙所で煙草を吸う病人、けが人を見ていると、加奈子は不思議に、その諦念の心地よさが伝染しかかる。
運命にあらがわず、川の流れのように、上流から下流へ。
そのブッディッズム的悟りの境地が、加奈子に流れ込んでくる。
だが、自分は果たして、諦念して、詩音を追うことをあきらめられる時が来るのか?
これは、琴美が今、襲撃を受け、意識を失っている今だから、切実に感じたことだった。
今まで、気づかなかったのだ、自分が立っているこの位置は、自分がつかみ取ったものでもなんでもなく、ただ、杏城琴美が、ファウンデーションというコミュニティを組織し、そこに徴用されたからこそ立っている場所だと。
もろい、砂上の楼閣。
ここにいるのは自分の手柄じゃない。
琴美のお膳立てでようやく立っているだけ。
例えば詩音はどうだったか。
今はメディア上の人間。
なら、マネージメントをしてる事務所の力だけで、詩音はステージに立っているのか。
それは違う。
あの女は、昔から、我先にと、道を切り開いては進んでいった。
自分の道は、自分でつくって、歩いていった。
だから、タレント事務所もレコード会社も、そんな詩音をサポートするために、バックアップを買って出た。
事務所の力が先にあるんじゃない。
あくまでこれは、詩音が自力で進んだ結果なのだ。
結果として、みんなついてきたのだ。
それは、杏城琴美という人物も同じだった。
琴美の周りには、いつもひとが集まる。
今だって、本当はファウンデーションの仲間たちや、琴美のやってるバンドのメンバーが、治療室に殺到しそうだったのだ。
だが、それでは不味いと、救急車に真奈美と凜々子、それから自分の三人が付き添いで乗り込み、病院まで来て、他の人間をシャットアウトしているのだ。
だから私たちは、あくまでファウンデーションの代表としてここにいるのであって、つまりは、琴美には駆けつける人間が周囲にたくさんいて……。
ダメだ、なにを考えているんだ、と加奈子は首を振る。
そういう場合じゃない。
そんなことを考えている場合じゃない。
琴美は、誰だか解らない奴らに襲撃されたのだ。
警察が動いている。
でも、暴徒たちは捕まるのか?
街の宣伝看板に落書きをして回ったのに未だ自分さえ捕まえられない警察が、暴徒らを捕まえることができると思うか?
加奈子は紫煙を吐く。
辺りを眺める。
キレイな空。
芝生の休憩所。
穏やかな日差し。
そこに、手元を隠して歩いてくるサングラスの人物。
胸のふくらみで着ぶくれているが女だとわかる。
隠している手元は、怪我をしているのだろうか。
女は近づいてくる。
そしてサングラスの女は加奈子の目の前まで来ると、手を隠すのを止める。
そして。
手に隠し持ったナイフを一瞬見せると、そのまま押し込めるように重心をかけて、加奈子の腹をナイフで刺した。
加奈子は血を出しながら倒れる。
仰天する喫煙所の人々。
サングラスの女は、ナイフを加奈子の腹に刺したままで手を離し、その場から逃走した。
意識は失わない。
加奈子は、腹部に突き刺さったナイフを取ろうとしたがそれは無理で、血はどんどん流れだし、混濁する意識に身をゆだね倒れたまま動かないでいると、看護婦が駆けつけてきた。
看護婦の姿を目視すると、そこではじめて加奈子の意識は途絶えるのだった。
渋谷区のすぐ隣、世田谷区の病院の緊急治療室に、琴美は搬送された。
処置を行ったあと、病室に運ばれた琴美を、加奈子と真奈美、それから凜々子は、見ている。
ベッドに横になり、計器類を取り付けられて寝ている琴美を、立ったままの三人は見下ろす。
三人とも、無言だ。
凜々子が隣に立っている真奈美の方を向くと、涙をためた真奈美は、目を手で拭った。
「師匠……」
凜々子が、呟く。
後に続けて、なにかを言おうとしたが、口をつぐめてしまう。
なにをこの場で言っても、白々しくて、嘘っぱちになってしまいそうで。
「私の名前の由来、知ってる?」
泣きじゃくりそうな震えた声で、真奈美は凜々子に問う。
たぶんそれは、口にして誤魔化さないと、泣き崩れてしまいそうだから。
だから、真奈美は病室での長い沈黙を破り、しゃべり出す。
「真奈美の『マナ』ってうのは、モーセのお話に出てくる食べ物のこと。旧約聖書ね。エジプトを出ておなかをすかせて荒野をさまよう民たちの上に、神が真っ白な『マナ』を降らせるの。それは霜のように薄く、蜜のように甘い。神様は、民たちが約束の地、カナンに辿り着くまで、マナを降らし続けたのよ。……私は霜のように薄く、蜜のように甘い、マナの子。マナの美。真奈美。だから、……そんな私に見初められた杏城サマは、ここでは死なない。死ぬはずがない。……きっと、ぐーたれで、不満を漏らしながらも、カナンの地まで進む不屈の民みたく、マナの力で蘇生するわ。……必ず」
そこで言葉は止み、沈黙がまた訪れる。
この病院には夜中からずっといて、今はもう、朝を迎え、昼頃になっていた。
集中治療室から病室に琴美が移された頃には、次の日になっていたのだ。
思案げに黙っていた加奈子は、「外の喫煙所で煙草吸ってくるわ」と言い、その場を離れた。
みんな知ってる、真奈美という女は、自分が目指すそのモデルとして、理想像として、杏城琴美をいつも見ていたことを。
しかも、直前の数日前に、あの街の『語られることのない歴史』を記述することを、依頼したばかりなのだ。
絆が、今までより深まろうとしていた、その矢先だったのだ。
凜々子は、真奈美を慰めることさえ出来ない。
出来るのは、ただ、遠くないいつか、『記述するために』ここにとどまって、見届けることだけだ。
加奈子は、たぶん琴美と真奈美を、二人だけにしたかったのだろう。
でも、それを察しても、自分は見ることをやめてはいけない、と凜々子は感じ、まだ、ここに同席するのを選ぶ。
病院の中庭に、喫煙スペースがあった。
今じゃもう、嫌煙ブームが過熱し出して、喫煙者には厳しい世の中。
特に医療の現場である病院は、禁煙治療を推進しているところが多いので、喫煙スペースがあるのは非常に珍しい。
なので、加奈子は病院のマップに喫煙所を発見したとき、歓んでしまった。
喫煙所に加奈子が着くと、四つ置いてある灰皿の周りのベンチに座り、多数の患者服を身に纏ったオッサンやおじいちゃんの姿があった。
中庭でひなたぼっこをしながら煙草をくゆらす人々。
この風景は、十年後には見ることは出来なくなっているだろう、と加奈子は推測する。
推測するから、今のこの風景を、目に焼き付けておこうと思う。
果たして自分は、十年後にも煙草を吸っているだろうか。
いや、愚問だなと加奈子はシニカルに微笑んだ。
Zippoを点火させ、口にくわえたアメリカンスピリットに火をともす。
それを見ていたご老体が、
「お嬢ちゃん、煙草なんてやめなさい」
と、諭すようにゆっくりとした口調で言う。
「女の子が吸うなんてダメじゃよ。妊娠したときに、悪い影響が出るし、あまりかっこの良いものでもないじゃろ」
「そうですね」
煙草の煙を吐きながら、加奈子は答えた。
会話はそこで止み、喫煙所にいる一同は空を見上げたり、病院の中庭を見たりする。
もう冬だ。
それなりに、寒い。
芝生も枯れかかっている。
でも、暖かいなにかがここにはあった。
たぶん、病気や怪我に見舞われた者特有の諦念だろう。
諦念、つまり、あきらめる、ということは、絶望や失望とイコールではない。
運命を受け入れたからこその、穏やかな感情という諦念もあるのだ。
この喫煙所で煙草を吸う病人、けが人を見ていると、加奈子は不思議に、その諦念の心地よさが伝染しかかる。
運命にあらがわず、川の流れのように、上流から下流へ。
そのブッディッズム的悟りの境地が、加奈子に流れ込んでくる。
だが、自分は果たして、諦念して、詩音を追うことをあきらめられる時が来るのか?
これは、琴美が今、襲撃を受け、意識を失っている今だから、切実に感じたことだった。
今まで、気づかなかったのだ、自分が立っているこの位置は、自分がつかみ取ったものでもなんでもなく、ただ、杏城琴美が、ファウンデーションというコミュニティを組織し、そこに徴用されたからこそ立っている場所だと。
もろい、砂上の楼閣。
ここにいるのは自分の手柄じゃない。
琴美のお膳立てでようやく立っているだけ。
例えば詩音はどうだったか。
今はメディア上の人間。
なら、マネージメントをしてる事務所の力だけで、詩音はステージに立っているのか。
それは違う。
あの女は、昔から、我先にと、道を切り開いては進んでいった。
自分の道は、自分でつくって、歩いていった。
だから、タレント事務所もレコード会社も、そんな詩音をサポートするために、バックアップを買って出た。
事務所の力が先にあるんじゃない。
あくまでこれは、詩音が自力で進んだ結果なのだ。
結果として、みんなついてきたのだ。
それは、杏城琴美という人物も同じだった。
琴美の周りには、いつもひとが集まる。
今だって、本当はファウンデーションの仲間たちや、琴美のやってるバンドのメンバーが、治療室に殺到しそうだったのだ。
だが、それでは不味いと、救急車に真奈美と凜々子、それから自分の三人が付き添いで乗り込み、病院まで来て、他の人間をシャットアウトしているのだ。
だから私たちは、あくまでファウンデーションの代表としてここにいるのであって、つまりは、琴美には駆けつける人間が周囲にたくさんいて……。
ダメだ、なにを考えているんだ、と加奈子は首を振る。
そういう場合じゃない。
そんなことを考えている場合じゃない。
琴美は、誰だか解らない奴らに襲撃されたのだ。
警察が動いている。
でも、暴徒たちは捕まるのか?
街の宣伝看板に落書きをして回ったのに未だ自分さえ捕まえられない警察が、暴徒らを捕まえることができると思うか?
加奈子は紫煙を吐く。
辺りを眺める。
キレイな空。
芝生の休憩所。
穏やかな日差し。
そこに、手元を隠して歩いてくるサングラスの人物。
胸のふくらみで着ぶくれているが女だとわかる。
隠している手元は、怪我をしているのだろうか。
女は近づいてくる。
そしてサングラスの女は加奈子の目の前まで来ると、手を隠すのを止める。
そして。
手に隠し持ったナイフを一瞬見せると、そのまま押し込めるように重心をかけて、加奈子の腹をナイフで刺した。
加奈子は血を出しながら倒れる。
仰天する喫煙所の人々。
サングラスの女は、ナイフを加奈子の腹に刺したままで手を離し、その場から逃走した。
意識は失わない。
加奈子は、腹部に突き刺さったナイフを取ろうとしたがそれは無理で、血はどんどん流れだし、混濁する意識に身をゆだね倒れたまま動かないでいると、看護婦が駆けつけてきた。
看護婦の姿を目視すると、そこではじめて加奈子の意識は途絶えるのだった。