第16話
文字数 3,734文字
☆
コタツのぬくもりとまどろみの中、加奈子は居間の天井を見上げる。
二日酔いになってしまったのか、ぐるぐると万華鏡を覗いたみたいに回ってゆらめく天井と蛍光灯。
ひとの気配を感じるがそれはきっと先に起きた真奈美で。
加奈子はその気配が近づくのを無視し、ゆらめきの中にその身をゆだねる。
畳に広がる自分の長い髪の毛を撫でるその人影は加奈子の両方の頬を掌で包み込み、顔を近づける。加奈子は自然と目を閉じた。
どうなってもいいような気分だった。
目を閉じていると、相手の唇が自分の唇に重なった。
ディープなキスではなく、唇と唇が重なるだけのくちづけ。
そういうこともあるのかな、と加奈子は思う。
相手の粗い息づかいに、相手が興奮しているのを知る。
一分経ったかもしれない。
加奈子はもうそろそろ止めにしようと、顔を背けて唇を除ける。
そして目を開けると、そこには。
ここにいていいはずのない、一番いてはいけない人物、つまり、志乃加奈子の姉である、メジャーアーティストの、……志乃詩音が、いた。
詩音は崩した正座で、手を畳について、コタツに仰向けになっている加奈子の顔をのぞき込むように。
詩音は、そこにいた。
唐突のことで頭が働かないまま。
加奈子は目を見開いて、詩音を凝視する。
「おはよう。お目覚めは如何? お姫様」
詩音の姿は女性性の際立つ容姿をしていて、血の繋がった妹である加奈子が見ても美しく。
お姫様というならば、それは詩音の方だった。
「どうして……、あんたがここに」
「さぁ。なんででしょうね」
自分の真上で顔をのぞき込む詩音は薄いメイクでありながら、カリスマミュージシャン、アーティストと呼ばれるにふさわしい姿で、その声も透き通るような美声で。
服装も一目で高価なブランドものなのがわかり、そこには一部の隙もないかに思われる。
そんな人物が自分をのぞき込むように見ていて、キスまでされた。
もとい、加奈子の『姉』だ。姉妹なのだ。
全く似ていないかのような姉妹。
少なくとも、加奈子自身は、冴えない自分と姉である詩音は、全く似ていないと思っている。
大胆不敵な今みたいな笑みを浮かべての台詞なんて、逆立ちしたって、自分には出来ない。
「なんでここにいるって訊いてるの」
「だから、知らないって。私はただ、ここにいる。その事実だけで十分じゃない。可愛い私のお姫様がいるんだから、来るでしょ。会うでしょ。キスするでしょ。なにがおかしいの?」
「全部おかしいわよ、このド変態ッ」
高い声で加奈子は叫んだ。
やりとりの物音にうつろに目を覚ます真奈美。
「んんん……、なに、加奈子ちゃ……ん。……んん…………んッッッ!」
声の途中で覚醒、ガバリと擬音を立てるかの勢いで飛び上がって起きる真奈美。
寝起きすぐのまどろみは真奈美も同じだが、しかし、上半身を起こして詩音を捕捉すると、コタツから出て立ち上がった。
「志乃詩音ッ!」
「フルネームで呼ばないで。この豚娘」
「ぶ……豚じゃない!」
「あら。毎晩飲み歩いたり焼き肉三昧だったりするらしいじゃない。豚よ、だから丸々と豚になるのよ」
「どこから仕入れたその情報ッ」
「この街は狭いのよ。情報なんてすぐに手に入るわ。考えりゃわかるでしょ。それとも豚娘には難しい話だったかしら」
「舐めるなよ、ゴキブリみたく部屋に侵入しやがって」
「ここの大家は知り合いよ。加奈子が知り合いなんだから姉の私の知り合いであってもおかしくないでしょ。家族だから、当然スペアキーを持っててもおかしくない。でしょ?」
「私はあんたなんか大ッ嫌いよ!」
加奈子はまた叫ぶ。
「あらあら、お姫様は怒りん坊ね」
仰向けのまま叫んだその加奈子に覆い被さり、詩音はまたキスをした。
口を離してから、加奈子の唇に人差し指を押し当てて、詩音はウィンクした。
「はしたないそのお口が言うこときかないなら、私は何度もその麗しい唇を私の唇で塞ぐわ」
自分の意に反して赤面する加奈子に、詩音は満足げになり、一方の真奈美は目の色を変える。
「この泥棒猫!」
真奈美が声を張り上げる。
しかし、言われた詩音は余裕の表情だ。
「あんたらファウンデーションは、この街でハイパーマーガリンとタメを張るくらいの、大人数のコミュニティだ。ハイパーマーガリンの方は男女混合だけど、ファウンデーションの方は女ばかり。東京には創作系の女子サークルがたくさんあって、そのひとつ。健全と言えば健全だ。でもね」
詩音は加奈子の顔に頬をすり寄せる。
「この子は、そういう性癖があるのよ」
「ちょっと離れなさいよ!」
加奈子と詩音の間に割って入る真奈美。
腕で二人を離して、それから詩音を突き飛ばす。
しかし、突き飛ばされた詩音は、体勢を立て直して、薄く笑っている。
「このお姫様は私のモノ。生まれてきた時から、今だってずっとね。この子は私しか知らない。私の身体しかね」
加奈子は黙っている。
「私のルームメイトを侮辱しないでッ」
真奈美は詩音の胸ぐらを掴む。真奈美の手を振りほどいて、詩音は話を続ける。
「あなたたちはよくパーティーをしているそうね。客の入りも中々だとか。……米国なんかはパーティー文化が根付いているわ。男女が結婚しても、パーティーには出席する。誘惑も多いわ。結婚した男女を引き裂きたい欲望を持った人間も多いし、いろんな人が集まれば、魅力的な人を見つけることも多いだろうし、そういう人に誘惑されたら、心が傾くかもしれない。でもね、カップルになった男女だって、ホイホイと誘惑に乗ってしまうわけじゃない。こんな文化で、どうやってそれを切り抜けているのか。それは、相手を束縛する、というわけじゃなく、自分自身が不断の努力によって、魅力的な人物であろうとするからよ。魅力的なパートナーだから、他人の誘惑には乗らない。他人から見てもステキなパートナーが、自分のパートナーであるからこそ、逆にパーティーで見せつけたいし、そんな人が自分の相手だからこそ、誇りも二人の結束力も強まる。だから、パーティー文化があっても、大丈夫なの。……なんの話を今、私がしているか、わかるかしら。これはこういうことよ。この子は私のモノだし、この迷子の子猫ちゃんがどこでなにをしたって、結局私のもとへと帰ってくる。その自信が、魅力が、私にはある。だから、誘惑が多いところにこの子が行っても、私は大丈夫。お姫様は、私以外に興味はないし、私もこの子にしか、興味はない」
「なに言ってるのこのゲス野郎ッ。あんたら姉妹でしょ! 恋愛感情なんて抱いてんじゃないわよ、この変態! 加奈子がどういう気持ちで努力してるか、この街に来て成り上がろうとしてるか、あんたにはわからないでしょうね!」
「あらあら、ケータイ小説家さんは、言葉を操るエキスパートのハズなのに、だいぶ汚い言葉を使うのね」
口を覆うように手をあてて笑う詩音のその仕草に、真奈美は頭に血が上ってどうしようもなくなる。
しかし、言い返せない。
自分をケータイ小説家だとわかっていて、それでわざと汚い言葉を喋らせようとしているのは明白だからだ。
こいつは、自分を、「よりにもよって言葉で」嘲弄しようとしている。
真奈美はそう思うと、うかつなことを喋れない。
でも、この怒りをどうしていいかわからない。
『大好きな』加奈子を巡ってのバトルで、自分はこの女に勝てない。
気を抜くと、根負けしそうだ。真奈美の頭の中を、いろんな感情が交錯してしまう。
しかもそれを整理できない。
「言葉が足りなかったかしら。そう、この子はレズで、姉の私と、身体の関係がある、と言っているのよ。泥棒猫なのはあなたの方よ、倉敷真奈美」
真奈美は詩音を殴ろうとした。
でも、殴れない。
殴ったら自分の負けを認めるようなものだ。
殴ってはいけない、この局面では。
加奈子は下を向いている。
唇を噛みしめながら。
それが、詩音が言っていることが事実であることを物語っている。
三人がしばし硬直状態になって押し黙っていると、詩音の携帯電話のベルが鳴った。
「あら、莉奈。迎えに来た? 今どこ。……ああ、そうなの。入ってくれば?」
詩音が携帯を閉じるのとほぼ同時に、鍵のかかってない入り口のドアが開き、女性が入ってくる。
モデル体型のそのすらりとした女性は、加奈子がハイパーマーガリンの店から出る時にすれ違った女性だった。
加奈子はこの莉奈と呼ばれた女性がすれ違いざまに言った台詞を思い出す。「志乃詩音はあなたを許さない」という、あの一言を。
「葉澄莉奈よ。明日の、杏城琴美主宰のパーティにゲストで出演する、読者モデルよ。私の可愛いペット」
莉奈が頭を下げる。
「じゃ、帰りましょっか」
莉奈の手を取り、優雅な物腰で部屋を去る詩音に、加奈子と真奈美はなにも言えない。
詩音と莉奈がいなくなってからもしばらく、二人は言葉を交わすこともなく、ただ、その場で立ち尽くしていた。
コタツのぬくもりとまどろみの中、加奈子は居間の天井を見上げる。
二日酔いになってしまったのか、ぐるぐると万華鏡を覗いたみたいに回ってゆらめく天井と蛍光灯。
ひとの気配を感じるがそれはきっと先に起きた真奈美で。
加奈子はその気配が近づくのを無視し、ゆらめきの中にその身をゆだねる。
畳に広がる自分の長い髪の毛を撫でるその人影は加奈子の両方の頬を掌で包み込み、顔を近づける。加奈子は自然と目を閉じた。
どうなってもいいような気分だった。
目を閉じていると、相手の唇が自分の唇に重なった。
ディープなキスではなく、唇と唇が重なるだけのくちづけ。
そういうこともあるのかな、と加奈子は思う。
相手の粗い息づかいに、相手が興奮しているのを知る。
一分経ったかもしれない。
加奈子はもうそろそろ止めにしようと、顔を背けて唇を除ける。
そして目を開けると、そこには。
ここにいていいはずのない、一番いてはいけない人物、つまり、志乃加奈子の姉である、メジャーアーティストの、……志乃詩音が、いた。
詩音は崩した正座で、手を畳について、コタツに仰向けになっている加奈子の顔をのぞき込むように。
詩音は、そこにいた。
唐突のことで頭が働かないまま。
加奈子は目を見開いて、詩音を凝視する。
「おはよう。お目覚めは如何? お姫様」
詩音の姿は女性性の際立つ容姿をしていて、血の繋がった妹である加奈子が見ても美しく。
お姫様というならば、それは詩音の方だった。
「どうして……、あんたがここに」
「さぁ。なんででしょうね」
自分の真上で顔をのぞき込む詩音は薄いメイクでありながら、カリスマミュージシャン、アーティストと呼ばれるにふさわしい姿で、その声も透き通るような美声で。
服装も一目で高価なブランドものなのがわかり、そこには一部の隙もないかに思われる。
そんな人物が自分をのぞき込むように見ていて、キスまでされた。
もとい、加奈子の『姉』だ。姉妹なのだ。
全く似ていないかのような姉妹。
少なくとも、加奈子自身は、冴えない自分と姉である詩音は、全く似ていないと思っている。
大胆不敵な今みたいな笑みを浮かべての台詞なんて、逆立ちしたって、自分には出来ない。
「なんでここにいるって訊いてるの」
「だから、知らないって。私はただ、ここにいる。その事実だけで十分じゃない。可愛い私のお姫様がいるんだから、来るでしょ。会うでしょ。キスするでしょ。なにがおかしいの?」
「全部おかしいわよ、このド変態ッ」
高い声で加奈子は叫んだ。
やりとりの物音にうつろに目を覚ます真奈美。
「んんん……、なに、加奈子ちゃ……ん。……んん…………んッッッ!」
声の途中で覚醒、ガバリと擬音を立てるかの勢いで飛び上がって起きる真奈美。
寝起きすぐのまどろみは真奈美も同じだが、しかし、上半身を起こして詩音を捕捉すると、コタツから出て立ち上がった。
「志乃詩音ッ!」
「フルネームで呼ばないで。この豚娘」
「ぶ……豚じゃない!」
「あら。毎晩飲み歩いたり焼き肉三昧だったりするらしいじゃない。豚よ、だから丸々と豚になるのよ」
「どこから仕入れたその情報ッ」
「この街は狭いのよ。情報なんてすぐに手に入るわ。考えりゃわかるでしょ。それとも豚娘には難しい話だったかしら」
「舐めるなよ、ゴキブリみたく部屋に侵入しやがって」
「ここの大家は知り合いよ。加奈子が知り合いなんだから姉の私の知り合いであってもおかしくないでしょ。家族だから、当然スペアキーを持っててもおかしくない。でしょ?」
「私はあんたなんか大ッ嫌いよ!」
加奈子はまた叫ぶ。
「あらあら、お姫様は怒りん坊ね」
仰向けのまま叫んだその加奈子に覆い被さり、詩音はまたキスをした。
口を離してから、加奈子の唇に人差し指を押し当てて、詩音はウィンクした。
「はしたないそのお口が言うこときかないなら、私は何度もその麗しい唇を私の唇で塞ぐわ」
自分の意に反して赤面する加奈子に、詩音は満足げになり、一方の真奈美は目の色を変える。
「この泥棒猫!」
真奈美が声を張り上げる。
しかし、言われた詩音は余裕の表情だ。
「あんたらファウンデーションは、この街でハイパーマーガリンとタメを張るくらいの、大人数のコミュニティだ。ハイパーマーガリンの方は男女混合だけど、ファウンデーションの方は女ばかり。東京には創作系の女子サークルがたくさんあって、そのひとつ。健全と言えば健全だ。でもね」
詩音は加奈子の顔に頬をすり寄せる。
「この子は、そういう性癖があるのよ」
「ちょっと離れなさいよ!」
加奈子と詩音の間に割って入る真奈美。
腕で二人を離して、それから詩音を突き飛ばす。
しかし、突き飛ばされた詩音は、体勢を立て直して、薄く笑っている。
「このお姫様は私のモノ。生まれてきた時から、今だってずっとね。この子は私しか知らない。私の身体しかね」
加奈子は黙っている。
「私のルームメイトを侮辱しないでッ」
真奈美は詩音の胸ぐらを掴む。真奈美の手を振りほどいて、詩音は話を続ける。
「あなたたちはよくパーティーをしているそうね。客の入りも中々だとか。……米国なんかはパーティー文化が根付いているわ。男女が結婚しても、パーティーには出席する。誘惑も多いわ。結婚した男女を引き裂きたい欲望を持った人間も多いし、いろんな人が集まれば、魅力的な人を見つけることも多いだろうし、そういう人に誘惑されたら、心が傾くかもしれない。でもね、カップルになった男女だって、ホイホイと誘惑に乗ってしまうわけじゃない。こんな文化で、どうやってそれを切り抜けているのか。それは、相手を束縛する、というわけじゃなく、自分自身が不断の努力によって、魅力的な人物であろうとするからよ。魅力的なパートナーだから、他人の誘惑には乗らない。他人から見てもステキなパートナーが、自分のパートナーであるからこそ、逆にパーティーで見せつけたいし、そんな人が自分の相手だからこそ、誇りも二人の結束力も強まる。だから、パーティー文化があっても、大丈夫なの。……なんの話を今、私がしているか、わかるかしら。これはこういうことよ。この子は私のモノだし、この迷子の子猫ちゃんがどこでなにをしたって、結局私のもとへと帰ってくる。その自信が、魅力が、私にはある。だから、誘惑が多いところにこの子が行っても、私は大丈夫。お姫様は、私以外に興味はないし、私もこの子にしか、興味はない」
「なに言ってるのこのゲス野郎ッ。あんたら姉妹でしょ! 恋愛感情なんて抱いてんじゃないわよ、この変態! 加奈子がどういう気持ちで努力してるか、この街に来て成り上がろうとしてるか、あんたにはわからないでしょうね!」
「あらあら、ケータイ小説家さんは、言葉を操るエキスパートのハズなのに、だいぶ汚い言葉を使うのね」
口を覆うように手をあてて笑う詩音のその仕草に、真奈美は頭に血が上ってどうしようもなくなる。
しかし、言い返せない。
自分をケータイ小説家だとわかっていて、それでわざと汚い言葉を喋らせようとしているのは明白だからだ。
こいつは、自分を、「よりにもよって言葉で」嘲弄しようとしている。
真奈美はそう思うと、うかつなことを喋れない。
でも、この怒りをどうしていいかわからない。
『大好きな』加奈子を巡ってのバトルで、自分はこの女に勝てない。
気を抜くと、根負けしそうだ。真奈美の頭の中を、いろんな感情が交錯してしまう。
しかもそれを整理できない。
「言葉が足りなかったかしら。そう、この子はレズで、姉の私と、身体の関係がある、と言っているのよ。泥棒猫なのはあなたの方よ、倉敷真奈美」
真奈美は詩音を殴ろうとした。
でも、殴れない。
殴ったら自分の負けを認めるようなものだ。
殴ってはいけない、この局面では。
加奈子は下を向いている。
唇を噛みしめながら。
それが、詩音が言っていることが事実であることを物語っている。
三人がしばし硬直状態になって押し黙っていると、詩音の携帯電話のベルが鳴った。
「あら、莉奈。迎えに来た? 今どこ。……ああ、そうなの。入ってくれば?」
詩音が携帯を閉じるのとほぼ同時に、鍵のかかってない入り口のドアが開き、女性が入ってくる。
モデル体型のそのすらりとした女性は、加奈子がハイパーマーガリンの店から出る時にすれ違った女性だった。
加奈子はこの莉奈と呼ばれた女性がすれ違いざまに言った台詞を思い出す。「志乃詩音はあなたを許さない」という、あの一言を。
「葉澄莉奈よ。明日の、杏城琴美主宰のパーティにゲストで出演する、読者モデルよ。私の可愛いペット」
莉奈が頭を下げる。
「じゃ、帰りましょっか」
莉奈の手を取り、優雅な物腰で部屋を去る詩音に、加奈子と真奈美はなにも言えない。
詩音と莉奈がいなくなってからもしばらく、二人は言葉を交わすこともなく、ただ、その場で立ち尽くしていた。