第2話

文字数 1,767文字




 円山町と三丁目の境目は、一本の細い道路で、その道路の両サイドには、大きなライブハウスが建っている。
 ウエストが丸山で、イーストが三丁目。
 ただ、地図上は区分けがされているが、ここらを訪れる人間にとっては、その区別は付きにくく、区別されても、どちらも「ラブホ街」という認識でしかなく、丸山の方が神泉寄りで閑静な場所、三丁目が風俗外寄りという違いくらいしかわからないだろう。
 その三丁目のラブホで、志乃加奈子は働いていた。
 リネン交換やベッドメイキング、そして人員がいない時は、フロント業務。
 加奈子がラブホで働き始めた理由は「売れてなかった頃のミスターチルドレンのボーカル・桜井さんはラブホで働いていたらしいから、それに私も準じる」というものだった。
 加奈子は別にミスチルが好きかというと、そうでもないのだが。
 受付にいると、ケバいファッションの若い男女が入ってきた。
 女の方がフロントの加奈子を見るなり、
「若い女が受け付けやってる! 超ウケるんですけど!」
 と、爆笑する。
 いつものことではあるのだが、加奈子はマジギレしそうになりながら、
「お部屋はどこになさいますか」
 とカップルに尋ねた。
 一時間後、そのカップルの男の方がフロントにのこのこ訪れて、
「さっきは連れがごめんよ。今度おれと一緒に食事どぉ?」
 と誘ってきたが、無視した。
 これもいつものことだ。
 深夜、フロントで椅子に座ってぼーっとしていた加奈子に、
「志乃さんは偉いねぇ」
 と、清掃のおばちゃんが声をかけてきた。
 加奈子は愛想笑いで対応する。
「最近の若い子はみんな、こういうところで働くの、嫌がるでしょう。それなのに、ホント偉い。これ、うまい棒。後で食べてね」
「ありがとうございます」
 加奈子が頭を下げると、おばちゃんは頭巾を装着し、空いた部屋の清掃に向かった。
 おばちゃんは後で食べろと言っていたが、誰もいなくなったところで、加奈子は即座にうまい棒を食べた。
 めんたい味だった。
 ベストチョイス!
 早朝、次の人員と交代した加奈子は、引継業務をして、着替えてからラブホを出た。
 街にはカラスしかいない。
 カラスの鳴き声はどこか冥府を想起させる。
 この街を囲む結界とカラス。
 その鳴き声は、絶対に街の闇と繋がっていると、加奈子は思っている。
 カラスこそがたぶん、この街の通奏低音を、奏でているのだ、と。
「いわば、カラスの鳴き声はペダルトーンってとこね」
 バイト先のラブホを裏口から出た加奈子は、ふと声に出して、そう呟いた。
 加奈子は、家に帰らない。
 今日も、ちょっと、雑用が。
 ショルダーバッグの中身を確認。
 その中身はコインロッカーの鍵。
 駅に行ってコインロッカーからカラースプレーとエプロンなどが入ったエコバッグを持ち出す。
 確認後、公園通りに足を進める。
 公園通りに、昨日立てられたばかりの看板があった。
 お洒落な、なんとかという最近人気急上昇中のファッションブランドの広告看板だ。人気女性モデルがポースを決めている。
「潰す」
 今日の標的はこいつ。
 前掛けエプロンを着てバッグからカラースプレーを出し、スプレー缶を振る。
 からからと音がする。
 十回ほど缶を振ったあと、至近距離から、モデルの顔に、スプレーする。
 スプレーの有害な匂いとともに、赤い色で、看板が染まる。
 モデルの髪の毛が赤いアフロヘアになった。
 それから、カイゼルヒゲを付け足してみる。
 赤色で。
 ゲラゲラ。
 おもろい。
 加奈子は腹を抱えて笑った。
 しばらく笑ったら、真顔に戻って看板の表面全てにスプレーを吹き付ける。
 今度は至近距離からではなく、まんべんに塗るために離れてスプレー缶を噴射する。
 ファッションブランドの看板は、真っ赤に染まって、「そういう看板なんじゃないか?」というレベルになった。
 看板の宣伝効果ゼロ。
「これでよし!」
 加奈子は残り少なくなったスプレー缶にキャップを閉め、脱いだエプロンと一緒にバッグにしまう。
 それから何食わぬ顔で、バッグをコインロッカーに入れて部屋に戻ることにした。
 まだこの街は眠っていて、カラスがフィールドを支配したままだ。
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