第8話

文字数 4,594文字




 掃除機の音がどんどん近づいてきて、あげく「粗大ゴミィィィィ」と叫ぶ声とともに掃除機の吸い取る柄のところで頭をド突かれた痛みで加奈子は飛び起きた。
 どうやらコタツで眠ってしまっていたらしい。
「なんで掃除なんかしてんの? いつもは私にやらせるのにさ」
 加奈子がコタツのテーブルで片肘突いてそこに顔を乗せ、胡散臭そうに真奈美を見た。
「私の弟子が京王堀之内からやってくるんだよー」
 嬉しそうに真奈美は応える。
「弟子?」
「そ。物書きの」
 真奈美はこれでも大人気アマチュア作家である。iモードのサイト『まじかるアイランド』というところで、小説を連載していて、これがものすごく人気なのだ。
「掃除続けるようなら、私は時間潰して来るわ」
「おっけー」
 コタツから抜け、加奈子は自分の寝室で着替え、部屋を出た。
 三階から地階に出ると、青空が広がっていた。
 もう冬だな、と肌寒さを感じて、加奈子は空を見上げた。

 午前十時。
 宇田川入口方面からクロスロードを駅前に向かって加奈子は歩く。
 風俗のスカウトの男が声をかけてくる。
 無視してクロスロードを渡ると、スカウトは「このブスが! 死ね!」と吐き捨て、雑踏の中に消えていく。
 ムカつくが、日常茶飯事。
 気にしていたら生きていけない。
 不況の波は、この都会にも押し寄せている。
 加奈子たちの世代は『ロストジェネレーション』、略して『ロスジェネ』と呼ばれている。
 アメリカの特定の作家の世代を表すロストジェネレーションとは違うものを指す。
 ここでいうロスジェネというのは、多感な十代を、不況と破壊の90年代に過ごした人々の世代を指す言葉だ。
 絶賛学生中のゆとり世代と比べて詰め込み世代と呼ぶ向きもあり、不況に生きてきてしまったため、学生時代の詰め込み教育で失敗し何事に関しても諦念の思想でやる気なく生きていく、そんなイメージの世代なのである。
 もうゼロ年代に入っていたが、それでも不況は変わらずに、街には職に就けない男女があふれていた。
 職に就けず貧乏な人が多いはずなのに、虚飾のハッピーを流行歌手が歌い、それは街にスピーカーから垂れ流される。
「おれたちは幸福なんだぜ」と。
 表面のハッピーと、本音のアンハッピー。
 この矛盾に満ちた街の有り様と、それは似ている。
 こんな時代はいつまで続くのか。
 スピーカーから『頑張れソング』が流れる中を、人々は今日も無情に行き来している。無情の世界。
 しかし、それでも世界は終わらない。
 駅前は混雑している。
 よくテレビの画面に映し出される、とても有名な、この街の駅前。加奈子はハチ公口の方へ歩みを進める。
 交番の建物の上に、「私は宇宙人を見た!」と書かれた大きなプラカードをヒモで首から吊している男が立っている。
 ここ二ヶ月ばかり、この男は日中、いつも駅前でこうして立っている。
 というか交番の建物の上に立ってて大丈夫なのだろうかと、加奈子はプラカードの男を見て思った。
 コンタクトレンズのチラシ配りを加奈子はスルーして、ティッシュ配りのティッシュだけは貰う。
 駅の入り口付近。
 地べたに座って拾ったマンガ雑誌や週刊誌を全部百円で売っているじいさんのところへ、加奈子はやってきた。
「トモノオジ、おっす」
「おお、加奈子ちゃん」
 じいさん・トモノオジは浮浪者モドキだ。
 本当は浮浪者じゃないのだが、駅構内などの雑誌用ゴミ箱に捨てられた雑誌を漁ってそこから拾ったものを百円で売る、という活動をするため、他の同業者同様に浮浪者然とした格好をしている。
 そしてこのトモノオジは、この街の『目利き』だ。
 加奈子がほとんど知らない裏の世界と、トモノオジは通じている。
「雑誌の売れ行きはどう?」
「そこそこやな。娯楽は増えても、この国のもんはマンガを読むことだけは辞めないね」
「それ、ひとつ頂戴」
「まいど」
 加奈子は今日発売の少年マンガ雑誌をひとつ買う。
「加奈子ちゃん」
「ん?」
「警察の厄介にはなるなよ。『お絵かき』なんかでね」
 加奈子はトモノオジにウィンクして、その場を去った。
 加奈子は看板にスプレーを吹き付けていることなんて、もちろんトモノオジには教えてない。
 だが、どこからか情報というものは漏れ、随時トモノオジの耳には入ってくるのだ。
 だが、加奈子はあまり気にする風でもなかった。
 加奈子はマンガを読むために、駅の周囲をぐるっと半周してモヤイ像のところのカフェに入った。
 アイスコーヒーを注文する。
 トモノオジはヘンなおっさんだ。浮浪者の格好を、なぜ好き好んでしているのか。
 冬も近いのにアイスコーヒーを注文した加奈子は、ストローで苦い液体をガムシロップなしで飲みながらそんなことを思った。
 加奈子がトモノオジと知り合いになったきっかけは、このモヤイ像のあたり、駅南で悪徳なキャッチセールスに遭った時だった。
「映画に関するアンケートを行っています」と、メガネをかけたデブ男が加奈子に寄ってきて、加奈子はそいつを避けて、通り過ぎようとした。
 そうしたら、歩いている進行方向をブロックされた。
 右に行こうとすると右をブロックされ、左に行こうとすると、左をブロックされる。
 後ろに下がっても、回り込んでそのデブはブロックする。
 仕方ないので、アンケートなるものに応じることにしたのだが、そのデブはぺらぺらの一枚のコピー用紙みたいな紙に名前を書け、という。
 名前を書く欄の下に、五つほど、映画に関するアンケートがあり、「はい」と「いいえ」で答えるようになっていた。
 書き終えると、デブはその紙をひっくり返し、「これは全国の全ての映画館で使える割引の回数券になっています」と言った。
 それから、「お値段は三千円になります」と付け足すので、加奈子は「いりません」と言った。
 すると、デブは鋭い目つきになり「いりませんじゃねぇだろ。名前書いただろうがッ。金を払え」と凄んだ。
 この割引の回数券とやらが偽物なのは明白だ。
 コピー用紙みたいなぺらぺらの紙だし、映画館というのは、いろいろな企業がやっているし単館系というのも様々な企業が独自にやっている。
 だから、「全国どこでも使える」わけがないのだ。
 そして今、デブは加奈子を脅迫している。
「マズいな」と思い、加奈子は名前を書いたその紙を、その場で掴み、手で握りつぶした。
 するとデブは激怒した。
「クソアマ! てめぇッ、舐めてんのかッ」
 デブは怒鳴った。
 駅の南の入り口で、人はたくさん行き来している。
 だが、誰も加奈子を助けることもなく、気にとめる人間すらいない。
「おいおい、あんた、お嬢さんにむやみに怒鳴るもんじゃねえよ」
 そう声をかけて、助けに現れたのが、トモノオジだった。
 デブは「んだとコラ?」とやくざさながらにメンチを切るが、トモノオジと、自分の名前を告げると、急に態度を変え、頭を下げた。
「ここはわしのシマだ。勝手な商売は辞めてもらおうか」
 トモノオジが笑顔で言うと、デブは逃げるように、そそくさと退散した。
 これが、加奈子とトモノオジとの出会いだった。

 加奈子はカフェの中から、ガラスの向こう側のモヤイ像を見ながら、アイスコーヒーをすする。
 真奈美の部屋の掃除はいつ終わるのか。
 何時頃部屋に帰ればいいのやら。
 と、思っていたら、ケータイのバイブがポケットで震えだした。表示を読むと、それは真奈美からだった。
「はろはろー。あなたのまいすいーとえんじぇる・真奈美ちゃんだおー」
 第一声目からなんなのこの子、と加奈子はため息をつく。
「真奈美ちゃん。私はそういう趣味はありません」
「そういう趣味って?」
「百合的な」
「まじ?」
「まじで」
「うっそー」
 ケータイ越しにけらけら笑う真奈美。
「真奈美。あんたお酒飲んでるでしょ」
「バレたぁ?」
「掃除はどうしたの。終わったの?」
「ぜーんぜん。一息入れてるとこ」
「一息入れるのに酒を飲むなよ」
「私、ワルでしょー」
「真奈美はバカなだけよ」
「むー」
「ところでさぁ」
「なになに?」
「その『ワル』ってどう思う?」
「なによ急に」
「ちょとね。昨日、気になることあったし、今、トモノオジにも顔見せたとこで」
「まんがでも買ったのかにゃ」
「うん。少年誌」
「ゴミ箱から拾ったようなまんが読んでないでファッション誌立ち読みとかしなよー。正直、加奈子の服装、ダサいよ? どーやったらこの街にいてそんなダサいチョイスできるのか、驚きだっつの」
「聞き流すことにするわ」
「ワルねぇ。夜の街でウハウハなオヤジどもよね。それこそ加奈子とは比べものにならないファッションセンス抜群の女を侍らしてるオヤジたち。しかしその女たちって、せっかく気合い入れた服とかメイクとかしてんのに、その活用方法がヒヒジジイどもに股開いて金をもらうためって。そんなことのためにしか使えないなんて、正直引くわ。きゃっはは」
「あんたお酒飲みすぎよ」
「結局女なんてそんなもん、と言えばそうなんだけど、業界の底辺でオヤジに媚び売って『ホテトル嬢』モドキにしかなれないなんて、哀しい話よねぇ。でも、この街にいたら、誰がオヤジの性の捌け口に『堕する』かなんて、知れたもんじゃないよね。私たちも気をつけなきゃね。気をつけたところでどうなるものでもないけれど。お偉方のオヤジに取り入る女も女で、そうすることで得られる『利権』は、喉から手が出るほど欲しいし、ベッドの上に身を投げてジジイのお相手するくらいで利権が得られるなら、お安いものだっていうのもあるんだろうねぇ。あっは。男の権力欲と女の金銭欲の交差点。それがこの街を駆動させてるのもまた事実。『股』開くだけに、『また』事実。うん、私のジョークも冴えてる!」
「冴えてねーよ、めっちゃオッサンだよあんたのトークもダジャレもね」
「あっははは。いや、そうじゃなくて加奈子ちゃん。私はジジイに関する時事ネタを喋るために電話したんじゃなくて」
「うん?」
「いや、今『ジジイ』と『時事』でかけたからね。笑うとこ笑うとこ! おーけい?」
「お、おーけい……」
「私の可愛い弟子が道玄坂から路地に入ったとこの『エウリアン』にとっ捕まっちゃってさ」
「エウリアン?」
「ほら、いるでしょ。価値がないリトグラフを値段ふっかけて高額で売りつける奴ら」
「ああ」
「あいつらをさして『エウリアン』と呼ぶのだ!」
「うん。で、なに? 捕まってんの」
「そうなのよ。助けに行ってあげて。弟子の名前は細波凜々子。今すぐにね!」
 加奈子はアイスコーヒーを飲み終えると、ストローでグラスの中の氷をかき混ぜて、
「引き受けるわ。細波凜々子ちゃんね。わかった。夜、焼き肉おごってね」
 と言って、椅子から立ち上がった。
「加奈子ちゃーん、焼き肉は高いよぉ」
 加奈子は、まだ喋ろうとする真奈美からの通話を切り、コップの入ったトレイを店に返す。
 ここからなら、五分以内に道玄坂に着く。
 どう考えても道玄坂までは真奈美のいる円山町からの方が近いのだが。

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