第18話
文字数 3,527文字
☆
円山町の狭い道を曲がり曲がり歩くと、CLUBアイレスの前に着く。
午前一時。
アイレスと、そして向かい側のCLUBヨーロッパからは重い振動が外にも響いてきて、加奈子の空腹のおなかを叩く。
CLUBの前はライトアップされていて、外に出て煙草を吸っているクラバーの姿もちらほらある。
加奈子もポケットからアメリカンスピリットを取り出し、灰皿の前で吸う。
そういえばCLUBヨーロッパの中にある煙草の自販機は、ラッキーストライクしか置いてないというハードな仕様になってたんだったな、と思い出すと吹き出してしまう。
クラバーの一人に「盛り上がってる?」と加奈子が聞くとクラバーは「初めてマーガリンさんのMC聴いたんすけど、アゲアゲだったす」と答えた。
マーガリンがトリってわけじゃないのか、とチケットの文字を読むと、どうやらもうライブは終わってDJタイムに入っているらしいことがわかった。
マーガリンという男のMCも生で聴きたかったが、まあいいか、と加奈子は紫煙を吐き出す。
灰皿で煙草をもみ消すと、加奈子はCLUBアイレスの中に入っていった。
CLUBアイレスの螺旋階段を、加奈子は降りていく。重低音の振動が段々と大きくなる。
下を覗くと、ライブ用のステージの上に、DJブースが設置されていて、ハイパーマーガリンのメンバーがターンテーブルを回していて、ミキサーで音をいじっているのが見える。
階段の踊り場の柵に寄りかかっている女の子を、加奈子は見つけた。
知ってる子。
それは、真奈美の弟子のケータイ小説家、細波凜々子だった。
肩を叩くと、ステージを眺めていた顔を加奈子の方へ向ける。「あっ」と、凜々子は今気づいたという表情をする。
「ここでこんなに油売っててどうしたの」
加奈子が訊くとばつが悪そうに舌を出して、
「あ、オバサン。……えっと、師匠から言われたんですぅ」
と言って、それから言い迷うように目を泳がせてから、加奈子の目を見て笑う。
「この街の記録をつける。それが使命なのですよー」
少女の笑み。
その笑みはあまりに幼すぎるように、加奈子には思える。
大丈夫か、そんな少女の姿で、こんな男のたくさんいる場所に来ちゃって。
加奈子は心配になるが、しかしこれから色々と、この子も経験していくだろうし、それを止めてはいけないような気がした。
この街の記録。
未だこの街の、九十年代の『渋谷系』ですらまともに記録した本がないこの状況。
そういった今までつけてこなかった記録、裏の記憶の書物。
そういった書物、いや、ケータイ小説だろうから書物というのはおかしいが、でもそういうものは絶対に必要になる、人々が生きた証として。
ならば、この子の任務は重要だ。
だから、歩みを止めてしまってはいけない。
この子に必要なのは年長者からの助言じゃない。
自分自身の体験する経験値と、生きるための知識だ。
間違えてはいけない。
この街を動かした欲望とはなにか。
それを後世の人間が判断する材料を。
それを読み込むための書物を。
未来のこの街に生きるために、誰かが錬成しないといけない書物。
真奈美とこの子は、そんなものを自らも求めて、つくろうとしている。
自分の使命だ、と感じて。
それは他人のためか、自分のためなのか。
それはどちらも、だろう。
加奈子はそこで気づく。
自分の追い求めるものと、この子たちと、どちらの仕事の方が重要なのか、と。
だが、思い直す。
自分はその、『この街を動かした欲望』自体の中で蠢く人間だ、と。
この子たちのような、俯瞰する立場の人間では、自分はない。
ならば、自分は自分の戦いを勝ち抜くだけだ、と。
「そろそろ、登場ですよ、あの女の」
はてなマークを頭の上に出して加奈子が首をかしげると、凜々子は吐き捨てるように、
「葉澄莉奈。……今日の朝っぱらに現れた、志乃詩音のペットですよぉ」
と、眉をしかめて言った。
「葉澄、莉奈……ね」
DJプレイとは基本的にはずっと止まらないものだ。
BPMも曲ごとには変えないでタイムストレッチをかけ、一定に保つ。
そこにグルーヴ、『うねり』が生まれる。その心地良いうねりの中、オーディエンスは踊る。
檻の中のダンスは、鳴り止まない。
DJが曲を流している間、次のDJがスタッフと一緒に自分のDJシステムをケーブルに繋げている。
次のDJは加奈子も知る相手、三択・ロースだった。
ゴスロリ服が、この装飾過多なこのハコによく似合っている。
ロースは紙コップでビールを飲みながらシステムを設置している。
オーディエンスが手を振ると、ロースも手を振り返す。それに歓喜して口笛を鳴らすクラバー。
その様子を、加奈子は螺旋階段の踊り場で凜々子と一緒に見下ろしている。
階段にもオーディエンスのクラバーたちが行き来している。
みんな上機嫌だ。
男も、女もいる。
そしてそのクラバーたちは、いずれも若い人間だ。
たまに白いヒゲを生やしたオッサンもいるが、彼らは一様にカメラを首からぶら下げている。
たぶん、業界の人間だ。
行き来するクラバーと業界の人間たちを、目を細めて眺める凜々子は、「人気ですねぇ」と一瞥する。
ロースが自分のシステムを設置し終えて、プレイ中のDJと、挨拶のハイタッチをする。
ロースがターンテーブルにアナログレコードを置くと、ロースのプレイが始まる。
前のDJは、撤収作業をし出す。
BPMは、速い。
ジャーマンレイヴの激しいハードコアなリズムがこの大きなハコ全体を鳴らす。
クラバーたちは飛びはねはじめる。
黒いゴス装束のロースはマイクを掴み、
「MCバター猫!」
とボコーダーで歪めたロボットボイスで言う。
すると、ステージにバター猫が上がり、オーディエンスをあおる。
それからバター猫がステージに二本置かれたマイクスタンドのマイクの一つから、
「葉澄莉奈!」
と叫ぶ。
すると、オーディエンスが踊る中、客をかき分けながら歩いて登場する、葉澄莉奈の姿。
「ついに登場しましたね」
凜々子がステージを見下ろしながら加奈子に言う。
「うん」と、加奈子は頷いた。
ロースがターンテーブルをスクラッチすると、オリジナル曲が始まった。
登場の時のテクノから一転しての、洗練されたヒップホップのトラック。
ロースはMacの画面とミキサー卓をいじりながら、曲を盛り上げていき、バター猫がラップを始める。
オーディエンスは飛ぶ。飛んだ振動が踊り場の加奈子たちにも響いてくる。
そもそもライブの時間は過ぎ、あとはただDJパーティが続くだけのはずだったのだ。
そこに突如、街の人気DJでトラックメイカーと、ラッパー、それから読者モデルが共演し、ライブが再開されたのだ。
これで湧かないはずがない。
バター猫のリリックが軽快に始まり、サビのところで『歌姫』となった莉奈が、泣きのメロディを歌い上げる。
ミクスチャーロック、と言えばいいのか。そのオルタナティヴなサウンドが、ただのヒップホップとは違う、日本人にも『わかりやすい』音の塊として、ハコを鳴らす。
加奈子は驚いた。
これは、観に来て良かった、と直感した。
このサウンドは、一聴に値する。
いや、この『わかりやすさ』が、自分には足りないものだと気づいた。マジョリティに届く音楽。
それが、まさにこれだった。
明日は自分のプレイだ。
いや、もう、これから朝になる。
自分の番は今日だ。
それには間に合わないだろうが、いずれ、この楽曲に対抗出来るようにしなければ、詩音に自分は太刀打ちできないだろう。
今プレイしているゴスロリの少女は、自分に作曲を教えてくれている人物だ。
だから、こうやって聴けばその『方程式』は読み解ける。
加奈子が息を呑んでいると、凜々子は加奈子のおなかをつつく。
「不愉快です。私たちはもう帰るのですよー」
我に返った加奈子は、「ん? あ、……ああ、そうね」と、今の我を忘れていた自分に恥ずかしくなり、それを勘づかれないように、首を振った。
「帰らないんですかぁ?」
「……いや、帰る」
どうもこのままライブに引きつけられたままだと、今日の夜自分でプレイするときにも引き摺るだろう、と判断した。
加奈子は凜々子とともに、この場を離れることにした。
ハイパーマーガリンへの挨拶は、しないで、加奈子はCLUBを後にする。
円山町の狭い道を曲がり曲がり歩くと、CLUBアイレスの前に着く。
午前一時。
アイレスと、そして向かい側のCLUBヨーロッパからは重い振動が外にも響いてきて、加奈子の空腹のおなかを叩く。
CLUBの前はライトアップされていて、外に出て煙草を吸っているクラバーの姿もちらほらある。
加奈子もポケットからアメリカンスピリットを取り出し、灰皿の前で吸う。
そういえばCLUBヨーロッパの中にある煙草の自販機は、ラッキーストライクしか置いてないというハードな仕様になってたんだったな、と思い出すと吹き出してしまう。
クラバーの一人に「盛り上がってる?」と加奈子が聞くとクラバーは「初めてマーガリンさんのMC聴いたんすけど、アゲアゲだったす」と答えた。
マーガリンがトリってわけじゃないのか、とチケットの文字を読むと、どうやらもうライブは終わってDJタイムに入っているらしいことがわかった。
マーガリンという男のMCも生で聴きたかったが、まあいいか、と加奈子は紫煙を吐き出す。
灰皿で煙草をもみ消すと、加奈子はCLUBアイレスの中に入っていった。
CLUBアイレスの螺旋階段を、加奈子は降りていく。重低音の振動が段々と大きくなる。
下を覗くと、ライブ用のステージの上に、DJブースが設置されていて、ハイパーマーガリンのメンバーがターンテーブルを回していて、ミキサーで音をいじっているのが見える。
階段の踊り場の柵に寄りかかっている女の子を、加奈子は見つけた。
知ってる子。
それは、真奈美の弟子のケータイ小説家、細波凜々子だった。
肩を叩くと、ステージを眺めていた顔を加奈子の方へ向ける。「あっ」と、凜々子は今気づいたという表情をする。
「ここでこんなに油売っててどうしたの」
加奈子が訊くとばつが悪そうに舌を出して、
「あ、オバサン。……えっと、師匠から言われたんですぅ」
と言って、それから言い迷うように目を泳がせてから、加奈子の目を見て笑う。
「この街の記録をつける。それが使命なのですよー」
少女の笑み。
その笑みはあまりに幼すぎるように、加奈子には思える。
大丈夫か、そんな少女の姿で、こんな男のたくさんいる場所に来ちゃって。
加奈子は心配になるが、しかしこれから色々と、この子も経験していくだろうし、それを止めてはいけないような気がした。
この街の記録。
未だこの街の、九十年代の『渋谷系』ですらまともに記録した本がないこの状況。
そういった今までつけてこなかった記録、裏の記憶の書物。
そういった書物、いや、ケータイ小説だろうから書物というのはおかしいが、でもそういうものは絶対に必要になる、人々が生きた証として。
ならば、この子の任務は重要だ。
だから、歩みを止めてしまってはいけない。
この子に必要なのは年長者からの助言じゃない。
自分自身の体験する経験値と、生きるための知識だ。
間違えてはいけない。
この街を動かした欲望とはなにか。
それを後世の人間が判断する材料を。
それを読み込むための書物を。
未来のこの街に生きるために、誰かが錬成しないといけない書物。
真奈美とこの子は、そんなものを自らも求めて、つくろうとしている。
自分の使命だ、と感じて。
それは他人のためか、自分のためなのか。
それはどちらも、だろう。
加奈子はそこで気づく。
自分の追い求めるものと、この子たちと、どちらの仕事の方が重要なのか、と。
だが、思い直す。
自分はその、『この街を動かした欲望』自体の中で蠢く人間だ、と。
この子たちのような、俯瞰する立場の人間では、自分はない。
ならば、自分は自分の戦いを勝ち抜くだけだ、と。
「そろそろ、登場ですよ、あの女の」
はてなマークを頭の上に出して加奈子が首をかしげると、凜々子は吐き捨てるように、
「葉澄莉奈。……今日の朝っぱらに現れた、志乃詩音のペットですよぉ」
と、眉をしかめて言った。
「葉澄、莉奈……ね」
DJプレイとは基本的にはずっと止まらないものだ。
BPMも曲ごとには変えないでタイムストレッチをかけ、一定に保つ。
そこにグルーヴ、『うねり』が生まれる。その心地良いうねりの中、オーディエンスは踊る。
檻の中のダンスは、鳴り止まない。
DJが曲を流している間、次のDJがスタッフと一緒に自分のDJシステムをケーブルに繋げている。
次のDJは加奈子も知る相手、三択・ロースだった。
ゴスロリ服が、この装飾過多なこのハコによく似合っている。
ロースは紙コップでビールを飲みながらシステムを設置している。
オーディエンスが手を振ると、ロースも手を振り返す。それに歓喜して口笛を鳴らすクラバー。
その様子を、加奈子は螺旋階段の踊り場で凜々子と一緒に見下ろしている。
階段にもオーディエンスのクラバーたちが行き来している。
みんな上機嫌だ。
男も、女もいる。
そしてそのクラバーたちは、いずれも若い人間だ。
たまに白いヒゲを生やしたオッサンもいるが、彼らは一様にカメラを首からぶら下げている。
たぶん、業界の人間だ。
行き来するクラバーと業界の人間たちを、目を細めて眺める凜々子は、「人気ですねぇ」と一瞥する。
ロースが自分のシステムを設置し終えて、プレイ中のDJと、挨拶のハイタッチをする。
ロースがターンテーブルにアナログレコードを置くと、ロースのプレイが始まる。
前のDJは、撤収作業をし出す。
BPMは、速い。
ジャーマンレイヴの激しいハードコアなリズムがこの大きなハコ全体を鳴らす。
クラバーたちは飛びはねはじめる。
黒いゴス装束のロースはマイクを掴み、
「MCバター猫!」
とボコーダーで歪めたロボットボイスで言う。
すると、ステージにバター猫が上がり、オーディエンスをあおる。
それからバター猫がステージに二本置かれたマイクスタンドのマイクの一つから、
「葉澄莉奈!」
と叫ぶ。
すると、オーディエンスが踊る中、客をかき分けながら歩いて登場する、葉澄莉奈の姿。
「ついに登場しましたね」
凜々子がステージを見下ろしながら加奈子に言う。
「うん」と、加奈子は頷いた。
ロースがターンテーブルをスクラッチすると、オリジナル曲が始まった。
登場の時のテクノから一転しての、洗練されたヒップホップのトラック。
ロースはMacの画面とミキサー卓をいじりながら、曲を盛り上げていき、バター猫がラップを始める。
オーディエンスは飛ぶ。飛んだ振動が踊り場の加奈子たちにも響いてくる。
そもそもライブの時間は過ぎ、あとはただDJパーティが続くだけのはずだったのだ。
そこに突如、街の人気DJでトラックメイカーと、ラッパー、それから読者モデルが共演し、ライブが再開されたのだ。
これで湧かないはずがない。
バター猫のリリックが軽快に始まり、サビのところで『歌姫』となった莉奈が、泣きのメロディを歌い上げる。
ミクスチャーロック、と言えばいいのか。そのオルタナティヴなサウンドが、ただのヒップホップとは違う、日本人にも『わかりやすい』音の塊として、ハコを鳴らす。
加奈子は驚いた。
これは、観に来て良かった、と直感した。
このサウンドは、一聴に値する。
いや、この『わかりやすさ』が、自分には足りないものだと気づいた。マジョリティに届く音楽。
それが、まさにこれだった。
明日は自分のプレイだ。
いや、もう、これから朝になる。
自分の番は今日だ。
それには間に合わないだろうが、いずれ、この楽曲に対抗出来るようにしなければ、詩音に自分は太刀打ちできないだろう。
今プレイしているゴスロリの少女は、自分に作曲を教えてくれている人物だ。
だから、こうやって聴けばその『方程式』は読み解ける。
加奈子が息を呑んでいると、凜々子は加奈子のおなかをつつく。
「不愉快です。私たちはもう帰るのですよー」
我に返った加奈子は、「ん? あ、……ああ、そうね」と、今の我を忘れていた自分に恥ずかしくなり、それを勘づかれないように、首を振った。
「帰らないんですかぁ?」
「……いや、帰る」
どうもこのままライブに引きつけられたままだと、今日の夜自分でプレイするときにも引き摺るだろう、と判断した。
加奈子は凜々子とともに、この場を離れることにした。
ハイパーマーガリンへの挨拶は、しないで、加奈子はCLUBを後にする。