第18話

文字数 3,527文字




 円山町の狭い道を曲がり曲がり歩くと、CLUBアイレスの前に着く。
 午前一時。
 アイレスと、そして向かい側のCLUBヨーロッパからは重い振動が外にも響いてきて、加奈子の空腹のおなかを叩く。
 CLUBの前はライトアップされていて、外に出て煙草を吸っているクラバーの姿もちらほらある。
 加奈子もポケットからアメリカンスピリットを取り出し、灰皿の前で吸う。
 そういえばCLUBヨーロッパの中にある煙草の自販機は、ラッキーストライクしか置いてないというハードな仕様になってたんだったな、と思い出すと吹き出してしまう。
 クラバーの一人に「盛り上がってる?」と加奈子が聞くとクラバーは「初めてマーガリンさんのMC聴いたんすけど、アゲアゲだったす」と答えた。
 マーガリンがトリってわけじゃないのか、とチケットの文字を読むと、どうやらもうライブは終わってDJタイムに入っているらしいことがわかった。
 マーガリンという男のMCも生で聴きたかったが、まあいいか、と加奈子は紫煙を吐き出す。
 灰皿で煙草をもみ消すと、加奈子はCLUBアイレスの中に入っていった。

 CLUBアイレスの螺旋階段を、加奈子は降りていく。重低音の振動が段々と大きくなる。
 下を覗くと、ライブ用のステージの上に、DJブースが設置されていて、ハイパーマーガリンのメンバーがターンテーブルを回していて、ミキサーで音をいじっているのが見える。
 階段の踊り場の柵に寄りかかっている女の子を、加奈子は見つけた。
 知ってる子。
 それは、真奈美の弟子のケータイ小説家、細波凜々子だった。
 肩を叩くと、ステージを眺めていた顔を加奈子の方へ向ける。「あっ」と、凜々子は今気づいたという表情をする。
「ここでこんなに油売っててどうしたの」
 加奈子が訊くとばつが悪そうに舌を出して、
「あ、オバサン。……えっと、師匠から言われたんですぅ」
 と言って、それから言い迷うように目を泳がせてから、加奈子の目を見て笑う。
「この街の記録をつける。それが使命なのですよー」
 少女の笑み。
 その笑みはあまりに幼すぎるように、加奈子には思える。
 大丈夫か、そんな少女の姿で、こんな男のたくさんいる場所に来ちゃって。
 加奈子は心配になるが、しかしこれから色々と、この子も経験していくだろうし、それを止めてはいけないような気がした。
 この街の記録。
 未だこの街の、九十年代の『渋谷系』ですらまともに記録した本がないこの状況。
 そういった今までつけてこなかった記録、裏の記憶の書物。
 そういった書物、いや、ケータイ小説だろうから書物というのはおかしいが、でもそういうものは絶対に必要になる、人々が生きた証として。
 ならば、この子の任務は重要だ。
 だから、歩みを止めてしまってはいけない。
 この子に必要なのは年長者からの助言じゃない。
 自分自身の体験する経験値と、生きるための知識だ。
 間違えてはいけない。
 この街を動かした欲望とはなにか。
 それを後世の人間が判断する材料を。
 それを読み込むための書物を。
 未来のこの街に生きるために、誰かが錬成しないといけない書物。
 真奈美とこの子は、そんなものを自らも求めて、つくろうとしている。
 自分の使命だ、と感じて。
 それは他人のためか、自分のためなのか。
 それはどちらも、だろう。
 加奈子はそこで気づく。
 自分の追い求めるものと、この子たちと、どちらの仕事の方が重要なのか、と。
 だが、思い直す。
 自分はその、『この街を動かした欲望』自体の中で蠢く人間だ、と。
 この子たちのような、俯瞰する立場の人間では、自分はない。
 ならば、自分は自分の戦いを勝ち抜くだけだ、と。
「そろそろ、登場ですよ、あの女の」
 はてなマークを頭の上に出して加奈子が首をかしげると、凜々子は吐き捨てるように、
「葉澄莉奈。……今日の朝っぱらに現れた、志乃詩音のペットですよぉ」
 と、眉をしかめて言った。
「葉澄、莉奈……ね」
 DJプレイとは基本的にはずっと止まらないものだ。
 BPMも曲ごとには変えないでタイムストレッチをかけ、一定に保つ。
 そこにグルーヴ、『うねり』が生まれる。その心地良いうねりの中、オーディエンスは踊る。
 檻の中のダンスは、鳴り止まない。
 DJが曲を流している間、次のDJがスタッフと一緒に自分のDJシステムをケーブルに繋げている。
 次のDJは加奈子も知る相手、三択・ロースだった。
 ゴスロリ服が、この装飾過多なこのハコによく似合っている。
 ロースは紙コップでビールを飲みながらシステムを設置している。
 オーディエンスが手を振ると、ロースも手を振り返す。それに歓喜して口笛を鳴らすクラバー。
 その様子を、加奈子は螺旋階段の踊り場で凜々子と一緒に見下ろしている。
 階段にもオーディエンスのクラバーたちが行き来している。
 みんな上機嫌だ。
 男も、女もいる。
 そしてそのクラバーたちは、いずれも若い人間だ。
 たまに白いヒゲを生やしたオッサンもいるが、彼らは一様にカメラを首からぶら下げている。
 たぶん、業界の人間だ。
 行き来するクラバーと業界の人間たちを、目を細めて眺める凜々子は、「人気ですねぇ」と一瞥する。
 ロースが自分のシステムを設置し終えて、プレイ中のDJと、挨拶のハイタッチをする。
 ロースがターンテーブルにアナログレコードを置くと、ロースのプレイが始まる。
 前のDJは、撤収作業をし出す。
 BPMは、速い。
 ジャーマンレイヴの激しいハードコアなリズムがこの大きなハコ全体を鳴らす。
 クラバーたちは飛びはねはじめる。
 黒いゴス装束のロースはマイクを掴み、
「MCバター猫!」
 とボコーダーで歪めたロボットボイスで言う。
 すると、ステージにバター猫が上がり、オーディエンスをあおる。
 それからバター猫がステージに二本置かれたマイクスタンドのマイクの一つから、
「葉澄莉奈!」
 と叫ぶ。
 すると、オーディエンスが踊る中、客をかき分けながら歩いて登場する、葉澄莉奈の姿。
「ついに登場しましたね」
 凜々子がステージを見下ろしながら加奈子に言う。
「うん」と、加奈子は頷いた。
 ロースがターンテーブルをスクラッチすると、オリジナル曲が始まった。
 登場の時のテクノから一転しての、洗練されたヒップホップのトラック。
 ロースはMacの画面とミキサー卓をいじりながら、曲を盛り上げていき、バター猫がラップを始める。
 オーディエンスは飛ぶ。飛んだ振動が踊り場の加奈子たちにも響いてくる。
 そもそもライブの時間は過ぎ、あとはただDJパーティが続くだけのはずだったのだ。
 そこに突如、街の人気DJでトラックメイカーと、ラッパー、それから読者モデルが共演し、ライブが再開されたのだ。
 これで湧かないはずがない。
 バター猫のリリックが軽快に始まり、サビのところで『歌姫』となった莉奈が、泣きのメロディを歌い上げる。
 ミクスチャーロック、と言えばいいのか。そのオルタナティヴなサウンドが、ただのヒップホップとは違う、日本人にも『わかりやすい』音の塊として、ハコを鳴らす。
 加奈子は驚いた。
 これは、観に来て良かった、と直感した。
 このサウンドは、一聴に値する。
 いや、この『わかりやすさ』が、自分には足りないものだと気づいた。マジョリティに届く音楽。
 それが、まさにこれだった。
 明日は自分のプレイだ。
 いや、もう、これから朝になる。
 自分の番は今日だ。
 それには間に合わないだろうが、いずれ、この楽曲に対抗出来るようにしなければ、詩音に自分は太刀打ちできないだろう。
 今プレイしているゴスロリの少女は、自分に作曲を教えてくれている人物だ。
 だから、こうやって聴けばその『方程式』は読み解ける。
 加奈子が息を呑んでいると、凜々子は加奈子のおなかをつつく。
「不愉快です。私たちはもう帰るのですよー」
 我に返った加奈子は、「ん? あ、……ああ、そうね」と、今の我を忘れていた自分に恥ずかしくなり、それを勘づかれないように、首を振った。
「帰らないんですかぁ?」
「……いや、帰る」
 どうもこのままライブに引きつけられたままだと、今日の夜自分でプレイするときにも引き摺るだろう、と判断した。
 加奈子は凜々子とともに、この場を離れることにした。
 ハイパーマーガリンへの挨拶は、しないで、加奈子はCLUBを後にする。


 
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