文字数 2,640文字


「ワレス隊長が倒れたって?」

 どこか遠くで声がする。

「わっ。何してるんだ。クルウ」
「ぬれた服をぬがせているんです。小隊長は破傷風です。このままでは、よけいに熱がひどくなりますから」
「あ、そうか……」

「早く、あたたかくしてさしあげないと」
「破傷風なんて、どうしたらいいんだ。あれは高熱が出て……」
「けいれんを起こし、重篤(じゅうとく)な場合は死にいたります」
「やめてくれ。とりあえず、ベッドに寝かせて……」

「専用の薬が必要です。風邪の熱とは違いますから、ほっといてもよくなりません。しっかりしてください。分隊長」

「ああ、そうだ。おれが、うろたえてるときじゃないな。おれはロンドを呼んでくる。おまえは、クルウ。その……早く隊長に服を着せてさしあげてくれ」
「いいのですか?」
「…………」

 走っていく、あわただしい足音。
 誰かが、ワレスの肌をなでている。

(誰……?)

 ああ、そうだ。
 これは、さっき道で会った行きずりの男だ。

「やせっぽちのガキだな」

 木賃宿のそまつなベッドの上で、男は言った。
 ついさっき、その飢えて死にそうな、やせっぽちのガキを抱いたくせに。

「帰る……」

 ふらりと、ワレサは立ちあがり、やぶれて黄ばんだ衣服を身につけた。

 薄い長袖一枚では凍えるように寒い日。
 今日は南の海岸ぞいのこの地方でも、何十年ぶりに雪が見られそうだ。

「まだいいだろ。もう一回、来いよ」
「だめ。帰らなきゃ」
「そう邪険にするなって」

 ひきよせようとする男の手を、ワレサは

のところでかわす。

 とにかく、空腹で目がまわる。いつもなら、すばやく逃げだすことができたが、今は思うように体が動かない。立ってるのが、やっとだ。

 男はそれがわかってるので、あわてない。弱った子猫をいたぶるように、おもしろがるような顔で、ゆっくり近づいてくる。

「……来ないでよ」
「いいだろ。おれ、おまえが気に入ったんだ」
「一回だけって約束だ」
「金がほしいんだろ」

 お金は欲しい。
 もう三日もろくに食べてない。三日前に近所のおばさんが、あまりもののスープをくれたのが最後だ。

 二年前、母が死んでから、おばさんは何くれとなく親切にしてくれた。だが、近ごろは、あまり、かまってくれない。

「ごめんね。ワレサ。これしかあげられなくて。おまえのお父さんと、うちの人。この前、ハデにケンカしたろ? だから、これも、うちの人にはナイショなんだ。バレたら、あたしもぶたれるからさ」
「うん」

「まったく、ひどい父親だね。これじゃ、ジュリオも死にきれないよ。可愛い子どもを二人も遺して」

 その可愛い子どもは、最初は四人だった。でも、母が死んでまもなく、一人は売られ、一人は死んだ。
 残ったのは、年長のワレサと、末っ子のレディーだけ。

 むじゃきに笑うレディー。
 愛くるしいレディー。
 蜂蜜みたいなレディー。
 ワレサのたったひとつ、心のよりどころ。

 レディーが死にかけている。三日前のスープを最後に、何も食べてないから。
 家にはパンもチーズも、ひとかけらもない。
 あるのは、朝から晩まで、あびるように酒を飲む父が作った借金だけ。

 以前はよく市場で盗みを働いた。が、ワレサの容姿は目立つので、商人たちに目をつけられてしまった。このごろは、なかなか、うまくいかない。

 せめて、ワレサが働くことができればよかったが、幼すぎると言って、どこもとりあってくれない。
 なまじ、ユイラが富んだ国なので、幼児を使っていると体裁が悪いのだそうだ。八つになってから来なさいと言われた。

 ワレサは今、六つ。もうすぐ誕生日が来たら、七つだ。
 あと一年以上ものあいだ、食べていくすべがない。
 それは、ワレサとレディーが確実に死ぬということだ。

 だから、自分で稼ぐには、これしかなかった。

 最初の相手は、石切り場で働く、バリス。バリスは近所で男色家だと陰口をたたかれていた。母が生きていたころは、近づいてはいけないと言われていた。

 母が死んで食べ物に困ってたので、誘いにのった。

 たしかに、それは、してはいけないことだったのだろう。あるいは、経験するには早すぎた。気絶するくらい痛かったが、でも、ワレサの手のなかに、お金は残った。

 バリスはいけない大人なのだろうが、客としては悪くなかった。気前がよく、約束はちゃんと守ってくれた。たまには、よぶんに甘いお菓子をくれることもあった。

 ふだんなら、よほどのことがないかぎり、バリス以外の男についていくことはなかった。
 でも、そのとき、バリスは石切り場の仕事に行っていて、何日も家に帰ってこなかった。

 しかたなく、ワレサは行きずりの相手を探した。
 今朝、目がさめたとき、レディーが、ぐったりしていたから。可愛い顔を亡霊のように青ざめさせて。
 話しかけると目はあくのだが、口をきく元気がない。

 はっきり、わかった。
 レディーが死んでしまう——

 ダメだ。レディーはまだ三つなんだ。
 ぼくの可愛い、たった一人の妹。
 君がいなけりゃ、ぼくはこれから、どうやって生きていけばいいの?

 あいつになぐられても、罵られても、どんなにヒドイことがあっても耐えてきた。
 ヒマワリみたいな、君の笑顔があったから……。

 それで、見知らぬ男を誘った。あとくされないよう町の男はさけて、安宿の近くで旅人にお金をせびった。
 男はワレサを上から下まで値ぶみして、宿の一室につれこんだ。

 自分につけられた法外に安い値段と、そんな小銭で耐えるには、つらすぎる苦痛。

 男は帰ろうとするワレサを背後から抱きすくめ、床にひきたおす。

「まだだって言ってるだろ。言うこときかねえと、なぐるぞ」

 なぐると聞いて、ワレサはあきらめた。大人の暴力の前では、どうにもしようがない。それはイヤってほど、わかってる。

 おとなしくなったワレサを、そのあと、男はずいぶん責めさいなんだ。
 やっと自由になって、虫の息で男を見ると、

「なんだよ。さっさと出ていきな。帰りたいんだろ」

 しっしっと犬を追いはらうように手をふる。

「お金は?」
「さきに渡したろ」
「これは最初の一回のぶんだ」
「一回ずつ払うなんて誰が言ったよ。さっさと行きな。うるさくすると、なぐるぞ」
「…………」
「なんだよ。その目」

 大人は汚い。
 大人はウソつきだ。
 こんなやつら、みんな死ねばいい。

 こうして、ワレサは人間の醜さを学んでいく。ひとつ。またひとつ。
 人間が自分より弱い者に対して、どれほど残酷になれるかを。

(でも……これで、レディーを助けられる)
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