文字数 2,379文字



「私を殺してくれ。ワレサ」

 ふりむいたハイリーの両眼からは、涙があふれていた。

 病のせいで表情のなくなったおもて。
 嗚咽(おえつ)の声もない。
 静かな涙。

「私の体が完全に病におかされる前に、おまえの手で私を殺してくれ。今ならば、私は死ねる。この心臓が動いてるうちに。その剣で」

 そうしなければ、ハイリーは狂ってしまうだろう。
 いや、すでに狂い始めていたのかもしれない。八つの子どものワレサに、自分を殺してくれと頼むのだから。

(ああ。ハイリー。おれは大人になった。約束どおり強くなって、今なら、あなたより力もある。あなたが歩けなくなれば、おれが運んであげる。あなたのかわりに手紙も書く。食事のときには、おれの手で一口ずつ食べさせて、湯浴みでは背中を流す。今なら、おれはなんだってできる。なんだってできるのに、どうして、あなたはいないんだ。なぜ、死んでしまったんだ)

 生涯でただ一人、主君にしてもいいと思った人だったのに。不治の病に身も心も(むしば)まれて、死んでしまった。

「ワレサ。何をぼんやりしてるの?」

 呼びかけられて、ワレサはドキリとした。

(この子も病気なんだ。怖い……)

 皇都へ向かう船のなか。
 出会った少女。

「ねえ、ワレサ。わたしのお兄さんになってくれない? わたしね。一人っ子でしょ。ずっと、お兄さんがほしかったのよね」

「君、誕生日は?」
「風の月よ」
「ぼくも風の月だ」

「何日? わたしはね。アイサラの一日よ」
「じゃあ、ダメだ。ぼくはアイサラの三日だからね。君のほうが、ちょっぴり、お姉さんだよ」

「ええッ。たった二日じゃない。なんとか

できない?」
「そんなのできないよ」

 ほんとは一つだけ方法がある。ワレサのほうが年上になる方法が。

 でも、大丈夫。
 シェレールは死なない。

 そうだよね。シェレール。君の胸は少しだけ、ほかの子より弱いかもしれないけど、それだけのことさ。
 死んだりしない。

 だって、君はこんなに明るくて、活発な女の子だ。病気だってこと、忘れてしまうくらい。

「ねえ、ワレサ。わたし、やっぱり、あのことはよすわ」

 真剣な顔をして、何を言いだすかと思えば、

「あのことって?」
「わたしのお兄さんになってほしいってこと」
「ああ、あれね。ムリだって観念したの?」
「わたし、イヤだもの。ワレサがお兄さんだなんて」
「……そう」

 嫌われたのかと思った。
 でも、シェレールは頰を真っ赤にそめて、こう言った。

「兄妹では結婚できないじゃない」
「シェレール……」
「わたしね。あなたと離れていると、体の半分がなくなってしまったような気がする。父さまより、母さまより、ワレサが好き。世界で一番、ワレサが好きよ」

 いいの? ぼくは君を愛してもいいの?
 こんなに……汚れてるのに?

「どうして泣くの? ワレサ」
「君を……好きだから」

 幼くて、切ないキス。
 シェレールのふれた唇から、透明な光がさして、ワレサを洗っていくような気がした。

 この子がいればいい。
 もう何もいらない。
 神さま、どうか、この子を奪わないで。
 ぼくの命をかわりにあげる。
 だから、お願い。
 この子を殺さないで。

 あんなに必死に祈ったのに——

(死んでしまった。シェレールは死んでしまった!)

 この世に神なんていない。
 泣き叫んだ、あの日。

「信じない! ぼくはもう二度と、神なんて信じない! あんなに頼んだのに。シェレールをつれていかないでって。頼んだのに!」

 みんな、死んでいく。
 おれの愛した人は……。

「そんなことはないさ。君がそう思いこんでるだけじゃないのかい? ねえ、ワレサ。僕がそんな迷信、ふきとばしてあげるよ。もう一度、親子になろう」

「ミスティ……」

「皇都に来て、まさか、君に出会うなんてね。昔、必死に探したときは、まったく消息もつかめなかったのに」

「探したのか。おれのこと」
「そりゃ探すさ。七つや八つの子どもが、一人でどっかに行ってしまったんだぞ。僕の財布から現金を全部ぬきだしていったのは、さすがだったが」

 ミスティルが笑うので、ワレスも笑った。

 ミスティは、ほんとに変わらない。昔から陽気な楽天家だった。

 各地を放浪していた少年時代。最初に出会ったときは、ただの男娼と客だった。

 ケンカもした。
 ミスティは怒りっぽかったから。でも、子どもみたいに純粋だった。

「もう一度、やりなおそう。今度こそ、君にふさわしい父親になる。僕だって、あれから二十年。人生経験をつんだ。少しはマシな親父になれる」
「あんたは知らないんだ。おれがどんな人間か。あんたにふさわしくないのは、おれのほうなんだ」

 すると、まったくの世間知らずだと思っていたミスティルが言った。何もかも見通したような、おごそかな微笑で。

「知ってるよ。君は子どもだった。ただ、けんめいに生きてきただけじゃないか」

 ずっと、誰かにそう言ってもらいたかった気がする。

「ミスティ。おれ……」
「僕がゆるす。君は何も悪くない。世界中の人が敵にまわっても、僕は君の味方だ」

 やっと見つけた。
 おれの帰る場所。
 あたたかく、おれを迎えてくれる人。

 ミスティにしがみついて泣いた。
 彼の明るさなら、ワレスの運命をくつがえしてくれるのではないかと思った。
 もう一度、信じてみる気になった。
 自分の未来の幸福を。

(でも……)

 だめだった。
 けっきゃく、ミスティルも……。

 誰もいない。
 おれのそばには、もう誰も。
 みんな、おれを置いていくんだ。
 いつも、一人。おれは一人……。

「おれがいますよ。隊長。おれが、ここにいます」

 目の前に、ハシェドの顔がある。悲しみに、おぼれそうなワレスの手を、きつく、にぎしりしめている。

「ああ……そうだ。おまえがいる。どこにも行くな。ずっと、いてくれ……」

 ハシェド。おまえは、ずっと、そばにいてくれ。
 世界の果てで見つけた、おれの恋人……。
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