第20話 天の川

文字数 2,366文字

 排出……それとも排泄……。ファニュが口にしたのはナナクサが初めて耳にする単語だった。ただ自然の摂理にしては、ナナクサにはその単語とファニュの行動が、ひどく奇妙に思われた。短いながらも今まで一緒に旅を続けていた間、人間の少女は昼間にそれを済ませていたため、ナナクサたちヴァンパイアには人間の生理現象がわからなかったのだ。
「ごめんね、待たせて」と、ファニュ。
 離れた雪壁の陰から、そう言って出て来た少女を初めて目にした時、「いえ、いいのよ」と応じたものの、ナナクサはわけも分からず気恥かしさを感じた。種族は違っても、やはり、そこは互いに女同士なのだろうか。生理現象といわれるものを追究するのも、されるのも何となくではあるが(はばか)られるように感じたのだ。しかし、それでもなお薬師(くすし)であるナナクサには食料から栄養を摂取した後、使い切れなかった栄養を体外に排出するという人間の行為が全く理解できず、それに対する興味は尽きなかった。なぜならヴァンパイアには、せっかく摂取した栄養を無駄にするなどという生理現象が、そもそも存在さえしなかったからだ。
「同じ女同士でも、人間とヴァンパイアは違うのね」
 ナナクサの心を見透かしたかのようにファニュの声が恥じらいを見せた。
「えぇ、そうね。でも似ているところもあるわよ。頭が一つに手足が二本」
 ナナクサの下手な冗談にファニュは久しぶりに笑顔を見せて頷いた。
「目は二つに口は一つ」
「えぇ」
「それに私たち二人とも胸だってカッコよく膨らんでるし」
 分厚い防寒着の上からでも、決してそうは見えないファニュの得意げな顔を見て、ナナクサは苦笑すると、再び「えぇ」と微笑んで、顔を上げた。
 ヴァンパイアの方が人間よりも遥かに体力がある分、ナナクサは移動に際しては極力、人間のタイムスケジュールに合わせようと昼に歩くことを主張し、ここ三週間の行程の殆どを事実そのようにしてきた。ヴァンパイアであっても、さすがに体力的に限界がくるのではないか。ファニュは相棒を気遣った。
「昼の移動は大変でしょ?」
「慣れたわ。心配はいらない。私は大丈夫よ」
「そう。よかった」静かだが、しっかりとした声にファニュは胸を撫で下ろした。「ナナクサは、さっきから何を見てるの?」
「空よ」
「へぇ」
 ファニュはナナクサの視線の先を追った。
「昼の空は、どんな色をしてるの?」
 遮光ゴーグル越しに見えるものはナナクサにはモノクロにしか見えなかった。空も雲も。もちろんレンズ越しでも太陽を直視などできはしない。
「えぇっと。雲は灰色で所々、薄くなっている所は白。そして、そこから少しだけ覗いている所は青」
「そう。雲のない所は青なの」ファニュの生真面目な解説に、ナナクサは感慨深げに、そう応えた。
「夜は月や星が出てないと真っ暗だけどね」
「真っ暗……人間には夜と昼じゃ、空の色も違うのね」
「うん。夜明けと夕暮れも違うよ、やっぱり」
「いろんな見え方をするのね」
「ねぇ、ナナクサ」と、分厚い雲を見やるヴァンパイアにファニュが声を掛けた。「あなたたちにはどう見えるの、空が?」
「わたしたちに見えるのは夜の空だけよ。明るい水色一面に輝く星々が河になって瞬いてるわ」
「水色の空いっぱいに広がった星の河か……」
「帯みたいに空に広がった星々よ」
銀河(ミルキィ・ウェイ)ね」
「ミルキィ・ウェイ。どんな意味?」
「知らない。昔から、そう呼ばれてるから。あたしたちも、そう呼んでる」
「なるほどね」
「ナナクサたちは」
「わたしたちは銀河(シルバー・リバー)って呼んでるわ。あまり縁起が良い名前じゃないけど」
 ファニュは陽の光。雪ニンニク。銀をヴァンパイアは忌み嫌うと教えられていたことを思い出した。
「でも、綺麗なものは、やっぱり綺麗よ」
「そうだね」と、ファニュが頷く。
「月も綺麗よ。星々を圧倒するくらい眩しく心を魅了するわ。もちろん雲が出てなければだけど」
 顔を覆ったフードの中からナナクサの悪戯っぽい声が響いた。
「何ぁんだ。あなたたちは雲だって見透して空も向こうだって見れると思ってたのに」
「物を見透かすなんて無理よ、あなたたち人間が信じてるほど何でもできるわけじゃないわ」
「そうね。それじゃ、まるで神様だもんね」
 顔を上げたファニュはヴァンパイアの目に映る景色を想像してみようとした、昼のように晴れ渡った水色の空に輝く満天の星々を。そして美しい光を放つ満月を。しかし昼の空に夜の星や月が瞬く様子をうまく思い描くことはできなかった。水と油のように昼と夜は決して相容れないのだ。でも自分たちが頑張れば、他の人々も思い描ける日が来るかもしれない。なぜなら恐ろしい化け物だと信じていたヴァンパイアたちとさえ仲良くなれたのだから。
「夜になって雲が晴れたら、あの二人も観るかな“星の河”を」
「ええ。あの二人も、きっと観るわ」
 初対面のヴァンパイア同士が他者を理解しながら大人への階梯を登るデイ・ウォーク。二人の旅は宿敵同士だと思われていたヴァンパイアと人間が、その溝を埋める理解の路へと姿を変えていた、たとえ行き着いた先に何が待ち受けていようとも、今だけは、それで十分だった。ナナクサは宇宙服のように全身を覆った遮光マント越しとは思えない明瞭な声で人間の少女に呼びかけた。
「そろそろ出発しようか、ファニュ」
「うん」少女は曇り空から漏れる一筋の陽光を見ながら元気よく頷いた。
 かつては大海(オーシャン)と呼ばれた氷の大地は雪深くなければ、平坦な分、山よりも歩きやすかった。無限に続くかと思われる、この大地を、いまヴァンパイアと人間が一つの目的地に向けて黙々と歩き続けていた。
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登場人物紹介

ナナクサ

キサラ村出身の薬師見習い。まじめで思慮深い。全てを手にするといわれる“瞳の中に星を飼う”娘。デイ・ウォークを通して、運命に翻弄されながらも大きく成長してゆく。

ジンジツ

ミナヅ村出身の方違へ師見習い。直情径行な性格でリーダーを自称している青年だが、性格には裏表がない。デイ・ウォーク後は、政府の飛行船乗組員になりたいという夢を持っている。

チョウヨウ

ミナヅ村出身の石工見習い。デイ・ウォークの途中で命を落とした姉のボウシュが成し遂げられなかった過酷な成人の儀式を必ず成功させようと意気込む努力家の娘。大柄で口は悪いが他意はない。

タンゴ

キサラ村出身の史書師見習い。大食いで気のいい大柄な青年。旅の初めは頼りなげな彼も、デイ・ウォークの中で大きな選択に迫られてゆく。

ミソカ

キサラ村出身の方違へ師見習い。小柄で身体が弱く、物静かな性格の娘。仲間に後れを取らないように懸命にデイ・ウォークに挑戦してゆく。

タナバタ

ヤヨ村出身の薬師見習い。理知的で柔らかい物腰の青年。スマートで仲間の中では頭脳派。

ジョウシ

ヤヨ村出身。村長の娘。生意気だが洞察力があり、決断力にも富んでいる。

シェ・ファニュ

人工子宮生まれの14歳。ナナクサたちと知り合ったことで前向きに生きていこうとする聡明な人間の少女。規格外品扱いで城砦都市から追放同然で隊商に下げ渡された過去を持つ。

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