第19話 さらなる別れ

文字数 6,038文字

 シミや痘痕(あばた)を隠すように、新たな雪嵐(ブリザード)は分厚いファンデーションとなって戦士の血で赤く傷ついた大地を白く塗り込めた。その大地の肌に面皰(にきび)となって一つだけポツンと浮き出た雪だるまがあった。雪だるまは未だ動かぬ娘の身体を四日間に渡って抱きしめ続けていた。五日目の夜。自分にやらせてくれと仲間に頼んだ人間の少女が、その雪を払いのけ、自身が天使と認めた青年と、彼が抱き締めている娘をそこから静かに掘り起こした。娘の顔は眠っているように見え、少女は声を掛けて揺り起こしそうになるのを辛うじて思い止まった。
「タンゴ」少女は顔の傷がすっかり治った青年に呼び掛けた。「ナナクサもジョウシも心配してるよ」
 タンゴから返事はなかった。ファニュは再び呼び掛けたが、反応がなかったので、彼の大きな肩に手をかけると強く揺すぶった。
「やぁ、ファニュ……」ようやく顔を上げたタンゴの目は虚ろだった。
「大丈夫、天使さん?」
「あぁ、僕は平気さ」
「そう……」ファニュは膝をついた。「でも、いくら数日に一度しか食事が必要でないヴァンパイアでも、もう食べとかないと、身体がもたないよ」
「あぁ、わかってるよ。でも、もう少しなんだ」タンゴは腕の中に抱いている娘の乱れた前髪を優しく直してやった。「もう少しでチョウヨウも生き返るから、それから二人で食べるよ」
 ファニュの心はズキリと傷んだ。
「ねぇ、よく聞いて」
「なに?」タンゴはファニュに応えながら、チョウヨウの顔を眺め続けていた。
「もう生き返らないよ、チョウヨウは」
 意を決して伝えたファニュの言葉をタンゴは無視した。少女は諭すように再び語り掛けた。
「チョウヨウは()ってしまったの。だから、もう還ってこない。ねぇ、あたしの言うことが聞こえてる?」
「あぁ、聞こえてるよ」
「だったら」
「でも、僕は生き返った」タンゴは煩わし気に応じた。
「あなたが生き返った事は聞いたよ。でも」
「君は人間だ。ヴァンパイアの何がわかるっていうんだ。僕らは君たちとは違う。デイ・ウォークだって続けなきゃならない。チョウヨウは、きっと生き返る。君たち人間なんかとは違うんだ。だから、もうほっといてくれないか」
 ファニュはタンゴの言葉に肩を落とした。離れた所にいたナナクサとジョウシが心配して、少女の傍らに来ようとした。
「ごめんね」少女の声はかすれていた。「本当にごめんね、チョウヨウ……」
 最後の一言にタンゴが反応して目を上げた。そしてまじまじと言葉の主を凝視した。ファニュは命の恩人の安らかな顔に語り掛けた。俯いた顔からは人間特有の透明な涙の雫が落ちた。
「あたしを(かば)ったために。あたしさえいなきゃ……」
「なに言ってんだい、ファニュ?」
「これから、やりたいことを一杯持ってたのに。あたしなんかを助けさえしなきゃ」
「もういい。黙ってくれ」と、タンゴ。
「あたしさえいなきゃ、死なずにすんだ。あたしのせいだ」
「黙れ。黙ってくれったら!」
 タンゴは両目を固くつぶって怒鳴った。
 ナナクサは、そんな二人に近づくと、うなだれるファニュの肩を抱いて。その場から、そっと離れた。
「わかったよ」タンゴは離れゆく二人の背中に声を掛けた。「もう、わかったから。これ以上、自分を責めないでくれ。チョウヨウもそんなこと望んでないから」
 二人が十分に離れると、タンゴはチョウヨウの(むくろ)を抱き締めてむせび泣いた。それでも足りずに大きな身体を前後に揺すると子供のように声を上げて泣いた。
               *
 チョウヨウの死を境にパーティは二つに分裂した。一つはジョウシとタンゴ。もう一方はファニュとナナクサ。硬い結束で困難を乗り切ってきた彼らに生じた新たな選択の時だった。しかし、この分裂に至るまで真剣なやり取りが一昼夜に渡って熱心に繰り広げられたのも事実だった。そして誰もが不満を抱きながらも、誰もが納得せざるを得ない結論がもたらされたのだ。
 事の発端はナナクサだとされていたが、実際には生き残った四人の仲間たちそれぞれに理由を求めることができた。当初、ナナクサは政府(チャーチ)と人間の関係を解き明かすことよりも、デイ・ウォークを完遂させることの方に積極的だった。だが組織化された人間の強大な暴力集団を目の当たりにして、人間の城塞都市(カム・アー)とヴァンパイア政府(チャーチ)の関係を、一刻も早く究明しなければならない重大事だと位置づけた。だが、それとは反対に、強烈な中毒性を持つ御力水(おちからみず)の製造責任を政府(チャーチ)に問うことに熱心だったジョウシは、人間の戦士との凄惨な殺し合いの結果、身も心も疲れ果て、いま同じストレスを抱えるならデイ・ウォークの方がましだと考えを改めた。そして始めの取り決め通り、先ずは旅を終えることを優先し、その後、態勢を整えてから政府(チャーチ)と事を構えるべきだと主張した。そしてタンゴはタンゴで、チョウヨウを失った喪失感をどうしても埋めることができず、それでいて亡くなった彼女の代わりに人間の少女の後ろ盾となる気力そのものも湧いてこない自分に悶々としていた。最終的に彼はチョウヨウが目指していたデイ・ウォークの成功を第一として、彼女とともにゴールを目指す―――彼女の骸を荼毘(だび)に付すのはデイ・ウォークの終着点しかないとタンゴが頑なに拒んだ―――道を選んだ。最後に残ったファニュの心境は四人の中で一層複雑だったかもしれない。彼女は後見人のようなチョウヨウがいなくなった今、嫌な故郷に戻らなくてよくなるかもしれないと考える自分に嫌気がさしながらも、それを心のどこかで歓迎もしていた。しかし反面、故郷を目指せと励ましてくれたチョウヨウが自分を守り抜いて命を落としたという重い事実も受け止めざるを得なかった。少女の心は揺れ動き続けた。これに終止符を打ったのは、タンゴの存在だった。彼はチョウヨウが命を落とした責任を決してファニュに求めようとしなかっただけに、一層、彼女は辛かった。チョウヨウの死後、やっと言葉を交わすようになったが、以前のように屈託のない会話は望むべくもなかった。少女は遂に決心した、亡き友が背中を押してくれた、過去との決別を成し遂げることを。
 三人のヴァンパイアと一人の人間は、みな若者らしく悩み、悩みによってぶれ、ぶれによって生じた心の変化を何とか補正しようと努力し、行動に移った。そして戦闘から八日目の夜には、それぞれが出発の準備を終えた。
               *
 鹵獲(ろかく)した指揮橇に最後の荷物を運び込んだジョウシが、星の海に登ったばかりの月を眺めやるナナクサの所にやって来た。
「そろそろ出発じゃ」
 ナナクサは、それに応えることなく月を眺め続けた。
「橇が無いことで難渋するやもしれぬが、大事はないか?」
「大丈夫よ」
「そなたではなく、ファニュじゃ。あ奴は人間ゆえ、そなたよりも難儀もしようぞ」
「何とか、面倒をみるわ。あなたもタンゴをお願いね」
「心得ておるよ」
「ありがとう」
 数瞬の時が流れ、ジョウシは聞きたかったことを思い切って尋ねた。
「いま一度問いたいのじゃが、良いか?」
「えぇ」と、ナナクサは静かにジョウシを振り返った。
如何(いか)な心変わりじゃ、薬師(くすし)のナナクサよ。そなたが旅を中断するなど、理由は政府(チャーチ)と人間の本拠のことばかりではあるまい?」
「そうよ」
 以外にあっさりと別の真意が存在することを認めたナナクサにジョウシは拍子抜けを感じた。だが、ナナクサの思慮深い漆黒の瞳に「聞かせてくれぬか?」とは問い掛けず、「そうか」とだけ応じて、ジョウシは最後の点検を行っているファニュに視線を移すと、軽く息を吸い込み、決意したように口を開いた。
「実は我れにも秘め事があってな」
「秘め事?」突然の話題転換に興味を惹かれたナナクサが聞き返した。
「聞きたいかえ?」
「差し支えがなければ」
「何を隠そう、我れは今年で百二十二歳に相成る」
「百二十二?」
「左様。そなたたちより我れは年上じゃ」ジョウシは自分の言葉がナナクサに染み通る頃合を図って語を継いだ。「一見した通り、我れは身体も小さく体力も無かったのでな。先回のデイ・ウォークに単独で出立(しゅったつ)することを母上に強う止められ、今回に持ち越すことを余儀なくされたのじゃ。もっとも先回も今回も体力的には変わりはなかったと思うがな。じゃが、そなたらと同道できて心底良かったと思うておる」
 ナナクサの瞳は「失うものが大きかったのに」と、無言で問い掛けていた。だが、ジョウシの顔には、いつものような気負いや取り澄ました表情は一切なかった。あるのは優しげで、どこか寂しげな若い娘のそれだけだった。
「この旅では失うものが大きかったが、それ以上に得るものも多かった……などとは決して言わぬ。いや、言えぬ。されど、自分を見つめ直す良いきっかけにはなった。今はそれで十分じゃ」
「『見つめ直す』ですって」ナナクサが怪訝そうに眉を寄せた。「それは違うわ。あなたほど自分自身をよく知っている人はいないと思うわ」
「いいや、違わぬよ。買いかぶり過ぎじゃ。(おさ)の娘である窮屈さ。体力の心配。成人年齢を超えておるにも関わらずデイ・ウォークに参加できなかった恥ずかしさ。それに負けず嫌いの可愛げの無さ。我れはそのどれ一つとて満足に克服できぬ未熟者ぞ。じゃが、ここにきて自身の限界を十二分に思い知ることができた。今は“小さき自分”のままで良いのではないかとさえ思える。無理に背伸びをせぬ自分自身でな」ジョウシは大きく溜息をついて目を伏せた。「それゆえ、今の我れでは、とてもではないが無理じゃ。政府(チャーチ)に迫り、その秘め事が明らかになったとて、それを抱え切れるのか。抱えきれたとて、もし再び始祖(しそ)の力が呼び覚まされて自身を失ったとき、その恐ろしさに耐え得るのか。すまぬ、まるで逃げのようじゃな……」
 ジョウシは大切なものを失うことで自分の矮小さを再確認できたのだ。自分を省みることができる勇気ある仲間だ。ナナクサは彼女を誇りに思った。今度は自分が彼女に話す番だ。
「あの闘いの最中、頭の中に声が聞こえたわ。誰の声だったかはわからない。幻聴……いいえ、もしかしたら私自身の内なる声だったのかも。『それで良いのだ』ってね」
 ジョウシは初めて聞くナナクサの告白に顔を上げたが何も言わず、仲間の次の言葉を待った。
「狂いそうになりながらも、声の正体を探ろうとしたけどわからなかった。心と身体の自由がだんだんと効かなくなってくるのがわかったわ。でも、それ以上に、なぜ、あの時、辛うじて正気を保てたのかがわからなかったの。いち早く人間の血の影響に気付いたから。いいえ、たぶん違うわ」
「意志の力。そなたが言うておった、意志の力じゃな」
「それだけではないように思うの」
「『それだけではない』とな?」
「だから、もっと何か別の。何か理解できないものよ。私にはわからない……」
 ジョウシは説明に窮するナナクサの瞳を見つめ、わかったと頷いた。
「探求せよ。それが、今のそなたの望みであれば」
 ナナクサも大人びた顔に戻った仲間に頷いてみせた。
「えぇ、そうするわ」
「では、もう行くが良い。“始祖(しそ)様の加護を”などとは、今さら言えぬがな」
 冗談めかしたジョウシの別れの言葉にナナクサも苦笑した。
「それは、わたしも同じよ。気を付けてね」
 二人は右手を左胸に添えて互いに軽く頭を垂れ、一族の挨拶(サルート)を済ませると踵を返した。
 馭者台にジョウシが乗り込み、タンゴが手綱を打つと、橇を引く雪走り烏賊(スノー・スクィード)たちはゆっくりと動き出した。袂を分かったナナクサとファニュに、タンゴが寂しそうに片手を上げると、彼女らも、それに倣った。タンゴの首にはファニュから贈られた御守りが揺れていた。それは未だ信仰心が篤い人間の間に伝わる、神との絆を顕すといわれている“十字架”と呼ばれるものだった。
               *
 その存在は、これで邪魔なものを(こそ)げ落とせたと満足していた。あの時、子孫と人間の闘いを眺めながら、自分もそこに乱入して思う存分暴れ回りたいという本能を抑え付けた甲斐があったのだ。彼らの分裂は、また良い前兆でもあった。初めは一人一人排除してゆくつもりだったが、その手間も省けた。それが、あの子孫の娘一人を(あや)めただけで成し遂げられようとは何という幸運だろうか。些細な失態などものの数ではない。その存在は、子孫の若者たちを監視しながら、ゆらゆらとほくそ笑んだ。
               *
 その存在が、ひと握りの黒煙と合流して子孫たちの元に再びやって来たとき、既に戦闘は始まっていた。好機だった。夜の闇に溶け込んだその存在は、子孫の動きを観察した結果、たとえ戦闘用に造られ、訓練されていようとも、相手が人間である以上、彼らは決してそれに遅れはとらないと確信していた。そして闘いの中での彼らの先祖返りを期待した。しかし失敗は、その先祖返りを()れたために、つい語り掛けてしまったことで裏目に出てしまったのだ。その存在は、自分の声に抗う力が“あの子孫”に残っていようなどと微塵も考えなかった。迂闊だった。だから自分の試みが挫折した瞬間、咄嗟に計画を振り出しに戻し、闘いのどさくさに紛れることを思いついた。そして自分とは対極に位置する心根を持つ一人の子孫を先ず選んだのだ。
 その闘い慣れした娘の思考は単純だった。健気で純粋でもあった。だからこそ、その心を黒く覆ってやっただけで混乱し、人間どもの良い標的となった。だが、二本の毒を塗り込んだ銛でも即滅(そくめつ)しなかったので、御力水(おちからみず)での蘇生を邪魔してやったのだ。生命力に富む若々しい命の柱。荘厳さ漂う大理石のように堅固なその命を、まるでマッチ棒のようにぽきりと手折(たお)ってやることにしたのだ。
 目の前で彼らは仲間に別れを告げて離れてゆく。予想以上の出来だ。あとは行動を共にする人間の生娘を歯牙にかけた後、あの子孫にじっくりと本懐を遂げることにしようか。いや待て。焦りは禁物だ。最後の詰めを誤るのは二度と御免だ。その存在は頭を巡らせ、もっと面白いことを思いついた。上手く事が運べば、大地が氷河に覆われる前から頭を悩ませていた“あの問題”も綺麗に片付くかもしれない。
 黒煙は玩具を持った幼子がスキップをするように大気の中を弾むと闇に掻き消えた。
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登場人物紹介

ナナクサ

キサラ村出身の薬師見習い。まじめで思慮深い。全てを手にするといわれる“瞳の中に星を飼う”娘。デイ・ウォークを通して、運命に翻弄されながらも大きく成長してゆく。

ジンジツ

ミナヅ村出身の方違へ師見習い。直情径行な性格でリーダーを自称している青年だが、性格には裏表がない。デイ・ウォーク後は、政府の飛行船乗組員になりたいという夢を持っている。

チョウヨウ

ミナヅ村出身の石工見習い。デイ・ウォークの途中で命を落とした姉のボウシュが成し遂げられなかった過酷な成人の儀式を必ず成功させようと意気込む努力家の娘。大柄で口は悪いが他意はない。

タンゴ

キサラ村出身の史書師見習い。大食いで気のいい大柄な青年。旅の初めは頼りなげな彼も、デイ・ウォークの中で大きな選択に迫られてゆく。

ミソカ

キサラ村出身の方違へ師見習い。小柄で身体が弱く、物静かな性格の娘。仲間に後れを取らないように懸命にデイ・ウォークに挑戦してゆく。

タナバタ

ヤヨ村出身の薬師見習い。理知的で柔らかい物腰の青年。スマートで仲間の中では頭脳派。

ジョウシ

ヤヨ村出身。村長の娘。生意気だが洞察力があり、決断力にも富んでいる。

シェ・ファニュ

人工子宮生まれの14歳。ナナクサたちと知り合ったことで前向きに生きていこうとする聡明な人間の少女。規格外品扱いで城砦都市から追放同然で隊商に下げ渡された過去を持つ。

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