第29話 激しい反発

文字数 4,781文字

「これで死んでしまうのかな」という思いも、頭をもたげ続けることすら難しくなった衰弱の中では、ほんの些細なことかもしれなかった。力を失ったナナクサの身体は、既にそこまで彼女の心を蝕んでいた。そんなナナクサは鼻につく、つんとした刺激臭を微かに感じたような気がして、震える瞼を微かに開いた。彼女の目の前には幻があった。折り重なるように床に(たお)れた六人の戦士。その身体の下に広がる血溜まり。その血溜まりから出現したように(たたず)む黒い人影。ナナクサを見下ろす、その黒い人影はおもむろに口を開いた。いや開いたように感じた。声がナナクサの頭の芯をノックした、()みとおるような低くて静かな、それでいて全てを委ねたくなるような声の響きが。
「長らく待たせたな」
 誰かがいるのは現実なのだろうか。しかしナナクサの瞳は震える瞼の中から黒い影をうつろに眺めているだけだった。いや、眺めるというより、上下左右に激しくぶれるカメラの焦点を必死に被写体に合わせようとする作業に近かった。
「誰?……」と、苦しい息の中からナナクサは幻かもしれないものに、やっと小さな声をかけた。その瞬間、幻が動いたように見えた。首と四肢を拘束する磔刑台の銀の呪縛が一斉に解けて身体が自由になった。前のめりにくずおれる力を失った身体を力強い両腕が抱え上げた。だがその腕は、さっきの声のように、彼女に身を委ねるに足る安堵をもたらす以上に、言い知れない不安を掻きたてる何かを感じさせた。
「誰なの?……」
 再度の呼び掛けにも応えなかった影が、ナナクサの瞳に漆黒の装束に身を包んだ、ほっそりした紳士の姿に像を結び始めた。誰かがいることが確信に変わった。
「さあ」静かで低い声とともに鼻を突く刺激臭がナナクサの頭に降り注いだ。「ほんのひと(すす)り。いや、ひと舐めでよいから口にしなさい」
「口に……何を?……」
 この刺激臭は、やはり……。聞かなくても、わかっていることをナナクサは敢えて口にした。それは、もし間違っていてくれたらという淡い期待から出た言葉にすぎない。だが期待は往々にして裏切られる。特にそれが淡いものならなおさらだ。
「これは、これは」
 楽しげな声は、その凍った吐息に刺激臭をまとわせた。もちろんナナクサの問いに応える気などないらしい。根負けしたように彼女は自分が思う答えを吐き出した。
「人間の血ね……」
「わかっているなら、すぐ口にしなさい。それだけ早く活力も戻るのだから。ほら、早くしないと、せっかく(たお)した人間どもの血が寒さで固まってしまう。味も落ちてしまうよ」
 銀の苦しみから解き放たれた時からヴァンパイアの治癒力はナナクサの身体と意識の回復にフル活動を開始していたが、意識に比べて身体の自由はまだきかなかった。彼女は紳士の腕の中で、思うようにならない身体を強張(こわば)らせた。それは子供をあやすように悪へと誘う声に対して、彼女が今できる最大の意思表示でもあった。
「なぜ、ここまできて抗うのだ?」
「あなたは、誰?」
 ナナクサは、また誰何(すいか)した。しかし聞かなくても、これもわかっていた。正確には彼女の本能が、既に目の前の存在に激しく反応し、自分と血の深い部分で強い繋がりがある存在だと告げていたのだ。この悪へと誘う声が私の……遠く幻であったはずの、私たちの始祖。ナナクサはその声が頭に染み透れば透るほど、父母に抱かれた幼き日の安堵と満足にも似た感情に支配されていくのを感じ、そんな自分自身に恐怖さえ覚えた。全てを包み込んでもらえる安心感。それゆえに、その存在に自分というものが溶かされ、吸収されつくしてしまうのではないかという恐ろしさ。始祖は、そんなナナクサの考えを読み取ったかのように、そうだと頷くと、魅力的だが、ぞっとする微笑を彼女に向けた。ナナクサは抗うように、その赤い目をひたと見据えた。
「わたしは御免だわ」ナナクサは未だ浅くて荒い息を必死に整えた。「耐えられないから……」
「何にだね。血を飲むことかね、それとも()れのことかな?」
「悪に染まること」
「悪……これは、これは。では、一つ質問をさせてくれるか。何をもって、お前は悪と言うのだね?」
「命を奪うこと」ナナクサは戦士たちの死体に目を泳がせた。「それは一族の道に反してる」
「お前は、それが“悪”だと?」
 ナナクサは力なく頷いた。
「だが、それが我れらヴァンパイアの習性。運命づけられた定めだ」
「違う。わたしたちヴァンパイアは他の生き物の命に依存せず、静かに平和に暮らしてきたの。それは変わらない。過去も、これから未来も、ずっと」
「命を奪わぬ者など、この地上に一人たりとも()りはせんのだ」
「いいえ、わたしたち一族がそうよ。わたしたちは、そんなことはしてこなかった」
「お前は真のヴァンパイアを知らぬようだ。我れらは古来より人間どもに蔑まれ、忌み嫌われ、そして恐れられてきた存在。そして奪う者なのだ」
「わたしたちは奪わない」
「少なくとも、我れは違う」
 始祖はナナクサの言葉を遮った。そして戦士たちの死体を眺め渡すと、なおも諭すように語り続けた。その染み透る声はいかにも静かで自信に満ちていた。しかし、その古風な言い回しは、落ち着きと信頼をもたらすジョウシのそれとは違い、より一層の禍々しさをナナクサに植え付けた。
「我れも、この人間どもも食べるために命を奪う。未来永劫、それに変わりはない。しかし、こ奴らは食べもせんのに他の命を奪うことがある。お前は信じられぬであろうがな。さて、お前は、この事実をどう思う?」
「悪よ。わかりきった事を聞かないで」
「そうか。わかっておるか」始祖は面白そうに口の端を上げた。「ならば、お前自身はどうなのだ。お前と仲間は、ここへ来る前に多くの人間どもを(あや)めた。食いもせんのに(あや)めたのではなかったか?」
「それは」お前も(あや)めたという言葉に虚を突かれたナナクサは言いよどんだ。「仕方がなかったのよ。でも命を奪うことが目的じゃない。あれは身を守るために必要だった」
「ほう。『身を守る』か。これは、これは」始祖の口角が再び上がった。「身を守るためなら仕方はないのか。では、もう一つ聞こう。こ奴ら人間どもは仲間同士ですら楽しみのために殺しあう。確か、あの折はお前も楽しんでいたろう。身を守るために仕方なくすることになっても、それを楽しんでしまうのは、どう説明するのだ?」
「楽しんでないわ」
「果たして、本当にそうだったかな。自分自身に聞いてみるがいい」
「馬鹿なこと言わないで。何が言いたいの?!」
「誰に習わずとも殺し方は身体に宿った狩人(かりゅうど)の血が教えてくれるということだ。そして、それが芸術的であればあるほど、楽しく、身体は喜びにうち震える。お前は命を奪うことを、あのとき楽しんだのだ。戦士の大集団に対峙したとき、心の底から楽しんだのだ」
「わたしは楽しんでない。狩人(かりゅうど)なんかでもない……」
 ナナクサは初めて聞く狩人(かりゅうど)という単語が意味するところを本能で知っている自分自身に驚きながらも、そんな自分を嫌悪した。
「あのときの高揚感を思い出すのだ、我が子孫よ」
「やめて!」
「思い出すのだ、獲物を切り伏せた時の快感を。血煙の中を走り抜ける喜びを。身体の隅々まで、細胞の一片に至るまで稲妻のように広がり渡った充実感を。お前は奪う者。まぎれもない狩人(かりゅうど)。それが本来のお前自身なのだ」
 ナナクサは(ひる)んだ。そして目の前の始祖の言葉に心底恐れおののいた。ナナクサはぎゅっと両目をつむって、悪鬼のようになった自分や仲間たちの姿を頭から懸命に追い払おうとした。しかし目の前にいる始祖の声は彼女の血の中に眠るの記憶をなおも執拗に掘り起こしてくる。ナナクサは何かにすがりつくように必死に抗った。抗った先には微かな違和感しかなかった。それは自分というものが崩れ去ってしまうことに対する違和感だろうか。それとも自分が目の前の始祖と同じく、本当は悪の化身であると信じ始めていることに対する嫌悪感を伴ったそれだろうか。
「お前は狩人(かりゅうど)。ヴァンパイアは狩人(かりゅうど)なのだ」
「わたしは、あなたとは違う!」
「同じだ」
「わたしは楽しみで命を奪ったりしない。そんなことをすれば自分が破滅する!」
「破滅などせん」
「仲間は……親友のミソカやタナバタは破滅した!」
「あ奴らの心は弱かったのだ」
「違う。一族の掟を破り、悪に染まったからよ。彼らは最後に、それ気付いた!」
「愚かな掟だ。まるで人間のようだ。汚らわしいこと、この上もない。さぁ、早く目を覚ますのだ」
「いやよ!」
「我が子孫よ」
「絶対に、いや!」
 議論は終わりだといわんばかりに、それから長い沈黙がその場を支配した。始祖は力が抜けたナナクサの身体を床の上にそっと横たえた。そして粘度を増して固まりかけた戦士の血を二本の指でバターのようにたっぷりすくい取ると、その匂いを嗅いだ。そして微笑むと、その指を横たわったナナクサの口に持っていった。ナナクサは固まりかけた血から未だに漂う微かな刺激臭に顔をしかめた。そして目の前にある指先の血と始祖の顔を交互に見渡した。しかし、その目にはある決意があった。
「さあ」と、始祖。
「あなたは」ナナクサは始祖の手首を力の限り、ぎゅっと握った。「あなたは」と、もう一度、同じ言葉を繰り返した。「私たちが人間たちと闘ったことを、どうして知ってるの?」
「何をしている」始祖の声に少なからぬ動揺と怒りが入り混じった「手を放して、早くこの血を」
「なぜ、あの時のわたしたちの気持ちまで。それに死んだ仲間の心が折れたことまで知ってるの?」
「お前たちの心の内など容易に推測できる」
「いいえ違うわ」
 身体が回復しつつあるナナクサは人間なら骨が砕けるほどの力を手に込めた。指からは怒りで鋭く尖った爪が伸び、始祖の手首に深く食い込んで、どす黒い血をそこから()みださせた。ナナクサの目に再び小さな火が瞬いた。薬師(くすし)として生きてきた論理に富む英知の火だ。
「あなたは、あそこに居たわね」ナナクサは決めつけ、始祖の沈黙の中に肯定を読み取ると語気を強めた。「あなたは、間違いなくあそこにいた。そして、仲間を、親友を操って破滅させた」
「操ってなどおらぬ」
「そう。じゃぁ、あなたはあそこで何をしてたの?」
「手を放しなさい、いい娘だから」
「当ててみましょうか。あなたは私たちが暴走して戦士たちの命を奪うのを見て楽しんでたのよ。楽しんでたのは、私たちじゃない。あなた自身よ。どう、図星でしょ」
「もし」始祖は空いた方の手でナナクサの手首をねじると、いとも簡単に自分の手からもぎ離した。「そうだとしたら、どうだと言うのかね?」
「これからは、もうそんなことはないわ。いいえ、絶対にさせない」
「ヴァンパイアの定めを受け入れよ。我れを受け入れるのだ」
「いやよ。わたしたちは、あなたとは違う掟に生きるヴァンパイアだから」
 遠くの方で爆発音が轟いた。その方角に頭を巡らせた始祖は不気味に顔を歪めると、ナナクサに向き直った。
「お前は本当に聞き分けがない。世界が完全に凍りつく前からそうだった。だが、まぁいい。お前が決めやすいように、先ずは、あそこにいる仲間をことごとく、こちら側に引き入れてやろう」
 指に付けた戦士の血を素早く舐めとった始祖は、そう言うと瞬時に黒煙と化して空気に溶け込み、ナナクサの前から消え失せた。
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登場人物紹介

ナナクサ

キサラ村出身の薬師見習い。まじめで思慮深い。全てを手にするといわれる“瞳の中に星を飼う”娘。デイ・ウォークを通して、運命に翻弄されながらも大きく成長してゆく。

ジンジツ

ミナヅ村出身の方違へ師見習い。直情径行な性格でリーダーを自称している青年だが、性格には裏表がない。デイ・ウォーク後は、政府の飛行船乗組員になりたいという夢を持っている。

チョウヨウ

ミナヅ村出身の石工見習い。デイ・ウォークの途中で命を落とした姉のボウシュが成し遂げられなかった過酷な成人の儀式を必ず成功させようと意気込む努力家の娘。大柄で口は悪いが他意はない。

タンゴ

キサラ村出身の史書師見習い。大食いで気のいい大柄な青年。旅の初めは頼りなげな彼も、デイ・ウォークの中で大きな選択に迫られてゆく。

ミソカ

キサラ村出身の方違へ師見習い。小柄で身体が弱く、物静かな性格の娘。仲間に後れを取らないように懸命にデイ・ウォークに挑戦してゆく。

タナバタ

ヤヨ村出身の薬師見習い。理知的で柔らかい物腰の青年。スマートで仲間の中では頭脳派。

ジョウシ

ヤヨ村出身。村長の娘。生意気だが洞察力があり、決断力にも富んでいる。

シェ・ファニュ

人工子宮生まれの14歳。ナナクサたちと知り合ったことで前向きに生きていこうとする聡明な人間の少女。規格外品扱いで城砦都市から追放同然で隊商に下げ渡された過去を持つ。

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