第9話 始祖

文字数 3,997文字

 その存在は自分が何者であるのか、生まれ落ちたその時から十分に熟知していた。だが古来より人間は、その存在が長く器としてきた外見に対して貴族の称号や魔人の蔑称を付して呼び習わすことが多かった。畏敬や恐怖には形や名を与える方が自分たちに理解しやすいと考えてのことだろう。なるほど人間らしい浅はかな知恵だが理にはかなっている。その存在は、その都度、自分に付された名称を楽しみ、人間のその性癖を嘲笑ったものだった。
 壮年男性の姿を借りたその存在は、いま冬眠(ロング・スリープ)から完全に目覚めようとしていた。冬眠とはいっても、たかだか五百年余り。しかしこの地を這いずり回る人間どもには、決して短い月日ではない。おそらくその間に人間は台所のシンクやバスタブの裏に巣くうカビのようにしぶとく、しかも無造作に繁殖し続けていることだろう。たとえ文明が崩壊し、世界が雪と氷に閉ざされたものとなっていようと。
 その存在……いや、彼はひんやりとした御影石の棺の中で細身の長身を伸ばし、四肢の隅々にまで感覚が戻るのを待ちながら暗闇の中で人間と同じように目をしばたたいた。またほんの少しばかり世界を掃除してやらねばなるまい。だが、いつも通り一掃もするまい。なぜならカビから出来るペニシリンが愚かな人間どもの病苦を治癒してきたのと同じように、人類から採れる赤い生命の流れが、未来永劫に己の渇きを癒してくれるのだから。
 分厚く透明な強化セラミックの天窓から陽の光が差し込む崩れた摩天楼の部屋の中。御影石の棺の中に横たわった彼の琴線に、そのとき微かに触れるものがあった。おやっ、と彼は思った。この感覚は久しく訪れ得なかったものだ。彼は棺の中で、微かに触れるその揺らぎに心の手を伸ばし、難なくそれを掴みとり、そして味わった。
 妬み……背信……蔑み……快楽に貪欲。それに自棄……。
 あぁ面白い。実に良いではないか。目覚めた彼の感覚は早くも自身にそう告げていた。彼の目覚めと同調するように事を起こす者が出始めようとは。ブラム氷期が世界を覆い尽くして二千五百年余り。変化が乏しく、刺激が枯渇しかかったこの白銀の世もまんざら捨てたものではない。だが先ずは食事だ。一刻も早く狂おしいばかりの渇きを潤さねば。
 彼は二トンを優に超える御影石の棺の蓋を片手で難なく横に滑らせると優雅な身のこなしでフロアに両足を下ろした。御影石は彼の体の冷たさに、下ろされた足の先から霜で白く変色していった。
 彼は壁全体を覆うアクリルガラスに近寄ると凍てついた右手をかざし、真っ黒な瞳に差し込む薄暮の陽を忌々しそうに遮った。やがて、そこから一歩下がると両手を大きく開き、深く息を吸い込んで自分の体を黒煙に変えた。粒子が荒く、まるで蠅の群れのように見えるそれは花崗岩でできた分厚く隙間のないドアにへばりつくと、そこから外へと染み出し、拡散して、たちまち見えなくなった。あとには主の外出を見送る雪と氷をまとった、かつては高層建築群とよばれた幾何学的な瓦礫の城だけが残っていた
               *
 ミソカに介抱され、意識を取り戻したナナクサは仲間の一人が永遠に失われたことを知った。触腕に抉られた太腿の傷と痛みは半時間もしないうちに完治するだろう。しかし何もできなかった罪悪感。そして喪失感からくる痛みは、この先ずっと付いて回るに違いない。
「準備はできたかい、ナナクサ?」と、タナバタの抑揚のない呼びかけが彼女の耳を撫でた。
「えぇ」と力なく応えたナナクサが見ると、タナバタは頭に滲んで凍りついた自身の血を叩き落とし、武器になった金属棒を杖代わりに抱えなおすところだった。
「さぁ、行くぞ」
 愛した男が(のこ)していった遮光マフラーを首に巻いたジョウシの声が淡々と流れた。ナナクサは先程のタナバタの時とは違った「えぇ」という生返事を返して、彼女の横顔を盗み見た。無表情でいるだけに、かえって泣き喚きそうなほどの張りつめた傷心がビンビンと伝わってくる。
「急ご。タンゴが待ってるよ」と、小柄なミソカが身体に未だ力が入らない様子のナナクサに肩を貸した。そして彼女の脇に手を回し、立ち上がらせると先を促した。
「そうね、タンゴが待ってるわね」
 ナナクサはそう応じながら、タンゴのことをすっかり忘れていた自分に驚くと同時にミソカの手から伝わる力強さに、言いようのない不安を感じた。
「どうしたの?」とナナクサに歩調を合わせながらミソカが口を開いた。
「いえ、何でもないわ」
「痛むの、まだ?」
「うん。まだ少しだけね」
 嘘だった。身体の痛みなどほとんど癒えていた。そんなナナクサにミソカが再び問いかけた。
「幼馴染みに隠し事はなしだよ」
「ちょっと……」ナナクサは言いよどんだ。
 私やタンゴ。助ける側の人間が身体の強くないあなたに助けられるなんて、という皮肉がふと頭をよぎったが、ナナクサはその考えをすぐさま振り払った。あまりに不遜すぎる。いったい自分は何様なのだ。心の中で親友を軽んじたために起こった小さな後悔は、次にジンジツに対する受け止めがたい自責の念に移り変わった。チョウヨウから『瞳の中に星を飼う者』と言われて自分は特別だとでも思い込んでいたのだろうか。自分が決断した計画はすべてうまくいくとでも。それとも真面目に生きてきた自分の思いを始祖さまが無視するわけはないと高をくくってでもいたのだろうか。愚かすぎる。あまりにも馬鹿すぎる。親友や皆の顔がまともに見られない。でも言い訳を聞いてほしいという、弱い自分を抑えられない心も確かにそこに存在した。
「自分がね……」
 ナナクサの言葉に何も言わず、ミソカは静かに耳を傾けている。
「自分があまりにも情けなかっただけよ」
 ナナクサの脇に回ったミソカの手にぎゅっと力が入った。
「あなたのせいじゃないよ」
「わかってる」俯いたナナクサの眉間に皺が寄った。「いえ、わかっているつもりよ。けどね……」
「誰のせいでもない」ミソカの小さな人差し指がナナクサの唇を遮った。「いい。誰のせいでもないよ。だから急ご。でないと犠牲が無駄になる」
 犠牲という、ミソカの不容易な一言に、彼女らのすぐ前を歩きすぎたジョウシの身体が雷に打たれたように一瞬、強張った。そして立ち止まると、おもむろに後ろを振り返った。その視線はナナクサを通り越してミソカに注がれた。冷たい視線がジョウシとミソカの間に交錯した。
「おい」
 割って入ったタナバタの一声は、この場でさっきのような言い合いはもう御免だぞと告げていた。またそれは「死んだジンジツは仲間同士の争いを決して好まないぞ」という二人に対する毅然とした戒告をも意味していた。
 ジョウシとミソカの間に交錯した視線は、すぐに無機的なものへと変わった。
「そうじゃな」自分に言い聞かせるようなジョウシの声が三人に向けられた。「そんなことをしておる場合ではないな。早く戻ろう」
 一行はそれぞれが背負った重荷を早く降ろしたくてたまらないように、彼らを待つ仲間の所へ先を急いだ。
               *
 シェ・ファニュはその黒煙を見た時、雪嵐で、はぐれた隊商がキャンプを張っているのかと浮かれそうになった。しかし近づくにつれ、それが昨日見た空を横切る黒煙ではなく、化物どもの飛行船の残骸から出ているものだと確認して震え上がった。こんな時、兄のように慕っていたエブラハム・Hがいてくれたら、どんなにか心強いことか。しかし彼は一ヶ月前に立ち寄った町で、運悪く戦士の徴用隊に出くわし、第一指導者(ヘル・シング)の所へ連れて行かれていた。彼女は不安を追い払おうと、別れ際にエイブからもらった御守りの首飾りを無意識に握り締めた。
 それから二時間余り、ファニュは凍りついたように待った。しかし残骸の中に何の動きも見出せないとわかると、恐怖と驚きは思春期を迎える少女の中に抑えがたい好奇心を芽吹かさずにはおかなかった。だが彼女は軽はずみな行動には移らなかった。幼い頃から仕込まれたとおり、真昼の太陽が雪の大地を余すところなく照らし出す今の時間でも、用心深く雪の上に腹這いになって辛抱強く観察をし続けた。
 彼女が隠れた小高い氷塊からは墜落現場がよく見渡せた。飛行船は完全に破壊されており、まだ所々で火が燻り、黒煙を噴き上げていた。化物は太陽が昇っている間は活動できないとはいうものの十分に注意する必要がある。注意を怠ったが最後、化物の餌食になった話は何度となく聞かされてはいたし、その証拠に、ファニュの隊商でも立ち寄った町で戦士に緊急徴用され、一片の報告すらないまま、遂に還ってこなかった若い商人も何人かいたからだ。
 ファニュは残骸周辺で何も動きがないことを再度確認すると、意を決して瓦礫の山へ向かった。そこに到着すると、その巨大さに圧倒された彼女は手袋に包まれた小さな手で槍をぎゅっと握りしめた。残骸の周りを抜かりなく一周したファニュは、安全を確認してもと来たところに戻った頃には適度な空腹感に襲われていた。幸いなことに未だに火が燻り続ける残骸もあり、その近くは暖かかった。また誰の仕業かわからないが、ダイオウイカの大きな触腕が千切り取られたまま食われずに放置されているのも見つけることができた。とにかく食事と暖を取り、少しは身体を休めることができそうだ。隊商探しはその後で考えよう。隊商は徴用されたエイブの他は嫌な人間ばかりだが、今の彼女にとって、その集団が、唯一身を寄せることができる家だった。ファニュは雪の上に胡坐(あぐら)をかくと大きな外套に付いたフードを頭の後ろに払いのけた。中からは長い赤毛とそばかすで彩られた十三歳の少女の顔が現れた。
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登場人物紹介

ナナクサ

キサラ村出身の薬師見習い。まじめで思慮深い。全てを手にするといわれる“瞳の中に星を飼う”娘。デイ・ウォークを通して、運命に翻弄されながらも大きく成長してゆく。

ジンジツ

ミナヅ村出身の方違へ師見習い。直情径行な性格でリーダーを自称している青年だが、性格には裏表がない。デイ・ウォーク後は、政府の飛行船乗組員になりたいという夢を持っている。

チョウヨウ

ミナヅ村出身の石工見習い。デイ・ウォークの途中で命を落とした姉のボウシュが成し遂げられなかった過酷な成人の儀式を必ず成功させようと意気込む努力家の娘。大柄で口は悪いが他意はない。

タンゴ

キサラ村出身の史書師見習い。大食いで気のいい大柄な青年。旅の初めは頼りなげな彼も、デイ・ウォークの中で大きな選択に迫られてゆく。

ミソカ

キサラ村出身の方違へ師見習い。小柄で身体が弱く、物静かな性格の娘。仲間に後れを取らないように懸命にデイ・ウォークに挑戦してゆく。

タナバタ

ヤヨ村出身の薬師見習い。理知的で柔らかい物腰の青年。スマートで仲間の中では頭脳派。

ジョウシ

ヤヨ村出身。村長の娘。生意気だが洞察力があり、決断力にも富んでいる。

シェ・ファニュ

人工子宮生まれの14歳。ナナクサたちと知り合ったことで前向きに生きていこうとする聡明な人間の少女。規格外品扱いで城砦都市から追放同然で隊商に下げ渡された過去を持つ。

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