第4話 殉教と白銀と
文字数 5,664文字
そうだ。俺は
彼は満足気に引き攣った笑みを浮かべると、曲がった背中を伸ばし、敵地に潜り込むために払ったとてつもない苦労の数々を思い出した。戦士たちの護衛があったとはいえ、禁断の地である化け物どもの村落に達するまで十カ月もの長い時間を要した。途中、雪崩や事故で多くの護衛戦士を失ったが、今となっては、それも十分報われる。そして化け物どもの巨大な飛行船がやって来るまで息を潜めて、さらに二ヵ月待った。やっと現れた飛行船からの配給で奴らの気が緩むまで、それから、また一日。化け物どもが疲れから寝静まる夜明けを待って行動を起こすのに、また半日。羨ましそうに見送る護衛戦士たちに別れの挨拶をして、やっと潜りこんだ巨大飛行船。その機関室は窓もなく、昼か夜かの区別すらつかない。化け物どもの声が微かにでも聞こえてこないのは、奴らが寝静まっている昼間だからだろう。だが自分の時間感覚を過信してはならない。
彼は身を潜めていた区画から頭を出して注意深く周りを見回した。見回すと再び身を潜め、ほっと息ついた。彼がいるボイラーの裏側は非常に暑く、熱に弱い奴らは夜でも滅多に見回りにも来ない。エンジンの騒音の中、彼は
もうすぐだ。この時計の数字がすべて零を示した瞬間がその時だ。そのための準備は既にできている。これからは物も食わず、僅かな排泄すらも我慢するのだ。
「時よ、早く来い」
彼はそう呟くと体に巻き付けた化け物への贈り物から伸びたコードの先にある古びた液晶画面を愛しそうに撫でた。その手の甲には自分で彫った勇気と魔除けの不格好な十字架の模様が刻まれていた。
*
日暮れから夜明けまで七人のパーティは雪と氷の中を延々と移動し続けた。小高い山を越え、深いクレバスを渡って歩み続けた。時には氷を踏み抜き、深淵に身を落とす者もいたが、途中で何とか氷壁にしがみついて這い上がり、助け合いながら、ひたすら前進し続けた。吹きすさぶ疾風ほどの速さは出ないにしても、パーティは大地を吹き渡る風に負けないくらいの速度で、来る日も来る日も、ただひたすらに移動した。だが、それでも一晩で三十キロも進めればいいほうだろう。いずれ慣れてくれば睡眠時間すら削り、完全遮光で昼間の――曇りや雪嵐で陽の光がなければどんなにありがたいことか――移動も視野に入れなくてはならなくなる。
当初は軽口をたたきあいながら元気に移動していた一行だったが、時折襲いくるアクシデントを除き、何の変哲もない真っ白な世界を歩き続けるだけの行程は彼らから体力と気力をみるみる削り取っていった。
そんな中、パーティの男子たちは、空に厚くて大きな雲があろうものなら、夕方前にこっそり早起きして危険な
*
「そう言えば、最近は
日暮れから、そう時間が経たないうちから、チョウヨウが仲間に無駄口をたたくのは珍しい。
「どうなんだい、タンゴ?」
「な…何だよ、唐突に……」と、チョウヨウに虚を突かれたタンゴが、どぎまぎして応じた。
「先週、誰かさんは怪我をしてたみたいだからな」
言われたタンゴは無意識に右手で包帯が巻かれた左手の甲をさすった。
「僕は、そんなドジじゃないよ。あれは
「ほぅら、やっぱり」と、ミソカが顔をタンゴに向ける。
「だって霧氷が崩れて陽がさし込むなんて思わなかったから……」
曇の日中を利用して軽装で行われる
「馬鹿じゃねぇのか」
「もういいだろ」タナバタが我慢しきれず、チョウヨウに言葉を投げつけた。「今日はやけに突っかかるんだな、君は」
「突っかかるなんて、とんでもない。あたいたちは、あんたら馬鹿な男どもの心配をしてるだけ」
「『あたいたち』って、ナナクサとミソカも、そう思うのかい?」と、タンゴ。
「僕は『馬鹿な男ども』というのが引っ掛かるな」今度はタナバタが意味ありげな視線を隣で歩を進める
「賢いはずの、あんたまでが皆を止めずに馬鹿なことを、いつまでもやってるなんてねぇ。そうだろ、ナナクサ」
「わたしは、ただ……」と、口を開いたナナクサが言葉を継ぐ前に、溜息混じりのタナバタの声がチョウヨウに向けられた。
「嫌味かい?」
「ただの嫌味なら良いんだけどね」と、チョウヨウの挑発は続いた。
「ふん。生憎、僕はタンゴやジンジツの保護者じゃないんでね」
タナバタがむっとして応じると、チョウヨウの声が更に大きくなった。
「あぁ、確かにな。ガキじゃ、保護者は無理だわな。せめて、ここに本当のリーダーでもいりゃぁなぁ!」
「何だ。リーダーがどうかしたか?!」
星を見ながら、遥か先を先行していたジンジツが、その言葉を耳にして大声で応じた。
「あんたは馬鹿みたいに、よく働くって言ったんだよ!」
チョウヨウの即答に、片手を振って白い歯を見せるとジンジツは自分の仕事に戻った。束の間の沈黙の後、今度はミソカが消え入るような声で話し出した。
「やっぱり、みんな危険なことは、しちゃいけないよ。デイ・ウォークはただでさえ危険なんだから」
「じゃが」と、ジョウシがはじめて口を開いた。「我ら一族の生涯に危険は付きものぞ、ミソカ」
「だからって、冒さなくてもいい危険を冒す必要があんのか?」と、詰問口調のチョウヨウ。
「それは、その通りじゃが……」
「だったら男どもを庇うなよ、チビ助」
「庇うてなどはおらぬ。じゃが、たまに息抜きも必要であろう。我ら女も男どもとは違った形で息抜きはしておることじゃ」ジョウシがチョウヨウをキッと見据えた。「それにしてもじゃ、チョウヨウ」
「何だよ?」
「我慢してやってはおったが、我に対する『チビ助』との、お前の日々の物言い。やはり気に入らぬぞ」
「我慢してもらってたなんて、そりゃ、悪かったな」
チョウヨウが更にジョウシを挑発しようとするのを直感したナナクサは、再び彼女の『チビ助』という
「ミソカが言ったとおりよ、みんな。危険と背中合わせの旅をしてるんだから、怪我でもしたら仲間全体に影響が出るわ。私たちは、それを知ってほしかっただけよ」
「悪かったよ。でも退屈さを君たち女の子のように朝更しのおしゃべりで紛らすことができなかったんでね」
さすがに単調な日々は、冷静沈着なタナバタの心をも蝕んでいたのだろうか。ナナクサが収めたはずの話を、こともあろうにタナバタがまた混ぜ返した。そして彼は言わなくていいことを口にしてしまったことに気付かなかった。それは鎮火しつつあったチョウヨウの苛立ちに再び火が付けた。
「賢いお兄ぃさんは、盗み聞きが趣味なわけ、あたいたち、か弱い女の子の?」
「『か弱い』なんて言ってないよ。それに、君を、か弱いなんて思ったことは、これっぽっちもないね」
「へぇ。あんた、あたいに喧嘩売ってんの?」
「どっちが喧嘩を売ってるんだか」
「何だって!」
「よし! 荷物持ちジャンケンじゃ。さあ、みな止まるのじゃ!」
突如、タナバタとチョウヨウの間に割って入ったジョウシが誰にも有無を言わさない口調で皆に宣言した。
「何をしておる。みな早くせぬか!」
「突然、何を言い出すかと思えば………」と、虚を疲れたタナバタ。
チョウヨウも事の成り行きに目をパチクリとさせている。
「荷が重いのじゃ」立ち止ったジョウシが、その場にどさりと荷物を投げ落とした。「
ジョウシの強引さに多少なりとも頭を冷やされたタナバタとチョウヨウに続き、仲間たちは一人、また一人と彼女の元に集まると自然と円陣を組んだ。そして「どうかしたか?!」と、皆の処に駆け戻りかけたジンジツには「そなたは道を間違わぬよう、星をしっかり見て、皆を導いてくりゃれ!」と叫ぶと、荷物持ちジャンケンが開始された。
結果は、仲間の中で一番体力のないミソカの一人負け。しかし、気まずい空気に凍りついた皆の中で一番最初に動いたのもミソカだった。彼女は荷物の数々に視線を落とすと、一瞬顔を強ばらせたものの、手近にあった一番大きなバッグに手をかけ、大きく息を吸い込んで一気に肩に担ぎ上げた。そして荷物の重さでバランスを崩さないように二番目の荷物に手を掛けた。その時、その荷物をジョウシが横から奪い去った。
「やめて、何するの?!」
デイ・ウォークを始めて九週間。大人しいミソカの悲鳴に近い非難の声を仲間たちは初めて聞いた。それは幼馴染みのナナクサも聞いたことがないくらい激しいものだった。
「わたしだって、これくらい持てるのよ! これくらい……」
「じゃが……」
口を開きかけたジョウシをミソカは怒りを隠そうともしない視線で見据えた。
「わたしも、デイ・ウォークの参加者よ」
小柄な二人の間の沈黙は永遠に続くかと思われた。
「こんな時」と、タンゴが溜息混じりに口を開いた。「始祖さまの御加護があればね。荷物なんて全部担いで、さっと空をひとっ飛びなんだけどなぁ」
もちろん、当のタンゴは意識していなかったに違いないが、彼の幼子のような一言はミソカとジョウシの思わぬ反目だけでなく、その場にいた他の仲間たちの気持ちを軽くするきっかけとなった。
「子供みてぇなこと言ってんじゃないよ、タンゴ」
ほっとした表情を見せたチョウヨウは、さっさと自分の荷物を雪上から拾い上げると、タンゴを軽く小突いて歩き去った。
「そうそう。空をひとっ飛びなんて迷信さ、お兄さん」タナバタもタンゴに声を掛けると、自分の荷物を担ぎ上げ、ジョウシの荷物を手に取って、それを幼馴染の身体に押し付けた。「もう行くぞ、ジョウシ」
タナバタとジョウシが輪から抜けるとナナクサはミソカが握り締めている自分の荷物に手を伸ばした。そして少し毅然とした調子で幼馴染に語り掛けた。「私の荷物をちょうだい」と。
ミソカの瞳が一瞬、揺らめいたように見えた。しかし、抗うことなく彼女は荷物をナナクサに手渡した。ナナクサは心配そうな視線をミソカにちらっと送っただけで、先に歩き始めた三人の後に黙って従った。やがてミソカも自分の荷物を拾い上げると大きなバッグを担いでいた方とは反対の肩にそれを背負い、少しよろけながらも歩きだした。何かぶつぶつ呟いていたタンゴも、少し遅れて皆の後を手ぶらで追いはじめた。次の休憩まで彼の人一倍大きなバッグはミソカが一所懸命に運び続けた。