第18話 魔薬

文字数 16,394文字

 城塞都市(カム・アー)から進発した屈強な戦士集団は三百名を超えていた。そろそろ他の辺塞からも、それに負けず劣らず優秀な戦士達が合流して、第一指導者(ヘル・シング)の命令通り、ヴァンパイアの巣を一つ残らず叩き潰す長期遠征に入ることになる。最終的には槍兵と弓兵、合わせて総勢五百名を超える大規模遠征部隊は史上類を見ない。そんな集団に身を置く戦士達はみな誇らしげで士気も高く、また興奮もしていた。だが、その熱病にも似た士気は見渡す限り何もない白銀の世界に、徐々にではあるが確実に削ぎ落されていった。そして、それと反比例して、単調な行軍だけの日々がもたらす鬱屈だけは泥のように彼らの体内に淀みはじめていた。
 そんなある日の夕暮れに事件は起こった。元来、戦うことだけを要求され、そのように調整されて人工子宮(ホーリー・カプセル)から生まれてきた戦士は多分に気が短かく粗暴でもあった。合流した部隊同士が些細な言い争いから小競り合いを生じさせ、それを契機にまたたく間に、そこかしこで戦士同士の殺し合いに発展してしまったのだ。部隊長以下、卒長たちが事を収めたときには四十七体の切り刻まれた死体が雪の上に転がっていた。十分の一近い戦力を無為に失い、怒り狂った部隊長は生き残った関係者、五人を自らの手で即刻、斬首に処すと部隊全体の行軍を停止した。そして再編のため、その地に逗留することを余儀なくされた。もちろん彼は、その期間に厳しい戦闘訓練を課したことは言うまでもない。
 それから一週間も経たない間に、周辺警戒に出していた物見(スカウト)から一台の大橇が単独でやって来るという連絡がもたらされた。
               *
 (いくさ)とは、ただの喧嘩から発する殺戮ではなく、十分に統制が取れた中で行われる殺戮でなければならない。第一指導者(ヘル・シング)からの、そんな戒めを思い出した部隊長は配下の卒長を通じて、すべての部下に再度の訓示を行った。
 大型の橇であれば、少なくとも商人どもが二十名は乗っているはずだ。弓兵に橇の足を停めさせ、槍兵の突撃に移る。戦い慣れはしていなくても彼らは少しくらいは反撃もしてくれるだろう。可哀想だが大事の前だ。再編した部隊がきちんと働くかどうか見てみたいし、仲間を失って意気消沈している戦士たちもいるだろう。その者たちの士気を鼓舞する手伝いにもなる。商人どもは、なぶり殺しになるが、せいぜい部下たちの相手をしてやってほしい。だから、すぐに死んでくれるなよと、部隊長は大橇に乗っているであろう罪もない獲物どもに身勝手な願いを掛けた。
               *
 夜空を切り裂く微かな風切り音に、最初に気付いたのは馭者台にいたタンゴだった。音がする方向に視線を転じた彼の目に、遠くから大きな弧を描いて飛来する矢が、月明かりを浴びてきらきらと瞬いた。
「あぶない。何かくるぞ!」
 今では大自然だけが脅威ではないと学習したタンゴから咄嗟に発せられた警告にファニュもいち早く反応した。彼女は手綱を強く引っ張って大橇に急制動を掛けるや否や、堅固な馭者台の下に潜り込んだ。襲撃に曝されることもあった隊商にいた頃から身に染み付いた本能にも似た習性だった。片や、警告を発したタンゴやヴァンパイアの娘達は、ファニュが持ち得た習性を持ってはいなかった。急制動によって崩されたバランスを立て直すと、矢が織り成す夜空の天体ショーに、ただ顔を上げ、それらが眼前に迫ってくるまで見とれていた。そして人間であれば回避しようがないところまで矢が迫ったとき、矢と死が心の中でようやく結びつき、眠っていた生存本能を目覚めさせた。
 普通の人間ならハリネズミのようになるはずの攻撃は、ヴァンパイアのスピードに今一歩及ばなかった。彼らは馭者台の上や幌の上で人間の目には止まらぬ素早さで、空間を埋め尽くす矢を一本残らず素手で叩き落とした。しかし、叩き落としたのは、あくまでも自分たちに向かって飛んでくる矢だけであって、他を考える余裕はなかった。哀れな雪走り烏賊(スノー・スクィード)たちに向かったそれらは、温厚な動物の命を次々に奪い去った。そして第二の斉射が、またも大橇に降り注いだ。
               *
 部隊長は、突撃の代わりにゆっくりと接近するよう、槍兵たちに今一度、命令を徹底した。なぜなら、興奮して射撃停止の命令が耳に届かない弓兵たちの姿を目の当たりにして、この先の無秩序な戦闘を想像したためだった。
 腐肉に群がる黒蟻のように戦士たちは大橇に吸い寄せられていった。部隊長はそんな戦士たちに一瞥をくれると、個々の戦闘指揮を卒長たちに任せ、自分は悠々と指揮橇を獲物が見える小高くなった丘まで進めさせた。そして部隊長の証である双眼鏡(とおめがね)を目に当てると見渡す限りの銀世界を自分のものでもあるかのように悠然と見渡し、次に隊商の大橇に焦点を絞った。無数の矢を受けた獲物は綿毛を生やした芋虫のようだった。だが、その周りを固める戦士たちは、獲物を貪る静かな興奮や達成感に酔い痴れるでもなく、ただ困惑に支配された表情を浮かべていた。不審に思った部隊長は双眼鏡(とおめがね)から目を離すと、彼らを困惑させた根源を探るべく、指揮橇を丘から移動させ、並みいる戦士たちの間に割り入れた。そして荒々しく人垣を掻き分けて大股で大橇まで近づくと、戦士たちの疑問を怒声に載せて自らが口にした。
「乗っていた者どもは、どこだ?!」
 無数の矢が突き立った大橇には屍体はおろか、動くものが全く見当たらなかった。部隊長の疑問は戦士たちから無言で報われた。回答が返ってこないのに苛立った彼は、再び乗っていたはずの商人たちが、どこへいったのかと大声を上げ、沈黙が答える前に自ら馭者台に飛び乗ると鼻息も荒く辺りを見回した。箱型の荷台の上や内部、また大橇の下をしきりに槍で探っていた戦士たちは何も言わず、ただ首を横に振り、怒れる部隊長に答えを求めるかのように視線を向けるだけだった。業を煮やした部隊長は傍にいた槍兵の胸元を掴んで更に声を荒らげた。
「これに乗っていた商人どもは、いったいどこに行ったと聞いている!」
 この槍兵も首を横に振るのみだった。部隊長は役に立たない部下を雪の上に蹴り落とすと、抑えきれない怒りをぶつける対象を探し回るかのように自分も地上に飛び降り、イライラとその場を歩き回った。そして弓兵が唯一、射止めることが出来た雪走り烏賊(スノー・スクィード)の屍体を唸り声とともに勢いよく蹴り上げた。しかし、それでも怒りが収まらない部隊長は、自分の指揮橇に戻ると、憂さを晴らすかのように貴重なキャンバス製の幌を自らの大剣で何度も切り裂き、支柱から鈍い金属音と火花をほとばしらせた。そして静まり返る一団に振り返って卒長たちを呼び寄せ、遠征を再開するぞと、がなり立てた。卒長たちが発する命令が聞こえる中、部隊長は不完全燃焼の巨体をどさりと指揮席に沈めた。丁度そのとき、それが彼の目に入った。違和感だった。取り立てて何と言うこともないほど些細な引っ掛かりだった。しかし、そういった感覚があったからこそ、指導者にただの戦士階級から指揮階級に抜擢されたという事実を彼自身は十分に認識していた。それゆえ部隊長は出発の号令を掛ける前に、しばし口をつぐむと、なおも自分に違和感をもたらせたものを、つぶさに観察した。それは彼の指揮橇を引く六頭の烏賊(いか)たちだった。
 雪走り烏賊(スノー・スクィード)は温厚な家畜だが、元々は単独生活者なので繁殖期を除いて仲間に頓着することは一切ない。二年に一度の繁殖期は今年ではない。それが仲間の屍体に向かってしきりに触椀を伸ばしているのだ。特に最前列の二頭などは屍体の下に触腕を差し入れて何かを探っているようにさえ見える。その動きを観察すればするほど、烏賊(いか)の屍体の下に何かあるに違いないと思われた。部隊長はゆっくりと橇を降りると、さっき自分が蹴り上げた烏賊の屍体のところまでやって来て、その屍体に手を掛けた。透明感のある皮膚は既に薄鼠色に濁りはじめていることからも、この個体が死んでいることは間違いない。近くにいた戦士たちは彼の不可解な行動を敏感に察知して、何が起こっているのかと固唾を呑んで見守っている。
 部隊長は目を上げて周りの戦士たちの顔を眺め渡すと、死んだ個体の手綱に手を掛けて一気にそれを引き上げた。ぐにゃぐにゃの巨体は、部隊長の膂力(りょりょく)で、軽々とひき上げられると同時に横ざまに投げ捨てられた。力を無くした触腕は浴槽に浸けられた髪のようにだらしなく、その場に伸び広がった。屍体があった窪みには何もなかった。詰めていた息を吐く音が戦士たちの間に波紋のように伝播してゆく。しかし、部隊長は見逃さなかった。彼の両目は、屍体が横たわっていた窪みの下に、自分の橇の烏賊(いか)たちが、なおも触腕を長く伸ばして、しきりに雪の中を探っているのを。
 部隊長は大剣を引き抜くと、烏賊(いか)たちが触腕を差し入れている辺りの雪を刺し貫いた。烏賊(いか)たちは驚き(いなない)いて触腕を引っ込めた。部隊長は剣を引き抜くと、また少し違う所を刺し、もう一度、同じ動作を繰り返した。彼は何か手応えがあるまで、それを止める気はなかった。戦士たちも再び息を詰め、指揮階級の一挙手一投足を、固唾を呑んで見守った。そして六度目に剣が刺された時、剣の真横から堪りかねた小さな影が雪上に姿を現した。部隊長は片手でそれを掴むと目の前に引き上げ、得意そうに部下たちの顔を眺め渡した。どよめきが歓声に変わるのを十分に楽しんだ彼は、それが済むと、活きのいい獲物に視線を転じた。そして「お前は何者だ?」とも、「他の者はどこにいる?」とも聞かず、ただ「お前たちは何人だ?」とだけ口にした。部隊長の頭の中には、自分と部下たちの破壊本能を満足させ得る獲物の数だけが最重要事項だったのだ。
 首をがっちりと掴まれて吊り上げられた獲物は、その手からナイフを滑り落としてしまっても部隊長の手を振り解こうと自分の両手を彼のそれに力一杯食い込ませて抵抗を試み続けた。だが岩に爪を立てるように、その巨大な手はびくともしない。仰け反った獲物の頭からフードが外れ、中から目も覚めるような赤毛と若々しいそばかすの浮いた顔が現れた。捕らえられたファニュは苦痛に顔を歪めながらも口を真一文字に結びながら、部隊長を睨みつけた。
「お前たちは何人いる?」
 ファニュは、部隊長の度重なる問い掛けを無視して、今度は空いている両足を必死にバタつかせて脚で反撃を試みようとした。しかし部隊長の身体はあまりに巨大で、その防寒具に爪先すら触れることは出来なかった。
「馬鹿な小娘だな」部隊長の顔が残酷な喜びに歪んだ。「早く言えば、すぐ楽にしてやるのに」
 万力のように締め上げられた首の骨が、みりみりと情けない音を立てるのをファニュは耳の奥に聞いた気がした。やがて、空気を求めてパクパク動く口の動きが緩慢になり、目が裏返って意識を失おうとした瞬間、娘は遠くの方で自分の守護天使の声を聞いた気がした。
               *
 天使は雪の中から突然現れた。白い翼こそ無いものの、自分の身体ほどもある大弓に矢をつがえた天使は、部隊長にピタリと狙いを定めて、こう言い放った。
「その娘を今すぐ放せ。さもないと、お前を許さないぞ!」と。
 部隊長との距離は、数メートル。幼い頃、雪潜り遊び(スノー・ダイブ)で培った技を使って雪の中から素早く躍り出たタンゴは部隊長と遜色ないほど大きな体躯をしていた。それを目の当たりにした戦士たちに動揺が走った。まるで巨躯を誇る指揮階級同士の私闘のように見えたからである。両者を中心に広がった動揺は、物理的な距離をも伴った。水が引くように彼らの周りから人垣が徐々に後退し始め、両者の間には張り詰めた空気とファニュしか残らなかった。だが、部隊長は新たな状況に戸惑いはしたが、たじろぎはしなかった。なぜなら大弓でこちらに狙いをつけながらも男が臆している匂いを、その震える矢尻から敏感に嗅ぎ取ったからだ。臆している。そう。俺を臆しているのだ。こいつには指揮階級の戦士か上級戦士並みに恵まれた身体を持ちながら、決定的なものが欠けているのだ。だから戦士の決断など出来るわけはないのだ。しかし俺は戦士だ。しかも血も涙もない冷徹で抜け目のない指揮階級だ。そう思った部隊長の決断は早かった。
「放さなければ」と、部隊長は吠えかかった。「俺をどうするというのだ?!」
「その娘を放すんだ!」
「拒んだら、どうすると聞いてるんだ?!」
「とにかく、その娘を自由にしろ!」
「駄目だ。この獲物は俺のものだ」
「放せと言ってるんだ。放せば何もしない!」
 雪の中から躍り出たタンゴから大幅な譲歩の言葉を聞いて部隊長の確信はますます強固なものなった。何ら躊躇することはないのだ。
「お前は耳が悪いのか。これは俺の獲物だ」
「放せば何もしないと言ってるんだ。いい加減に言うことを聞けばどうなんだ!」
()れるものなら、()ってみろ。身体だけはデカい根性無しの商人め!」
 タンゴは矢を放った。しかし巨大な大弓から放たれた矢は相手を倒すことはなく、僅かに狙点を外されて指揮橇の分厚い鉄製フレームを突き破り、雪上に深々と突き立った。部隊長は戦士たちを鼓舞し、更にタンゴの優位に立とうと大声を張り上げた。
「恐るな、戦士たち。強い武器を持とうとも使えなければ意味がない。この腰抜け商人のようにな!」
 そしてニヤリと凄みのある笑みを浮かべて、こう付け加えた。「それで、よく今まで生き残ってこられたものだ。お前には俺を楽しませてくれた褒美をやろう。この娘の首の骨が砕ける音を楽しむがいい。その後で俺自らがお前を殺してやる」
 ファニュの首に最後の力を掛けようとしたまさにその時、部隊長の眼前にぱっと赤い霧が広がった。怪訝に思いながらも腕に力を入れ直そうとして、彼は娘の重さがまったく感じられないことにやっと気づいた。そして目の前に吊り下げていたはずの娘の姿がないことに首を傾けた。
「タンゴ。しっかりしな!」
 頭一つ分、低いところから女の怒鳴り声が轟いた。部隊長が視線を下に向けると、逞しい体躯の女戦士が、片手に片刃の長剣、もう片方に自分が捕まえていた娘を小脇に抱きかかえている姿が目に映った。伸ばせばすぐに手の届く距離だった。はて。こんな女戦士が部隊の中にいただろうか。剣は持っているが防具を一切身に纏ってはいないとは、戦士として規則違反も甚だしい。こいつの卒長は誰だったか。目の前の愚かな商人ともども厳罰を与えてやらねばなるまい。部隊長が更に思案を廻らそうとしたとき、その女戦士が抱えていた娘の喉から垂れ下がるモノが、どさりと雪上に滑り落ちた。部隊長自身の切り落とされた腕だった。
「さぁ!」桃色の短髪をした女戦士は左右に油断なく視線を振り向けながら、それでいて剣の切先は部隊長から微塵も動かさず、緊張に張り詰めた声で言い放った。「命が惜しかったら、皆な、とっとと()せな!」
 寒さで萎縮していた血管が、仕事を思い出したかのように部隊長の無くなった肘の先から血を流し始めた。自分に何が起こったのか、ようやく理解した彼は痛みよりも屈辱を。屈辱よりも深い怒りを感じた。身体が傷付けられることなど戦士には誉れでありこそすれ、けっして屈辱ではない。だが、油断から、隠れ潜んでいた商人の女ごときに、してやられた恥辱は容易に(そそ)ぐことはできない。たとえ女をなぶり殺しても取り返すことは叶わないだろう。怒りと屈辱で心も頭も一杯になった部隊長は一言も発することができないまま、その場に立ち尽くした。
「グズグズすんなよ、人間ども。でないと皆殺しだよ。あんたらはヴァンパイアのあたいらには、到底、勝てっこないんだからね!」
 ファニュを助けたチョウヨウは、自分が腕を切り落とした部隊長が石像のように佇立している姿を恐れからの麻痺だと考えた。恐れは容易に伝播する。それがリーダーであれば尚更だ。幼い頃から喧嘩に明け暮れざるを得ない生活を余儀なくされた彼女は本能的にそれを知っていた。だから彼女は眼前に広がる重武装の人間集団をやり込めるには、片腕になった命令者に精神的な追い打ちを掛けることが今一度、必要だと判断したのだ。だが、それは間違いだったことがすぐに証明された。相手は指揮階級。しかもチョウヨウは相手の心に火をつける、たった一つの言葉を口にしていたからだ。
「ヴァンパイアだと?……」
「そうさ」片腕の指揮者の呟きにチョウヨウは鋭い剣歯を伸ばしてみせた。「命が惜しかったら、こいつらを連れて、とっとと退散するんだね!」
 その宣言に、チョウヨウとタンゴの周りの戦士たちが身を固くして身体の重心を落としはじめた。部隊長の腹は決まった。だが、それはチョウヨウの思惑通りの決意ではなかった。彼は思った。今こそ汚名を(そそ)ぐのだ、と。いや、それだけではない。ただの商人だと思っていた目の前の男女が宿敵のヴァンパイアなら相手にとって不足はない。しかも、奴らが有利な夜戦になるのだ。この状況で奴らを(ほふ)れば、指揮階級の歴史に名を刻める。比類なき英雄として第一指導者(ヘル・シング)を上回る尊敬を集めることができる。何という幸運だろうか。功名心は彼を異常なまでの高揚感で包み込み、手柄を早る気持ちは、今までズル賢く慎重だった部分を簡単に押しのけた。
「殺せ!」
 即座に反応する戦士がいなかったことに苛立ちながらも、部隊長は、剣をかざしながら、更なる大声で命令を叫んだ。
「ヴァンパイアどもを滅ぼせ。浄化するのだ。()れ。()れ。()れ!」
 一瞬の静寂の後、戦士たちは雪上にもかかわらず地響きを立て、雄叫びとともに雪崩を打って二人を目掛けて押し寄せた。
 チョウヨウは、呆気にとられながらも自分に向かってくる戦士との間合いを測った。そして相手の剣が突き出された瞬間を見計らって、その肩に飛び乗るや、彼を踏み台にして大きくジャンプすると続く二人の戦士の頭上を大きく飛び越えた。本当は戦士たちのひと山を一気に飛び越えて、再度雪の中に潜り込んで逃げ切ってやろうと考えていたのだが、ファニュを左脇に抱えているので、それはできなかった。彼女は着地するや否や、俊敏なアメフト選手のように次々と繰り出される斬撃を紙一重で(かわ)しながら、戦士たちの間を縫い、人垣の少ない場所を探して、時折、剣を閃かせながら懸命にひた走った。
 その瞬間にはタンゴにも迷いはなかった。彼は大弓で先頭の戦士と続く二人目を一本の矢で難なく射倒すと、人間の限界を遥かに超えたスピードで二本目の矢をつがえ、それを放った。そして三本目、四本目と次々に戦士たちに致死の矢を放ち続けた。しかし五本目に至ると、さすがに間合いが詰まりすぎて戦士の剣で大弓の弦が断ち切られてしまった。タンゴは咄嗟に、自分の武器を無力化した戦士と、その隣で自分に向かってきた女戦士の胸ぐらを掴むと、彼らを棍棒代わりに振り回しはじめた。彼に向かってきた後続の戦士たちは、武器と化した仲間の身体に薙ぎ倒され、血煙を上げながら次々に絶命していった。それは、まるで駄々っ子が玩具を振り回して部屋の中で暴れているようにすら見えた。
 部隊長の目は、所詮は人間のそれだった。彼の目には屈強な部下たちが次々と流れるように倒されていくというより、ボーリングのピンがストライクで一気に弾き飛ばされているように映った。それが絶え間なく繰り返されていく。ヴァンパイアの若者の動きは訓練され、調整を施された戦士の動体視力でも捉えきることができなかったのだ。これが宿敵、ヴァンパイアの力か。不味(まず)いことになった。圧倒的と思えた兵力が半ダース単位で無駄に磨り減らされていくのを目の当たりにした部隊長はそう思った。だが、麻痺しかけた頭で善後策を考える前に彼は死んでいた。その死は自分が(たお)されたことすら感じることができないほど突然で、素早いものだった。彼が最期に目にしたのは明るい満月をバックにした小さな人影だけだった。
 雪の海からイルカのように空高く飛び上がったジョウシは空中で素早く目標を見定めると、両刃の短剣を力一杯に投げつけた。空気を切り裂いた短剣は矢のように部隊長の喉を突き破ると、その巨体を雪上に勢いよく縫い付けたのだ。ジョウシは、差し迫った危機が迫る中、仲間たちが大橇にあった商人の残した武器を手にしていくのを尻目に、最後までそれを手にしようとはしなかった。なぜなら、彼女には古くから家に伝わる銀製のナイフという武器があったからだ。しかし、最終的には自分が扱いやすいと思った両刃の短剣を数本、手にすることにした。彼女としては家宝を人間の血ごときで汚したくなかったという意識が働いてのことだったのだろう。
 部隊長を倒したジョウシは軽やかに大橇の幌の上に着地すると、彼女と同じように最後まで武器を手にしようとしなかったナナクサの姿を戦場に探し求めた。命を助ける薬師(くすし)ゆえに、命を奪うことができるかどうか。戸惑った末に自らの命を相手に差し出す愚を冒してしまうのではないか。それは彼女なりにナナクサを心配してのことだった。
 しかし、その心配をよそにナナクサも懸命に闘っていた。しかしそれは相手の命を奪うというより、自らの命を守ることを主眼にした闘い方だった。彼女はジョウシが飛び出したのと、ほぼ同時に雪の中から踊りだし、戦士たちの武器を狙って、両手に握った二本の細身の剣を舞わせていた。彼女の周りでは、時折、血煙を上げながら武器を持ったままの戦士の腕が舞うことがあったが、大部分は武器と武器がぶつかり合って生じる明るい火花に彩られていた。だが、戦士たちは、最初は少し怯んだものの、やはり死兵だった。闘うことと死ぬこと。そして何より命令に盲従することだけを徹底的に刷り込まれた彼らは、ナナクサの思いとは裏腹に武器を弾き飛ばされても新たな武器を引き抜いて向かってきた。武器を無くしても歯を剥いて素手で突進してきた。倒されても倒されても、生きている限り、何度でも起き上がった。それは、もはや蛮勇ですらなく、歩いたり、水を飲んだりすることと同じで、生活の一部だったのだ。彼らには部隊長がいなくなっても、彼の命令だけは生きていた。
               *
 ナナクサは腹立たしかった。命を奪いたくないのに、それをわざわざ差し出すような闘い方をする愚かな人間たちに心底苛立った。苛立ちは頭の奥に激しい痛みとなってズキンと響き渡った。しかし痛みに苛まれながらも、心は今まで感じたこともないほど、高揚感に満ち満ちてもいた。そして頭の片隅では、自分で自分の身体が徐々に上手くコントロールできなくなってくる、もどかしさを感じてもいた。それに心なしか斬撃のスピードと致命傷を負わせる回数が増したように思われる。初めての闘い。初めての殺戮では誰もが今の自分と同じようになるのだろうか。でも、どこか変だ。まったく変だ。雪の中で人間たちの襲撃に晒されていた時は恐ろしさで歯の根も合わないほどガタガタと震え続けていたのに、今では闘いに喜びすら感じる。いや、喜びどころか殺戮への欲望に、恐怖ではない武者震いが身体中を駆け巡っているのだ。さっきまで鼻の奥を刺すようだった刺激臭も、いつの間にか気にならなくなっている。この感覚はいったい何なのだろう。タンゴやジョウシ、それにチョウヨウも同じように感じているのだろうか……。
「それで良いのだ」
 ナナクサは頭の中に、そう声がした気がした。
「それで良いのだ」
 まただ。何が良いものか。こんなことになるなんて望んでなんかいない。私はただ、過酷な成人の儀を終えたいだけだ。仲間たちと一緒に、それを終えたいだけだ。そう抗えば抗うほど、さっきの幻聴が繰り返され、痛みがズキズキと頭の中を苛んで荒れ狂う。
「少しずつ、抗う心を(こそ)げ落としてやろう」
「うるさい!」ナナクサはその声に思わず、怒鳴っていた。
「それで良い。少しずつ……少しずつ」
 それでも頭に響く幻聴を振り払おうと、ナナクサは、もう一度怒声を発すると、自らの剣で左の二の腕を刺し貫いた。激痛は狙い通りに幻聴を追い払ってくれた。だが、そんな彼女の視線の先では、軽やかに飛び跳ねながら、ナイフを振るって死の斬撃を量産し続けるジョウシがいた。丁度、二人の戦士を倒して、部隊長の橇の荷台に着地したジョウシと目が合った。彼女の顔は苦痛と喜びに歪み、その目は真っ赤に染まっていた。それを見た途端、ナナクサは、さっきまでの刺激臭が意味することを迂闊にも忘れていたことに気が付いた。彼女は無性に腹が立った。さっきのとは違う自分自身の迂闊さに対する怒りだった。
「ジョウシ!」
 ナナクサは仲間の名を叫ぶと、まだ身体が言うことをきく間に彼女に合流しようと戦士の間を駆け抜けて跳躍した。それでも行き着けないので、同じことを繰り返して、三度目に跳躍した時、空中にいたジョウシに抱き付き、二人して大橇の幌の上に落下した。幌は二人のヴァンパイアが落下した衝撃で裂け、その身体は荷台の硬い床に叩きつけられた。
「ジョウシ!」
 ナナクサはジョウシに馬乗りになって、その両肩を押さえつけながら彼女に呼び掛け続けた。
「ジョウシ。しっかりして。ジョウシ。ジョウシ!」
 ジョウシは牙を剥いて獣のようにナナクサに吠え立てた。
「しっかりして。自分を取り戻すのよ!」
 ナナクサはジョウシの頬を平手で思い切り張った。その見返りにジョウシは短剣を一閃させて彼女の頬を深々と切り裂いた。ナナクサはジョウシの短剣を弾き飛ばすと彼女を再び押さえつけた。ナナクサの頬から流れる冷涼な血潮がジョウシの顔にポタポタと降り注いだ。ナナクサの身体の下でジョウシは激しく抗い続けた。
 永遠とも思える数瞬が過ぎ去り、ジョウシの抵抗が止んだ。
「ナ、ナナクサか?……」
「ジョウシ……」
 苦しそうな息の中、既にジョウシの瞳は澄み、小さな顔には小生意気さをまとった、いつもの表情が蘇りつつあった。
「いったい我れは……そういえば闘うておる最中に……」
「もう大丈夫ね?」
 ジョウシは未だに残る頭痛を振り払うように、頭を左右に振った。ナナクサの深く切り裂かれた頬の傷は、左腕のそれと同じようにヴァンパイアの治癒力で塞がり、今ではピンクのミミズ腫れほどに回復している。彼女はジョウシの上から身体をどけた。
魔薬(まやく)よ」
魔薬(まやく)?……」
「そう。あなたの言っていた魔薬(まやく)よ。それを忘れてたなんて」
 ナナクサはジョウシに手を貸すと、幌の側面の破れ目から彼女に外の様子を見せた。ナナクサとジョウシがいなくなったのにも関わらず、戦場の喧騒は一向に収まろうとはしていなかった。そこではタンゴが赤い暴風雨の中心となって荒れ狂い、チョウヨウは姿すらも見えなかった。
「あの血煙の中を動き回っただけでも、おかしくなるということか……」
 ジョウシが理解したように呟いた。
「そう。人間の血を飲まないまでも、あれを呼吸しただけで、私たちおかしくなるわ」
「げに恐ろしきものじゃ……もしや!」
 ジョウシは後に続く言葉を濁らせたが、ナナクサには、それが伝わった。
「わからない。私たちもミソカのようになってしまうのかどうかは……」
如何(いかが)すれば良い?」
 いつになく弱気なジョウシにナナクサは決然と自分の意見を述べた。
「意志の力よ」
「意志の力?」
「そう。それしかないと思うの。自分は自分以外の何者でもないという確固たる信念。それで乗り切るのよ」
「信念……かように不確かなもので乗り切れるのか?」
「少なくとも、あの時、タナバタは頑張ったわ」
 自身の狂気と最後まで戦い続けた幼馴染みの名に、ジョウシの表情が引き締まった。
「それに飲むより、吸い込む方が遥かに微量で済んでいるはず」
 この時ばかりは、仲間を勇気づけるためにナナクサは嘘をついた。たとえ僅かな量でも、あの血煙の中を動き回っていれば、相当な量を摂取するのと変わりない。自分を含め、仲間がいつ、後戻り出来ないほど自分でないモノに変化してしまうか、わかったものではない。しかし。
「大丈夫よ。それは、あなたや私が証明している。今の私たちは正気よ、間違いなく。私たちは、私たち自身で他の何者でもないわ」
 念を押すようなナナクサの言葉に、ジョウシがこくりと頷いた。
「私たちは負けないわ、人間の血なんかに」
「そうじゃ。魔薬(まやく)などには絶対に負けはせぬ」
 ナナクサとジョウシは、先ずタンゴを正気に戻すため、大橇の荷台に開いた穴から飛び出した。雪上に着地するたび、気づいて襲いかかってくる生き残りの戦士には目もくれず、蛙のように大きな跳躍を繰り返してタンゴに肉薄した。
 最後のひと飛びで二人一緒にタンゴが振り上げた腕にそれぞれが取り付くはずだった。だが成功したのはナナクサだけだった。タンゴが振り回す鞭のようにしなる戦士の屍体に強かに打ち叩かれたジョウシは、激しく回転しながら戦士の一団にまともに激突した。ナナクサは、それには目もくれず、身体全体でタンゴの右腕に抱きつくと四肢の全てを使って、ぐいぐいとその腕を締め上げた。
「タンゴ。目を覚まして!」
 血煙避けに口と鼻を覆った布越しからナナクサは醜く歪んだ幼馴染の顔に呼びかけた。それでも、その叫びが彼に届くことはなく、ナナクサは振り落とされまいと爪を伸ばし、タンゴの太い腕に深々と突き立てた。そして絡めていた片足をほどくと、踵で彼の頭や顎を何度も何度も目一杯蹴りつけはじめた。野獣の咆哮が彼の口からほとばしり、大地を揺るがせた。だが、それは痛みからのものではなく、ただ煩わしさからくる怒りの表明だった。タンゴは煩わしさの元を取り除くため、ボロ雑巾のようになった戦士たちの屍体を投げ捨てると、空いている手で自分の右腕に取り付いたナナクサの頭を鷲掴み、万力のような力で容赦なく締め付けると思い切り捻り上げた。ナナクサの食いしばった牙の間から、苦痛の呻きが漏れた。彼女の頭蓋骨と首の腱は限界まで達して情けない悲鳴が上がり始めた。頭が砕けるか、首が捩じ切られるか、どちらが先でもおかしくはなかった。ナナクサの手から力が抜けた。その時、タンゴの胸元にジョウシが飛び込んだ。四本の肋骨が砕け、口元を覆った遮光マフラーを自分の血で真っ赤にしながらも彼女は小さな掌をタンゴの顔面に叩き込み、泥を掴んだイジメっ子が相手の口に何かを突っ込もうとするように、手の中のモノを力一杯、その顔面に擦り付けた。
「眠気覚ましじゃ、タンゴ。いい加減、これで目を覚ますのじゃ!」
 荒れ狂うタンゴは一瞬、動きを止めると、地の底から響き渡るような悲鳴を上げ、もんどりうって倒れた。そして両手で顔を掻きむしり、苦しそうにのたうち始めた。
 雪の上に投げ出されたナナクサは、着地したジョウシが掌に雪をすり込んで何かを必死にこそげ落とそうとしている姿を目の端に捉えた。何であるかは鼻と口を覆った布越しであるにも関わらず、微かに漂ってきた甘ったるい匂いで察することができた。タナバタの時にも効果があった致死の毒性を誇るニンニクだった。
「橇にあったものじゃ」ジョウシは、そう吐き捨てると苦しそうに横腹を押さえ、荒い息の中で彼女らしくもない言い訳を口にした。「政府(チャーチ)とのいざこざでな……彼らと落し所を見い出せねば、如何(いかが)しようかと思うてな……もしもの時に役立つかと、そなたらの目を盗んで隠し持っておったのじゃ。タンゴは……あ奴は尋常ではなかったゆえ、致し方なかったのじゃ」
 ジョウシは、了解したと頷くナナクサを認めると、すぐに視線を外した。毒薬を隠し持っていたこと。取り分け、それを仲間に使ってしまった卑劣さを彼女は恥じ入っていた。だが、誰も彼女の闘い方を責めることなどできるものではない。できるとすれば、それは現実を知らない無責任な部外者だけだろう。 戦場に残った僅かな戦士たちは仔猫が巨像を倒したような光景に呆気にとられ、暫しは闘いを忘れ、間接的に自分の命の恩人となり得た小柄なヴァンパイアに目を奪われ続けた。
 闘いの合間にポッカリと出現した静寂。
 生き残った戦士の中にいた二名の卒長は今までの熱狂が冷めたのだろうか。その間隙を利用して我先に逃走を始めた。目先が利く先導者を目にした戦士たちは本能的に上長に付き従った。その数は僅か十名にも満たなかった。ヴァンパイアの若者たちは、四百五十名近くの重武装した凶暴な人間たちの襲撃を生き延びたのだ。
 ナナクサは頭と首の激痛に耐え、タンゴの様子を見るために立ち上がって彼の方へ近づこうとした。目の前には自分たちが作り上げたに相違ない血生臭い大量殺戮の現場が広がっていて心が傷んだ。しかし彼女は、その修羅場の一角に信じられないものを見た。そして身体中から力が抜け、膝から雪上に崩れ落ちそうになった。ナナクサの視線の遥か先、戦士たちの屍体が積み重なった丘の上にチョウヨウが両膝をついて佇んでいた。
 彼女の胸と腹には腕ほどの太さの杭が二本突き立っていた。
               *
 仲間の中ではジンジツと同じくらい闘い慣れしていたはずのチョウヨウが、仲間の中で一番酷い重傷を負わされているなど想像すらできないことだった。タンゴの次に暴れまわる彼女をどうやって止めようかとしか考えていなかったナナクサは、何度も転びそうになりながら丘の上を目指して走った。
「チョウヨウ!」
 チョウヨウは仲間の叫び声の方向に僅かに頭を傾けた。そして脱力したように、両膝立ちから、その場にペタンと尻餅をついてへたり込んだ。彼女の横に滑り込んだナナクサは深手を負った彼女の身体が前のめりに倒れる寸前に抱きかかえた。
「油断……したかな……」
 苦しい息の中で、そう囁いたチョウヨウは力の入らない右手で自分の足元を指差した。足元にはファニュが横たわっていた。一見したところ外傷は全く見受けられなかった。気を失っただけの少女は胸を小さく上下させて浅く呼吸をしていた。
「小娘は生きてるだろ。守りきったよ……」
 ナナクサはチョウヨウに声もなく頷いて見せた。彼女の身体を貫いた杭からは甘ったるい、あの猛毒の匂いが立ち上っていた。
「おかしいんだよ。身体が言うことをきかなくてさ……」
 そこまで言うとチョウヨウは激しく咳き込み、血の塊を吐き出した。血からもニンニクの香りが微かに立ち昇った。杭には多量のそれが塗り込められていたに違いない。何とかしなければならない。これ以上、目の前で仲間を失うのは耐えられない。ナナクサは視界を薄桃色の涙に曇らせながらも必死に頭を巡らせた。方法は一つしかない。決心するのだ、今すぐに。
 ナナクサが涙を拭っていると、ようやくジョウシに手を引かれたタンゴが合流した。ニンニクの影響でタンゴの目の周りは爛れ、その両目は白濁して、あまり見えないようだった。
「やぁ、タンゴ……」
 チョウヨウの呼び掛けに、ナナクサと代わったタンゴが「チョウヨウ」と、優しく応じた。目がはっきり見えずとも彼にはすぐに状況がわかったようだった。タンゴと入れ代わったナナクサは素早くジョウシに耳打ちすると、二人でその場を離れた。
 タンゴは、チョウヨウの顔を白濁した目で見つめ、その身体を、そっと、しかも力を込めて包み込んだ。
「顔を、どうしたんだい?」と、チョウヨウが弱々しく呟いた。
「擦りすぎたら、こうなった」と、鼻声になりながら、タンゴが下手な冗談で応じる。
「せっかくの顔が台無しだね」
「そうかな」
「でも、男は顔に傷がある方が格好良いかな」
「君がそう言うなら、このままにしとこうか」
「でも、元のままが良いよ、やっぱり」
「実は、僕もそう思ってた」
「いったい、どっちなのさ」
「君こそ」
 二人は力なく笑い、タンゴはチョウヨウの血で汚れた口元を指で優しく拭ってやった。
 雪の上で抱き合う男女に、戻ってきた二人のヴァンパイアが声を掛けた。
「さぁ、チョウヨウ。元気になってもらうぞよ」
「その声は、チビ助か。お前は何ともなかったのか?……」
 チョウヨウは声のした方に顔を向けたが、その目が、もう何も映していないことを知ったジョウシは言葉を詰まらせた。
「うむ。遺憾ながら、何ともな……」
 小さくそう応えたジョウシの横からナナクサが声を掛けた。表面的には薬師(くすし)に徹した静かで冷静な物言いだった。
「いま御力水(おちからみず)を汲んできたわ。タンゴの時みたいに、これで、あなたを治す」
御力水(おちからみず)だって?……」
「そうよ」
「そんなの、どこにあったんだい?……」激痛で顔を歪めながらチョウヨウは訝った。みな黙っていた。そして合点がいったようにチョウヨウは「そうか。倒した人間たちの血か……」と呟いた。
「えぇ、そうよ」と、ナナクサ。
「あたい、さっきの闘いの時、少しおかしくなりかけたんだよ、ナナクサ。危うく小娘にも手を掛けそうになった。たぶん人間どもの血を一杯浴びたからだと思う……」
「そうね。間違いないわ」ナナクサは、正直にそう言うとチョウヨウの手を強く握った。「でも、怪我人に使うのなら万能の薬よ。それは知ってるでしょ」
「そんなのわかんねぇだろ?……」
「私は薬師(くすし)よ」
「でも……でもな……」
 チョウヨウは喘いだ。喘ぎながらタンゴを求めて弱音を吐いた。
「タンゴ……タンゴ……あたい、怖いんだ。怖くて堪んないよ。本当は痛いのも大嫌いなんだ。嫌だよ……タンゴ……あたい……」
「大丈夫だよ、チョウヨウ。大丈夫」
 タンゴに慰められたチョウヨウは少し落ち着き、瀕死の重傷者とは思えない力で、自分を包み込む男の腕にしがみ付いた。
「もし、あたいがミソカみたいに……」
「一緒に行くんだ。僕たち一緒にデイ・ウォークをやり切るんだ」
 タンゴはチョウヨウに不吉なことを一切、口にさせず、彼女を更に強く抱きしめた。チョウヨウは、そんなタンゴに甘えるように顔を男の胸に埋めて弱々しく頷いた。
 時間が差し迫る中、杭に手を掛けたジョウシが、チョウヨウに心の準備を促した。
「では参るぞ、チョウヨウ」
「待ってくれ……」
如何(いかが)した?」
「あんたのこと、いつも“チビ助”呼ばわりしてたから。痛くするんじゃないだろうね、抜くときに?……」
「心配は無用じゃ。我が心はこの白い大地より広く、寛大じゃからな」
「それ聞いて安心したよ、ジョウシ……」
「そうか」
「ねぇ、杭を抜くのは、あたいが死んでからじゃ駄目かい?……」
(らち)もない。さぁ、もう喋るでない」ジョウシは冗談で自分を紛らそうとするチョウヨウに、そう応えると、皆の顔を見渡した「一、二の三で引き抜くぞ」
 ナナクサとタンゴが頷いた。そしてジョウシは二まで数えると、三の掛け声を掛ける前に、二本の杭を一気に引き抜いた。気弱になったチョウヨウが痛みに対する恐怖から身を強ばらせるのを避けるための方策だった。杭が引き抜かれると同時にチョウヨウの口から弱々しい悲鳴が漏れた。
 杭が引き抜かれるや否や、ナナクサは戦士の兜に溜めた人間の血をチョウヨウの大きく開いた傷口から内蔵に素早く塗り込み、残った血を、激痛で半ば意識を失った彼女の口に溢れるのも構わずに流し込んだ。
 皆、瀕死の重傷を負ったタンゴに施したのと同じ処置をチョウヨウに施した。暫くすると、タンゴの時と同様にチョウヨウの呼吸は静かに止まった。
 若いヴァンパイアたちは、仲間が息を吹き返す瞬間を、固唾を呑んで、待ち受けた。
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登場人物紹介

ナナクサ

キサラ村出身の薬師見習い。まじめで思慮深い。全てを手にするといわれる“瞳の中に星を飼う”娘。デイ・ウォークを通して、運命に翻弄されながらも大きく成長してゆく。

ジンジツ

ミナヅ村出身の方違へ師見習い。直情径行な性格でリーダーを自称している青年だが、性格には裏表がない。デイ・ウォーク後は、政府の飛行船乗組員になりたいという夢を持っている。

チョウヨウ

ミナヅ村出身の石工見習い。デイ・ウォークの途中で命を落とした姉のボウシュが成し遂げられなかった過酷な成人の儀式を必ず成功させようと意気込む努力家の娘。大柄で口は悪いが他意はない。

タンゴ

キサラ村出身の史書師見習い。大食いで気のいい大柄な青年。旅の初めは頼りなげな彼も、デイ・ウォークの中で大きな選択に迫られてゆく。

ミソカ

キサラ村出身の方違へ師見習い。小柄で身体が弱く、物静かな性格の娘。仲間に後れを取らないように懸命にデイ・ウォークに挑戦してゆく。

タナバタ

ヤヨ村出身の薬師見習い。理知的で柔らかい物腰の青年。スマートで仲間の中では頭脳派。

ジョウシ

ヤヨ村出身。村長の娘。生意気だが洞察力があり、決断力にも富んでいる。

シェ・ファニュ

人工子宮生まれの14歳。ナナクサたちと知り合ったことで前向きに生きていこうとする聡明な人間の少女。規格外品扱いで城砦都市から追放同然で隊商に下げ渡された過去を持つ。

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