第45話 誘惑

文字数 6,072文字

 ルーシーはマリクの激しい反対を押し切って、ナナを居住棟にある自分たちの部屋に招き入れた。九年半の歳月は城砦建設と整備の重責を一手に背負わされたルーシーの心と、恋人を失って心に深手を負ったマリクのそれを結び付けていた。ルーシーはマリクと生活している既婚者用の広い居間でヴァンパイアに転生したナナの話を聞き終えると、九年半の間に絶滅に瀕した人間社会全体に起こった絶望的な数々の事件を、かいつまんで説明した。最初はルーシーの説明に聞き入るだけのナナも、二時間もするとショックから立ち直り、現在の状況に関する質問をするようになった。
「じゃぁ、この城砦は安全というわけね」
「えぇ、そうよ。自分の意志で人間がヴァンパイアを招き入れない限り」
「あのブロドリップも?」
「もちろんよ。侵攻を阻止した時の奴の悔しそうな顔を見せたかったわ、あなたにも」
 ぎこちなさは残るものの以前のように接しはじめてくれる親友にナナの顔は微かにほころんだ。その表情を読み取ったルーシーはそれに気づかなかったかのように話を続けた。
「ブロドリップは城門から手下のヴァンパイアを何十体も突入させたけど、三メートルも進まないうちに手下どもは全身から血を噴き出して悶死したわ。私は門の前まで行って奴を挑発してやったけど、奴は入ることができなかった。その後、何度となく天候を操られたりして被害も出たけど、私たちは耐え忍んだ。それから、ここ五年は小さな旋風さえ起ってない」
「諦めたの?」
「それなら良いんだけど。私には虎視眈眈と人間が油断する機会を狙ってるとしか思えない。でも、ここで頭を引っ込めた亀みたいに頑張ってる限り、私たちは負けないわ」
「勝つこともないがな」と苦々しくマリクがルーシーに応じた。ナナは再び口を開いた。
「私はあなたたちが忌み嫌うヴァンパイアになったかもしれない。でも今も大切な友人だと思ってる。これは本当のことよ。だからできることは何でもするわ」
「ここで、お前にできることなんてないぞ」とマリク。
「ここではね」意味あり気にルーシーは、そう呟いた
 次の日からナナはルーシーの許可の下、城壁外に秘密裏の長距離偵察に出ることになった。
               *
 肩身の狭い城塞都市から離れる口実ができてほっとしながらも、帰れる場所があるだけでナナの心は少なからず安らいだ。ただ偵察中に眠ると、また何年も失ってしまうかもしれないという漠然とした不安を拭い去ることができなかったので、昼間は雪のなか深くに留まって眠らないようにした。そして日が暮れるのを待って偵察を行った。一度、昼間に活動してみたらどうなるかと陽の下に出たこともあった。だが露出した肌に大火傷を負ってしまい、やはり人間ではなくなったことを痛感させられた。
 長距離偵察は城砦の周りからはじめて半径二十キロに渡って、ヴァンパイアの感覚で敵である同族を探知することだったが、来る日も来る日も空振りに終わった。しかしある日、ナナは城塞都市の放牧場からブロドリップが起こした嵐で遥か遠くに飛ばされたと聞いていた陸棲転化烏賊の集団を偶然にも発見した。雪原と化した海面で粉雪を蹴立てて疾走する彼らは力強く、勇壮そのものだった。過度な再生能力を発現させたおかげで繁殖能力の著しい低下に見舞われた烏賊たちはルーシーの報告にあったように自らの身体を巨大に、そしてより強靭にすることで種としての存続バランスをとるのに成功していた。今では彼らの一匹一匹、いや一頭一頭は牛ほどの巨躯を有しているが、飛ぶように駆けるナナと並走しても遜色のない、まるでチーターのような速度で凍った海の上を走ることができた。
 並走しながらナナは烏賊たちをもっとよく観察しようと、思い切って三十頭はいる群れの先頭にいた、ひときわ大きな一頭の胴に飛び乗った。粉雪に見え隠れしている大きな目が胴の上に乗ったナナを見て体色をピンクに変えたが、すぐに落ち着きを示す青い色を放ち始めた。ナナを脅威とは感じなかったのだ。
「お前たちは賢いね!」
 ナナは久し振りに。正確にはヴァンパイアに転生して以来の爽快な気分を味わった。
「さぁ」ナナは烏賊の胴を優しく叩いた。「どこまで走るのかわからないけど、今夜はあななたちに付き合うわよ!」
 走るにまかせた群れは雪原をどこまでも駆け抜けた。夜明け前に群れが停まると、ナナは分厚い防寒具とサングラスで身体を覆うと、チリチリ皮膚を苛む陽光も気にせず、烏賊たちとスキンシップを十分にとって群れを手なずけにかかった。これといった方法があったわけではなかった。しかし、賢い彼らは二日目には彼女の指笛や声に反応して簡単な指示を理解できるようになった。それから更に一日経って、ナナは烏賊の背に身を預けると、彼らを城砦に向けて走らせはじめた。
               *
 烏賊の背に乗って二日目。
 氷河期の到来と同時に白い地平線に(そび)えはじめた海退山。その上に鎮座する城塞が砂粒のように見えた段階で、ナナは早くも同属が放つ波動を感じ取った。うなじの毛が逆立ち、背筋に電気が走る感覚を味わうと思わず身震いした。ナナのその感覚が烏賊たちにも通じたのか、はたまた彼ら自身もナナと同じくヴァンパイアの存在を感じ取ったのか、彼らは走る速度を次々と緩め、怯えを感じたときのピンク色に体表を染めて雪の中に潜り込んだまま動かなくなった。ナナは怯える群れを雪原に残して一人で城砦を目指すことにした。初めて城砦に来たときよりも到着に時間がかかったのは、ここ最近、ドライトマトを海水でもどしたものしか口にしなかった体力低下のためだろうか。城砦に到着するのに、まる半日を要した。
               *
 闇夜に(たたず)む城塞は昼夜兼行の突貫工事の音どころか、まるで真空の世界にでも放り込まれたかのように冷たく静まりかえっていた。しかし城塞の四方を囲む高い城壁の中でも城門周辺は内側からの強い照明を受けて、その不気味な輪郭を漆黒に浮かび上がらせるだけでなく、一種異様な緊張感を遠く離れたナナの所にまで漂わせていた。城門周辺の城壁上を注意深く見ると、ひしめくほどの人影が下から照らすサーチライトの照明を見下ろしながら微動だにせず立っており、ナナはその一つ一つから邪悪さを孕んだ同族の気配を容易に感じとることができた。ヴァンパイアの集団が城壁の上にいるが、城門は未だに固く閉じられていることから、ルーシーたち人間はヴァンパイアたちと無言で睨みあっていることだろう。だが、ナナの心は親友らの無事に胸を撫で下ろすよりも激しく、我慢しがたい憎悪の奔流をただ一点に放射するのに全力を傾けていた。それでも放射される憎悪より体内に蓄積されるそれの量が遙かに上まわると、理性ではどうにも制御ができなくなり、身体が弾かれたように自然に動いた。彼女は一本の矢となって小高い丘を一気に駆け下りると、城壁に向かって風を切って突き進み、そのまま手と足を使って三十メートルに達しようかという城壁の一番高い部分に、瞬時に駆け上がった。壁を登りきった先にそれはいる。初めて会った時に感じた言い知れぬ不安を覚える波動は間違いようがない。自分をヴァンパイアに変質させたブロドリップだ。ナナは壁を登り切ってジャンプすると、攻撃本能に反応して伸びた鋭い爪を目の前に迫った後頭部に思い切り叩きつけた。確かな手応えがあったが、彼女の機関車のような猛進は止まることはなかった。周りにいた数名の同族にも絶え間なく斬撃を浴びせ続けたナナは、彼女を攻撃し始めた同族にもその矛先を向け、彼らをことごとく壁の内側に叩き落とした。そして六人目に襲いかかったところでナナ自身も残ったヴァンパイアに壁の内側に叩き落されてしまった。落下の途中でバランスを崩したものの何とか両足で地面に軟着陸したナナは、城壁近くに集まっていた銃で武装した数百人の人間たちには目もくれず、既に身体中から血を噴き出して事切れている同族の死体の中にブロドリップの姿を探し、その死体がないことに困惑しながらも、やり場のない怒りを爆発させた。
「なぜ。確かに斃したのに、どうして奴の死体がないの。なぜ。なぜ。なぜ?!」
「ブロドリップならあそこよ!」
 城壁に集まった人間たちの中から、ナナの探すものを察知したルーシーが双眼鏡越しに照明に照らしだされた城壁の一角を指差した。
「我が(きさき)よ、お前の考えていることなどお見通しだ」壁の上のブロドリップに連動して壁の上を見上げたナナの口から彼の声が無意識に流れ出た。「なぜなら、お前と私は一族の強い絆で今も結ばれているのだからな」
 ルーシーの周りに集まった人間たちの武器が声に反応して一斉にナナに向けられた。しかし彼女はそれを意に介さず、城壁の上のブロドリップを睨みつけた。
「だったら好きにすればいいわ!」声帯を一時的に支配されたナナは声を取り返すと声を張り上げた。「その絆とやらで思うがままに、私に自分の咽喉を裂かせたり、城門を開かせたりね。でも無理ね。出来るんだったら、とっくに私を操って、そうさせてるもの。それに、あなたは嘘偽りのない招待がないと、たとえ城門が開いてても中に入れないんだっけ。ほんと不自由で可哀相なことね。だからって同情はしないけど、これだけは教えてといてあげる。あなたに出来ることといったら、せいぜい私に薄汚い言葉を吐かせたり、徒党を組んで人間の生活を壁の上から覗き見することぐらいよ!」
「無礼がすぎるぞ!」
 ブロドリップの怒気を孕んだ言葉が城壁上の数百を超える口から同時にほとばしった。しかしナナは怯まなかった。
「でも一番無礼なのは、私を(きさき)呼ばわりするあんたよ。気持ち悪さに吐き気が止まらないわ!」
「悔しかったら、降りてきて面と向かって堂々と彼女に文句の一つも言ってみたらどうよ?!」ナナの挑発に気付いたルーシーもブロドリップを罵倒しはじめた。「言い返せないんだったら、馬鹿な男が女の家に踏み込んで暴力を振るうように、また力を誇示してみたら。私たちちっぽけな人間は、いつだって受けて立つわよ!」
 数百を超す口から獣の咆哮が同時に上がり、ヴァンパイアは城壁の内側に次々と飛び降りて砦内に侵入しはじめた。だが、侵入したヴァンパイアたちは三メートルも進まないうちに身体中から勢いよく血煙を吹き上げてバタバタと倒れていった。それでも仲間の屍を踏み越えて、更に奥へ奥へと突き進んでくる者もいた。彼らの滅びを恐れぬ突撃を、はじめは冷ややかに見つめていた人間たちも、やがて、その勢いに飲まれてヴァンパイアの血で赤く染まった城壁際から徐々に後退しはじめた。
「殺っちまえ!」
 誰が発したかはわからなかったが、極限まで圧縮された人間たちの緊張感は、その一声をきっかけに破壊本能を一気に噴出させた。侵入したヴァンパイアは闇雲に突撃するだけでなく、時には凄まじい跳躍力を駆使して上方から襲いかかったが、人間たちは彼らに銀の散弾を浴びせかけた。しかし無秩序でヒステリックな集団射撃はヴァンパイアだけでなく周りに展開する人間をも誤射する事態を続出させ、その場にいる人間とヴァンパイアは互いの血煙を頭から浴びて真っ赤に染まっていった。
「射撃中止。射撃中止。あぶないから撃つのはやめて、どんどん後ろへ退くのよ。後ろの人間は早く退いて。撃たないで!」
 騒乱状態の城門前ではルーシーの張り上げる悲鳴にも似た叫びは空しく打ち消された。侵入してきた同族たちに反撃していたナナが気付いた時には、既に武装した人間の半数が死ぬか重傷を負ってヴァンパイアの屍と仲良く横たわっていた。その惨状を見たナナの身体が、またも自然に動いた。彼女の中のヴァンパイアの血は混戦状態の大集団に向けて両腕を伸ばさせ、次いで左手を左に、そして右手を右の方へ真一文字に空気を引き裂くように一気に広げさせた。その瞬間、見えない巨大な手に翻弄されるかのようにヴァンパイアの集団と人間の集団はきれいに二つに引き剥がされて宙を舞うと、雪の上に一人残らず薙ぎ倒された。何が起こったか、その場の全員が理解するのに数瞬を要した。
「欲しくはないのか、恐れのない世界を?!」
 戦場に突如出現したその空白にブロドリップの声が轟いた。それは戦闘を一時停止に追い込んだナナ個人にではなく、全身を真っ赤に染めた生き残りの人間たちに向けられたものだった。
「今や絶滅危惧種に堕したお前たち人間が、この永久氷河に閉ざされた世界で、この先も生きてゆけるのか。甘い幻想は捨てて、今一度考えよ。いずれ旧型の原子炉は使い物にならなくなり、食糧も底をつく。寒さと空腹から、いさかいが始まる。そのいさかいは今日の闘い以上の惨状をお前たちにもたらすのだ。しかし、お前たちの指導者や、ほんの一握りの特権階級は、そんなことは断じて否だと言うだろう。だが果たしてそうか。今まで自分たちの国で、そんな為政者の言葉に騙されてきた者はいないのか。私はお前たちの敵だったが、今日は手を差し伸べに来たのだ」ブロドリップは城壁の上からルーシーを指し示した。「それを、お前たちの指導者の一人に操られた我が(きさき)に邪魔されたのだ」
「嘘よ。お前は人間を襲いに……」
 ナナが最後まで言い終わらないうちに彼女の目の前に、中身が詰まった薬用タブレットケースが投げ入れられ、固い雪上に落ちた衝撃で中から小指の爪ほどの白く小さな錠剤が何粒もこぼれ落ちた。
「ジェロン島の地下で生成したヴァンパイアの食料だ。我ら一族は、既にお前たち人間の血など必要としないほどに進化を遂げたのだ。それゆえ、お前たち人間を滅ぶに任せて無視することにしたのだ。だが、ここに集いし我が一族の者たちに懇願されてな。城砦に囚われている家族や仲間を、ぜひ一族に迎え入れてはくれまいか。手遅れにならないうちに新たな世界に適応する力を授けてはもらえまいかと……今宵の訪問は我が最後の慈悲にして、お前たちに対する最大の福音であったのに」
「お前の軍門に下るなんぞ、死んでもごめんだ!」かつて恋人を、その毒牙にかけられたマリクがブロドリップに向けて銀の散弾を浴びせかけた。「滅びろ。滅びろ。滅びろ!」
 散弾銃の弾倉が空になり、内蔵ハンマーが乾いた音を空しく何度もたて続ける頃には城壁の上にいたはずのブロドリップと、生き残りヴァンパイアの姿は消え去っていた。それにもかかわらず、ナナの口は消えたヴァンパイア貴族のプロパガンダをその場に流し続けた。
「一族となれ。極寒や空腹などものともしない強い身体を手に入れよ。お前たちの目の前にいる我が(きさき)のように不治の死病をも撃退できる強い肉体が待っているぞ。さぁ、その階段を自らの意志と勇気で上るのだ」
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登場人物紹介

ナナクサ

キサラ村出身の薬師見習い。まじめで思慮深い。全てを手にするといわれる“瞳の中に星を飼う”娘。デイ・ウォークを通して、運命に翻弄されながらも大きく成長してゆく。

ジンジツ

ミナヅ村出身の方違へ師見習い。直情径行な性格でリーダーを自称している青年だが、性格には裏表がない。デイ・ウォーク後は、政府の飛行船乗組員になりたいという夢を持っている。

チョウヨウ

ミナヅ村出身の石工見習い。デイ・ウォークの途中で命を落とした姉のボウシュが成し遂げられなかった過酷な成人の儀式を必ず成功させようと意気込む努力家の娘。大柄で口は悪いが他意はない。

タンゴ

キサラ村出身の史書師見習い。大食いで気のいい大柄な青年。旅の初めは頼りなげな彼も、デイ・ウォークの中で大きな選択に迫られてゆく。

ミソカ

キサラ村出身の方違へ師見習い。小柄で身体が弱く、物静かな性格の娘。仲間に後れを取らないように懸命にデイ・ウォークに挑戦してゆく。

タナバタ

ヤヨ村出身の薬師見習い。理知的で柔らかい物腰の青年。スマートで仲間の中では頭脳派。

ジョウシ

ヤヨ村出身。村長の娘。生意気だが洞察力があり、決断力にも富んでいる。

シェ・ファニュ

人工子宮生まれの14歳。ナナクサたちと知り合ったことで前向きに生きていこうとする聡明な人間の少女。規格外品扱いで城砦都市から追放同然で隊商に下げ渡された過去を持つ。

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