第32話 罠

文字数 2,067文字

 ヴァンパイアによる城塞都市(カム・アー)内への初侵攻という前代未聞の異常事態に、第一指導者(ヘル・シング)が怒り狂って手が付けられなくなっているだろうと予想していたレン補佐長は、贅を尽くした居室で全く正反対の反応を示す彼の態度を見て呆気にとられた。そして、入室と同時に落ち着き払った言葉が朗々と流れ出るいつもの口を開くことができず、護衛の戦士たちと分厚い扉を入ったところで、ただ立ち尽くしていた。これは、まさに異常事態だ。短気と身勝手が影を潜めた指導者の姿にレン補佐長は不気味な思いを強くした。
「で、どうなっている?」
 窓外に広がる建物群の遙か彼方に立ちのぼった細く微かな煤煙を眺めていた第一指導者(ヘル・シング)は、一声そう発するとレン補佐長を振り返った。彼は指導者の顔色を素早く読み取ると、慌てて左右に控えている護衛の戦士たち。もし第一指導者(ヘル・シング)の怒りが自分に向けられたときは緩衝材として使おうと考えていた生贄たちに目配せをして下がらせると、つかつかと指導者の傍まで歩み寄った。
「未だ滅ぼすに至ってはおりません。戦力の乏しい第九街区は、もはや時間の問題かと思われます」
 補佐長は端的に事実を述べた。
「そうだろう。いや、そうでなくてはならん」
「と、おっしゃいますと、第九街区は?」
「十から十二までの街区に戦力を集中するのだ」
 やはり異常事態だ。レン補佐長は指導者の高揚を隠そうともしない表情を上目使いに盗み見てそう確信した。指導者はヴァンパイアの初侵攻を楽しんでいる。それどころか、辺塞の指導者が半世紀以上も前に成しえたと噂されていた戯言(たわごと)を信じきっている。三匹のヴァンパイアを追い詰めて滅ぼしたなどと、そんな荒唐無稽な与太話を信じることすら危険なことなのに、きっと自身の手でヴァンパイアを攻め滅ぼす夢想に酔い痴れているのに違いない。それゆえに現実に被害を出しているヴァンパイアは易々と滅ぼされてはならないのだろう。駄目だ。以前からこの指導者の異常性を見抜いてはいたが、これほど危険な考えを持っていたとは。もちろん、その危険は他の人間たちにとってというより、むしろレン補佐長自身にとってのものだった。なぜなら軽んじてはならない異常性と、軽んじた考え方しかできない馬鹿の違いは天と地ほどの違いがあるからだ。目の前にいる異常性の塊は想像を絶するほど大きな災いを自分自身にもたらすだろう。影の実力者としての生活が根本から破壊される。これは当初の計画より早目に手を打たねばならない。レン補佐長の頭は目まぐるしく回転し始めた
「ただちに緊急解凍した控えの戦士すべてを討伐に差し向けよ。それと残りの熱線砲(ヒート・レイ)もな」
「恐れながら」レン補佐長は頭を垂れた。「今は厚い雲が空を覆っております。晴れ間が続かなければアルキメデスの熱線砲(ヒート・レイ)は、あまりお役には立たないかと存じますが」
「そうか」指導者はあっさりと補佐長の諫言(しんげん)を受け入れた。「では、我が人造強兵(ホムンクルス)を第十街区に残らず差し向けることとしよう」
「お待ちください!」
「まだ何かあるのか?」
 第一指導者(ヘル・シング)の声に苛立ちが混じった。
「はい。少しばかり」
 自分に最大限のメリットをもたらす解答をレン補佐長は、はじき出した。もちろん、異常事態を是正するオプション。即ち、今の第一指導者(ヘル・シング)を排除することも必要不可欠な条件として織り込んだ上で。
「闘いの中心にすべての戦士を送り込むことはできますが、それでは混乱も避けられません。騒ぎに乗じて……いえ、恐れをなしてヴァンパイアどもが都市中に逃げ散ることも充分に考えられます」
「なんだと?」
「ですから、労働階級の者どもを五十人ほど潰してもよい御裁可をいただきたく存じます。その血を使いまして」と、今回ばかりは指導者の視線に怯まず、レン補佐長は自分が考えた作戦を一気に説明した。初めは渋い表情だった指導者も、作戦の概要を聞き終わると鷹揚に頷き、最後にはそれを承認した。
「ただし」第一指導者(ヘル・シング)は退出してゆく補佐長の背中に言葉を投げ掛けた。「お前の考え通り、奴らをおびき寄せ、袋の鼠にできなかったときは……そのときは、わかっているな」
「御意。この命に代えましても」
 心の中の舌打ちを気取られないように、そう応じたレン補佐長は第一指導者(ヘル・シング)の居室からそそくさと退出した。ヴァンパイアもろとも(ぎょ)し難くなる一方の指導者を葬り去るためには、手段を選んでいる場合ではない。早く仕掛けを施さねばならない。しかし、それ自体は至極簡単なことだ。問題なのは時間なのだ。レン補佐長は護衛の戦士たちに付いてくるように促すと、闘技場内に併設された戦士の待機場に、労働階級を連行させるために足早に歩き出した。彼はあまりにも急いでいたので、途中ですれ違った小柄な三人の戦士には見向きもしなかった。
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登場人物紹介

ナナクサ

キサラ村出身の薬師見習い。まじめで思慮深い。全てを手にするといわれる“瞳の中に星を飼う”娘。デイ・ウォークを通して、運命に翻弄されながらも大きく成長してゆく。

ジンジツ

ミナヅ村出身の方違へ師見習い。直情径行な性格でリーダーを自称している青年だが、性格には裏表がない。デイ・ウォーク後は、政府の飛行船乗組員になりたいという夢を持っている。

チョウヨウ

ミナヅ村出身の石工見習い。デイ・ウォークの途中で命を落とした姉のボウシュが成し遂げられなかった過酷な成人の儀式を必ず成功させようと意気込む努力家の娘。大柄で口は悪いが他意はない。

タンゴ

キサラ村出身の史書師見習い。大食いで気のいい大柄な青年。旅の初めは頼りなげな彼も、デイ・ウォークの中で大きな選択に迫られてゆく。

ミソカ

キサラ村出身の方違へ師見習い。小柄で身体が弱く、物静かな性格の娘。仲間に後れを取らないように懸命にデイ・ウォークに挑戦してゆく。

タナバタ

ヤヨ村出身の薬師見習い。理知的で柔らかい物腰の青年。スマートで仲間の中では頭脳派。

ジョウシ

ヤヨ村出身。村長の娘。生意気だが洞察力があり、決断力にも富んでいる。

シェ・ファニュ

人工子宮生まれの14歳。ナナクサたちと知り合ったことで前向きに生きていこうとする聡明な人間の少女。規格外品扱いで城砦都市から追放同然で隊商に下げ渡された過去を持つ。

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