第23話 城塞都市

文字数 8,869文字

 ナナクサはファニュが城塞都市(カム・アー)望遠鏡(とおめがね)という道具(からくり)で確認する遥か以前から威圧を与え続ける、その存在を感じていた。二千七百年前に始まったブラム氷期は大海を凍てつかせ、地球規模での海退を招来させた。その結果、海の上に横たわっていた島々は、その底に隠れていた広大な土台を現し、今ではどこもが両膝立ちした巨人のような威容を誇るまでになっていた。その島々の中の一つ、その広大な頂上の一角に、それはあった。今は豆粒よりも小さく見える城塞都市(カム・アー)は白一色にメイキャップされた世界の中にあって、唯一重い灰色でくすみ、ナナクサの心に言い知れぬ不安をかきたてた。
 ナナクサとファニュは、島の裾野に着くとジグザグに曲がりくねった登坂路を進み続けた。行程は順調だったが徒歩での移動のため、頂上付近に二人が到達するまで、まる一日の時間を要した。そして城塞都市(カム・アー)に到着したときには、すっかり日が暮れていた。
城塞都市(カム・アー)よ」
 中天から三日月の細い光が差す中、城塞都市(カム・アー)のシルエットに一瞥をくれたファニュは吐き捨てるように言った。二度と戻らないと固く誓った故郷に足を踏み入れざるを得ない現実を目の当たりにした当然の反応だった。そんなファニュの隣でナナクサは彼女が示してくれた先に、その威容を確認した。まだ相当な距離があるにも関わらず、高い壁で周囲を守られた城塞都市(カム・アー)からは、以前目にした政府の六胴飛行船(サブマリン)など及びもつかないほど遥かに重厚な雰囲気が漂いでていた。そしてその巨大な城門に彫り込まれた見紛うことなき政府(チャーチ)の刻印。それは底の見えない懐疑に姿を変えてナナクサの全身を包み込んだ。
 どれほど都市に目を奪われながら佇んでいたのだろう。
「あれは、なに?」と、城塞都市(カム・アー)望遠鏡(とおめがね)で探っていたファニュが突然声を上げた。我に返ったナナクサは何事かと慌てて彼女が指し示す方へ視線を向けた。視線の先にある大きな岩場の陰に小さな明かりがチラチラと瞬いていた。それは城塞都市(カム・アー)の威容に圧倒され、星の光よりも弱かったが確かにそこに存在した。
「誰かが火を()いてるわ」
 月明かりを頼りにファニュが望遠鏡(とおめがね)で凝視していると、それは大岩の狭間で小さな火を囲む幾人もの人影であることが確認できた。
「彼らはいったい何をしているの?」
 ナナクサの問い掛けには応えず、ファニュはなおも、その様子を凝視し続けた。隊商でもない限り、陽が落ちてから人間が城門の外にいることなど、およそ考えられない。しかも彼らがいるのは城門から離れているとはいえ、その玄関口といっても過言ではない場所だ。理解しがたい現実に直面したファニュは妙な胸騒ぎを覚えた。
「わからない。あんなの初めて見た」望遠鏡(とおめがね)から目を離すと、ファニュは困惑した顔で振り向いた。
「わからないんじゃ、どうしようもないわよ、ファニュ」
「あたし、行ってみる」
 深く考えたわけではなかった。ファニュはそれだけ言うとナナクサが口を開く前に歩き出した。とにかく答えを得るために彼らと接触しなければならないと判断したからだ。ファニュは前方の岩場の狭間で瞬く小さな火に向かって細い月明かりを頼りに、慎重に歩いた。数歩遅れてナナクサもその後ろに続いた。
               *
 二人の気配に気づいたのだろうか。ファニュとナナクサが近づくにつれ、火は消され、岩場の辺りはあっという間に闇に転じた。
「そこと、ここ。それにあそことむこうにも四ヶ所のグループ。それぞれに人がかたまってる」
 夜目の効くナナクサがファニュに囁いた。
「信じられない。そんなことって、ありえないよ……」
 ファニュの呟きを無視するようにナナクサは目に見える状況をそのまま伝え続けた。
「岩の間に隠れてるわ。男も女も皆ひどく怯えてる。それにしてもすごい数の人たちね」
「そんなにいるの?」
「えぇ。とにかく灯りを点けましょう。ファニュ、あなたも直接見た方がいいわ」
 ナナクサの提案に「城塞都市(カム・アー)から誰か見てたらどうするの」という言葉を飲み込んだファニュは、代わりにコクリと頷いた。どのみち誰に見咎められようが関係ない。火の光に導かれてヴァンパイアが来ることもないし、来たとしても、人間の血を間違って口にしない限り、ナナクサたちのように理性的で親切。古来からの言い伝えとは正反対。人間の敵どころか隣人になり得る存在だ。それに、さっきの人々だって微かながらも火を焚いているのだし、自分はというと、中にいる嫌な人間たちと対決するために決心して戻ってきたのだ。もし見咎められるなら、それはそれで好都合。何が起こっているのか、先ずそいつに問いただしてやる。そう考えると、ファニュは鞄の中から魚油で作った小さな松明を取り出し、慣れた手付きで一緒に取り出した金属棒と石を擦り合わせ、松明に明かりを灯した。灯りの届く範囲はオレンジ色に照らされてはいたが、決して広くはなかったし、明るくもなかった。ファニュの目はその微かな明かりの中でさえ多くのシルエットが闇を求めて波打つのを捉えた。それは、ナナクサの言うように人間だった。しかも夥しい数の人々。彼らはみな灰色の労働者用の防寒着を着ており、一様に怯えて惨めに縮こまっては肩を寄せあっていた。労働者たちはファニュが嫌いな人間たちではなかったが、そうかといって特段の好意を寄せる仲間でもなかった。なぜなら物心がついてからの彼女は城塞都市(カム・アー)での単純労働に適さないという烙印を押され、早々に隊商へと下げ渡された身だったからだ。
 ファニュは労働者たちをもっとよく見ようと明かりを左右に振った。明かりを向けられた彼らはそこから逃れようと暗がりを求めて蠢いた。だが、明かりが届かない所からはナナクサとファニュを監視しながらも密かに彼女らを値踏みするような息遣いと視線がひしひしと伝わってくる。ファニュは怒りを感じた。彼らが戦士階級に媚び、規格外品(でき損ない)のレッテルを貼られた者からすら、目を背ける事なかれ主義者だったことを、それが思い出させてくれたからだ。「だが」と、短期間に様々な経験を経たファニュは自分の考えを省みた。力のない彼らは、そんな生き方しかできなかったのではなかったろうか。自分も隊商に下げ渡されなければ、彼らと同じ経験値で物事を図り、その結果、今の彼らと同じ態度を()るしかなかったのではなかっただろうかと。それは紛れもない、力のない者の生きる知恵。脅威への仕方ない対処術なのかもしれない。なぜなら、いま自分とナナクサに対して彼らが()っている態度は間違いなく、ファニュが大嫌いな戦士階級に採られるのと同じものだと感じられたからだ。そう考えるとファニュの心から、目の前の労働者階級に対する怒りが徐々に消えていった。
「ねぇ、怖がらないで」
 ファニュは労働者たちに呼び掛けた。思ったとおり、誰も応えなかった。彼女は明かりを、そこかしこと動かして、なおも怯える人々に優しく問い掛けた。
「こんな所で、みな何をしてるの。どうして外にいるの?」
 それでも人々は、なおも沈黙を守り続けた。
「ねぇ、なぜ黙ってるの。人間は日暮れには宿舎の中にいなきゃならないって昔から決められてるでしょ。罰せられるわよ。みな指導者の掟を忘れたの。どうして内に入らないの?」
「どうやら化け物ではないようじゃ」影の中から年老いた女の声が漏れ出た。
「あたしたちはヴァンパイアじゃないわ」
 化け物という言葉にファニュは咄嗟にそう反論した。もちろんナナクサのことに思い至ってはいたが、訂正するより彼らの話を聞く方が先決だ。ナナクサも話を複雑にしないように口は挟まず、彼女に先を促すよう黙って頷いた。しかし、暗がりにいる人間たちはファニュを無視して自分たちの世界から出てこようとはしなかった。それどころか勝手な憶測ばかりをしはじめた。
「こいつら本当にヴァンパイアではないのだろうな?」
「化け物ではないのか。それは確かか?」
「いや、信用させておいて襲うつもりだぞ」
「それなら、わざわざ声を掛けてはこないだろう」
「でも襲ってきたら最後よ」
「では、やはりヴァンパイアなのか」
 ひそひそ話に業を煮やしたファニュは思い切った質問を暗がりにぶつけた。
「さっきからヴァンパイアのことばかり。違うって言ってるでしょ。それともなに、城塞都市(カム・アー)がヴァンパイアに襲われたから、外に逃げてきたとでもいうの、あなたたち?」
城塞都市(カム・アー)は何事もない」
 しわがれた年老いた女の声が怒りを伴って、それを否定した。ファニュは声の方へ、すぐさま明かりを向けたが、発言者はわからなかった。
(わし)らは城塞都市(カム・アー)追われたのだ」
「なぜ。どうして追われたの。こんなにもたくさんの人が追われるなんてありえないわ」
「ただ追われたのよ、私たち」
 今度は疲れ切った女の声。どうやらナナクサとファニュに危険はないと、やっと判断したらしい。その声は続けた。
「突然に集められ、城門の外へ行くように命じられたの。住む所を追われたのよ」
 今度は、夜目の効くナナクサが女に視線を向けた。
「追われたのなら、何か理由があるでしょ?」
「ただただ追われたのよ」女の声は絶望に震えていた。
「では」と、ナナクサは再び質問した。「どうして、まだここにいるのかしら。私の村でも追放者は、その土地の周辺には居られないものよ」
「追放者だと」さきほどとは違う男の声が苛立たしそうに応じた。「俺たちは咎人(とがびと)などではない!」
「そうよ、私たち何もしてないわ!」
「そうじゃ。何も悪いことなんぞしとらん!」
「なぜだか、私たちの方が理由を知りたいくらいよ!」
「何もしてないのに住処を追われる気持ちがわかってたまるか!」
 猜疑心がなくなった人々は先ほどとは、うって変わって、次々とナナクサに食ってかかった。話を先に進められなくなった彼女はお手上げだと言わんばかりにファニュを見た。
「わかったわ!」とファニュが声を張った。「追われた理由はあなたたちにもわからない。もちろん、あたしたちにもわからない。それはそれでいいわ。でも追われたのなら、こんな所に長居してちゃ駄目よ。新しく住める所を探さなきゃ。野垂れ死にする前に凍え死んじゃうでしょ」
「どこかへ行こうにも、(わし)らには、その方法がない。ただの労働者なんだぞ」
「それに、どこへ行けっていうの?」
 女の悲痛な叫びに賛同する男女の怒声が重なった。
 言われてみれば確かにそうかもしれない。隊商に入って色々と学ぶ前に彼らのような目に遭ったら、自分も同じように感じるだろう。
「静かにして。あたしは隊商の人間よ。何か良い方法を考えるわ」
「助けてくれるのか。しかし隊商と言っても、橇は無いようだし、たった二人だけじゃないか。どうやって助けてくれるんだ?」
 自信はなかったが、ファニュは人々を安心させようと手を広げた。
「少し時間はかかるかもしれないけど、一番近い村を探して、あたしが橇を借りてくる。交代で橇を使えばかなりの距離を移動できるわ。それに村まで行けば、ゆっくり休めるかもしれない」
「上手くいくのかい?」
 先ほどの疲れ切った声の女が藁にもすがるように問い掛けた。
「わからないけど、やってみる。今はそれしか約束できない」
 村を探すだけでも大変なのに、見ず知らずの人間がそこから橇を借りるなど、恐らく不可能だろう。もし仮に村を見つけられたとして、そんな無茶な要求を口にしたら、村人たちからの私刑(リンチ)は免れない。では、どうすれば。答えの見つからない迷宮で、ファニュは立ち往生した。
「ところで、食べ物は……食べ物は、どうなるんだい、お嬢ちゃん?」
「えっ?」
「食べ物よ。私たちは満足に食べ物すら持ってないんだよ。あんたたちは持ってないのかい?」
 確かに食糧は自分が旅をする分しか持ってはいない。とてもではないが、ここにいる人々すべてに分け与えるのは無理だ。そんな簡単なことに思いが及ばなかったファニュは再び言葉を失い、人々は口々に不安を漏らすと、死人のように再び押し黙った。
 分厚い雲が三日月の細い光から人々を覆い隠した。
「なら」と、しわがれ声の男が沈黙を破った。「ここに居よう。朝には、また第一指導者(ヘル・シング)が食べ物をくれるから」
「食べ物を、あの第一指導者(ヘル・シング)が?」
「働かない者に」という言葉を辛うじて飲み込んだファニュは自分の耳を疑った。
「あぁ、だから飢えることだけはない。寒さだけに耐えられれば、ここで何とか生きられる」
「でも、わからないわ」ファニュと同じことを考えたナナクサが割って入った。「わけもなく追い出されたあなたたちに食べ物を分け与えるなんて。その第一指導者(ヘル・シング)とかいう人間は何を考えてるのかしら?」
「彼の考えはわからん」と、しわがれ声の男。「追い出した(わし)らに後ろめたさを感じておるのか……いや、そんなことは決してなかろうな。どんな考えがあるのやら、さっぱりわからん。ただはっきりしとるのは一つだけ。(わし)らはここから一歩も動けんということだ」
「でも飢えることがなくても、そんなことを続けていれば、あなたたちはいずれ力尽き、ここで凍え死ぬのよ」
「だが、(わし)らにはそれしかない。それしかないのだ……」
 微かな希望を託した娘たちが成すすべもないのを知った女が嗚咽の中で自問自答をしはじめた。
「なぜなんだい。私たちが何か第一指導者(ヘル・シング)の気に障ることでもしたのかい。戦士どもに小突かれながらも文句ひとつ言わずに仕事をしてきただけなのに。戦士どもが帰ってこなかったのが、私たちのせいだとでも言うのかい?」
「それも仕方ないさ、今は未曾有の危機だから…」
「『未曾有の危機』って?」と、ナナクサは男に先を促した。
「ヴァンパイア危機(クライシス)だ」
 男は口にするのも抵抗があるかのように、ぼそりとそう応えた。
               *
 ナナクサとファニュは追放者たちから全滅した隊商の屍体を、別の隊商が城塞都市(カム・アー)に持ち込んだ話を聞いた。ミソカとタナバタが起こした、あの惨劇だ。その直後に大量の追放が行われたということは、目の前にいる追放者たちは、やはりヴァンパイアに対する生贄なのだろうか。接触した彼女らを、すぐに化け物と恐れた彼らの様子もそれで納得がいく。だが、そんなものは全く必要がないということをナナクサは知っていた。城塞都市(カム・アー)にいる人間たちに説明しよう。もちろん目の前で怯えている人たちにも。理解さえしてくれれば追放された人たちが城塞内に戻れるだけでなく、人間たちのヴァンパイアに対する憎悪や敵愾(てきがい)心も薄まる可能性だってある。多くの戦士を失い、指導者も心細く思っている今が絶好のチャンスだ。ヴァンパイアと人間の間に偏見がなくなれば、政府(チャーチ)城塞都市(カム・アー)の謎も追求しやすくなるに違いない。だがファニュはナナクサのそんな考えに一定の理解を示しながら、指導者に関することにだけには頷かなかった。
第一指導者(ヘル・シング)は、賢明でも慈悲深くもないわ。彼は何にもまして戦士よ、誰よりも戦いを好む野蛮人」
 ファニュは以前に垣間見た部隊長の顔を記憶の墓場から掘り返した。あらゆるものを自分の前に(ひざまず)かせずにはいられない残忍な顔を。
「彼は追放者たちを生贄なんかじゃなく、あなたたちをおびき寄せる単なる餌だと思っているかもしれないわ」
「わたしたちは古代にいたという凶暴な野獣なんかじゃないわよ」
「それに」ファニュは声を低めた。「多くの戦士を失って、不安になるどころか、きっと怒り狂ってるわ。頭の中にはヴァンパイアを殺すことしかないと思う。だから話ができるなんて期待しない方がいい」
 城門から、そう遠くないところでナナクサとファニュは朝を迎えた。彼女らは追放者たちから離れた所に深々と棺桶穴(シェルター)を掘って、その中に横たわった。だがファニュは追放者たちとのやり取りが気になって一睡もできなかった。ナナクサも朝だというのに目が冴えて仮眠すらとることができなかった。二人の若者の心を捉えた不安は解消するどころか増すばかりだった。
               *
 城塞都市(カム・アー)は、どんよりとした朝を迎えた。凍てついた空気の中、今朝の当番が、自分と同じ徴用者の若者であることにエイブ・Hは内心ほっと胸を撫で下ろした。労働者階級の大量追放の日から、どんな噂が流れたかは知らないが戦士たちの間では、あからさまに彼を敵視する者が多くなったからだ。二日前には練習とはいえ闘技場で危うく殺されそうになった。もちろん事故ではなく故意であることは明白だ。相手は練習用の剣をわざと折り、組み打ちの際に、それで彼の喉を切り裂こうとしたのだ。しかも試合終了の銅鑼(どら)が鳴って油断した瞬間を狙って。それ以来、エイブは宿舎に帰ってから背中にも目玉を付けるようになった。だから人工子宮(ホーリー・カプセル)生まれの戦士や準戦士ではなく、彼と同じ徴用者と仕事を組まされると心底ほっとするのだ。
「今朝は格別に冷えやがる」
「本当にそうだな」と、徴用の準戦士に相槌を打ちながら、エイブは橇に結わえ付けられたロープを引っ張った。第一指導者(ヘル・シング)は、ここ三週間というもの百人からの追放者用食糧を積んだ橇を鍛錬のためと称して雪走り烏賊(スノー・スクィード)ではなく、二人の準戦士に当番制で引かせていた。食糧の重さは大したことはなかったが、それを載せた橇は大岩のように重かった。橇から伸びる引き綱はエイブの肩に食い込み身体を軋ませた。それでも仕事を怠った時の懲罰の苛烈さを考えると、彼とその連れは身体に鞭打って一歩一歩着実に橇を引き続けた。
 建物の間を亀のように、のろのろと進むエイブと連れは、夜の見張り番を終えて宿舎へ帰る準戦士たちと、引率の卒長とすれ違った。すれ違いざまに準戦士たちから口汚い罵声と石を埋め込んだ雪玉が二人の背中に投げつけられた。
「お前、労働者階級並みに好かれてるようだな」
「人当たりが良いもんでね」と、エイブは興味がなさそうに応じた。
「生き方が下手なだけだろ」
「隊商では、人間は助け合って生きてくもんだって習ったけどな」
 他愛もない連れの嫌味に皮肉で応酬したエイブは黙々と引き綱を引っ張っり続けた。連れが揶揄したように人工子宮(ホーリー・カプセル)から生まれた戦士階級の者は、どういうわけか労働者階級を蔑む傾向にあった。誰に教えられるともなく、まるで本能ででもあるかのように彼らを徹底的に虐め抜く。そして、その行為は労働者たちに手を差し伸べた者にも等しく適応される。それがわかっていながらエイブは追放される労働者の一人を助けた。助けたといっても大したことはなく、小突かれて転倒しかけた労働者の身体を掴んで、真っ直ぐ立たせてやっただけだったのだが、後の祭りだった。今さら悔いても始まらない。その事実を噛み締める能力があるだけに、エイブは人工子宮(ホーリー・カプセル)生まれの戦士や準戦士とは、それ以来、極力関わらないように生活をしてきた。もちろん不意打ちにも細心の注意を払いながら。
「そういやぁ、冷凍保存されてた戦士が、今日にも大量解凍されるんだってよ。ヴァンパイア危機(クライシス)だからって、むさ苦しい奴らが、どれだけ増えやがるんだろうな。吐きそうだぜ、まったく」
「そうかい」エイブは顔をしかめた。「朝から良いニュースをありがと」
「どういたしまして」
 それからエイブと連れは建物が点在する広い道路を黙々と二時間も移動し、ようやく城門前に到着した。そして城門横の小さな詰所に入ると、奥に据え付けられている三十センチ四方の黒い認証版に顔を近づけた。暫くすると、それは目の動き。顔色。呼吸。汗に脈拍とあらゆる観点から彼が人間であることを認識し、その証しとして真ん中に微かな緑色の光点を浮かび上がらせた。失われた太古の機械遺産だ。エイブは機械の許可を確認すると、その横に据え付けられた大振りの開閉レバーを手前に倒した。するとレバーからの信号が動力を呼び覚まし、それが巨大なギアに伝わって崖のようにそびえ立つ城門をゆっくりと左右に開き始めた。夜中に城門の表面に付着していた雪と氷が滝となって地上に降り注いだ。
 詰所から出たエイブは欠伸をかみ殺すと、昨日と同様に、橇に群がろうとする追放者たちから凍死者の数を聞き取ろうと、おもむろに目を向けた。しかし目の前には予想に反して、たった二人の人間が立っているだけだった。いや、正確には二人の人間と、遠くの岩陰から固唾を呑んで彼らを見守っている追放者たちの豆粒のようなシルエットだけだった。エイブとその連れは昨日とは違った光景に面食らって何度も目を瞬いた。そして城門の前の光景に心を奪われていたエイブの目は、二人のうちの小さい方の人間のそばかすが浮いた顔に引き寄せられた。見間違いではないかと思い、目を細めていま一度その顔を凝視した。
「お前は……」エイブは、やっと口を開いた。「ファニュ…シェ・ファニュか?……」
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登場人物紹介

ナナクサ

キサラ村出身の薬師見習い。まじめで思慮深い。全てを手にするといわれる“瞳の中に星を飼う”娘。デイ・ウォークを通して、運命に翻弄されながらも大きく成長してゆく。

ジンジツ

ミナヅ村出身の方違へ師見習い。直情径行な性格でリーダーを自称している青年だが、性格には裏表がない。デイ・ウォーク後は、政府の飛行船乗組員になりたいという夢を持っている。

チョウヨウ

ミナヅ村出身の石工見習い。デイ・ウォークの途中で命を落とした姉のボウシュが成し遂げられなかった過酷な成人の儀式を必ず成功させようと意気込む努力家の娘。大柄で口は悪いが他意はない。

タンゴ

キサラ村出身の史書師見習い。大食いで気のいい大柄な青年。旅の初めは頼りなげな彼も、デイ・ウォークの中で大きな選択に迫られてゆく。

ミソカ

キサラ村出身の方違へ師見習い。小柄で身体が弱く、物静かな性格の娘。仲間に後れを取らないように懸命にデイ・ウォークに挑戦してゆく。

タナバタ

ヤヨ村出身の薬師見習い。理知的で柔らかい物腰の青年。スマートで仲間の中では頭脳派。

ジョウシ

ヤヨ村出身。村長の娘。生意気だが洞察力があり、決断力にも富んでいる。

シェ・ファニュ

人工子宮生まれの14歳。ナナクサたちと知り合ったことで前向きに生きていこうとする聡明な人間の少女。規格外品扱いで城砦都市から追放同然で隊商に下げ渡された過去を持つ。

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