第20話 中宮定子とは

文字数 1,096文字

藤原 定子(ふじわら の さだこ、生977年-没1001年1月13日)は、第66代天皇・一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)である。989年、父方の祖父である摂政兼家の腰結いで着裳した姿から、歴史に登場する。990年、数え14歳の春、3歳年下の一条天皇に入内し、従四位下に叙せられ、、ついで女御となる。住まいである局は登華殿だった。皇后として「中宮」を号していた。父・藤原道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任し、道隆一族は栄華を謳歌する。
994年から1000年の間、中宮定子の死去まで彼女に仕えた女房・清少納言が、随筆『枕草子』を創作した。中宮の外面的・人格的を記いている。時日などに創作点は多いものの、夫・一条天皇と父藤原道隆が中宮定子以外の入内を許さず、定子の独壇場であった。995年、父である関白道隆が、また叔父・道兼が急死。弟道長と定子の兄・伊周が権力争いとなる。伊周の弟である隆家の従者が道長の随身を殺害した。996年、中宮定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家が花山院奉射事件起こした(長徳の変)。当時懐妊中の定子は内裏を退出し里第二条宮に還御した。二条宮では、左遷の命を受けても病気だと偽り出発しない兄・伊周と弟・隆家を中宮定子がかくまった。
ついに一条天皇より強制捜査の宣旨が下り、二条宮を検非違使が捜査し、伊周・隆家は捕らえらた。定子は自ら鋏を取り落飾した。中関白家は没落する。中宮定子の出家は995年のことで、同年夏に二条宮が全焼し、10月に母・貴子も没した、997年1月、定子は第一子・脩子内親王を出産。5月に伊周らの罪は赦され、一条天皇は誕生の第一皇女・脩子内親王と対面を望み、997年7月、再び定子を宮中に迎え入れた。中宮御所は清涼殿から遠い、内裏の外、大内裏の内だったが、一条天皇は近くに別殿準備。天皇は夜通い、夜明けに帰る。これは出家後の后の入内という異例中の異例。「天下不甘心」。999年12月、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。女御彰子が新たに皇后に冊立され「中宮」を号し、先に「中宮」を号していた皇后定子は「皇后宮」を号させられ、一帝二后となった。1000年の暮れ、定子は第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御し、陵墓は京都市東山区今熊野泉山町にある鳥辺野陵(とりべののみささぎ)とされている。崩御に臨んで定子が書き残した遺詠「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」は、『後拾遺和歌集』に収められ、小倉百人一首にも採られている。中宮定子は一条天皇を虜にするくらい魅力的なひと柄であったが、文才も極めて優れていた方である。
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