第26話 喫茶店で

文字数 4,036文字

 星月紅と再会した次の日、陽子は加奈と新宿に出かけた。新宿駅には多くの百貨店がひしめいており、土曜日にはそこで買い物をして喫茶店で休むのが最近の二人の習慣だった。この日は加奈が先月発売されたばかりのキーホルダーを買っただけで買い物は終わった。買い物のために新宿に来ているとはいえ、実際に二人が何かを買うのは珍しかった。
 お気に入りの喫茶店は地下にあった。ランプによる照明の薄暗い場所で、樫の机と椅子が並んでいる小さな店だった。二人の他には高校生はいなかった。客そのものが少なくて、二十ほどの席の三箇所だけが埋まっていた。食堂と厨房は硝子で仕切られているだけで、厨房のようすを外から見ることができた。
 ブリキのロボットが紅茶とケーキを持ってきた。陽子はモンブランを、加奈は木いちごのタルトを注文した。
「ひどいと思わない」と陽子は言った。「同志は課題のことを忘れていたのよ」
「でも、それでよかったと思うわよ」と加奈は紅茶を小さく揺らして、水色と香りを楽しみながら笑った。「まだ七福神の三人目までしか会っていないのでしょう。お咎めがあった可能性もあったわけだし」
「まあ、それもそうだけど」
「陽子、あなたが勝ち気なのはかまわないし、そういう陽子を私は好きよ。でも、相手は選んでほしいものね」と加奈は肩をすくめた。「誰にたいしても同じ態度をとることは本当は恥ずかしいことだと思うわ。それが許されるのは、こちらが権力を握っているときだけ。中央委員会の星月紅同志といえば、八惑星連邦の空母打撃群を指揮する太陽系の支配者でしょう。その気になればトリトンを丸ごと海王星に沈めることもできるくらいの力があることは、心の隅にとめておくべきだと思うわ」
「それは言い過ぎよ」と陽子は苦笑して紅茶に口をつけた。
「そうやって軽く考えて、地球にあった日本は滅んだという歴史を学んだわよね」と加奈は真剣な顔をして続けた。「学校で学ぶ歴史がすべて正しいとは思わないわ。でも、私たちが地球と自由に連絡が取れないことは真実よ。もっとも、かつて地球に日本があったということが嘘という可能性もあるけど」
「どうしたの、加奈?」と陽子は眉をひそめた。
「死んだ人は死んで終わりだけど、生きている人は死んでいる人のことを憶えているという話を私はしているの」
 陽子と加奈が小説の話をはじめたときだった。二人組の背が高い男が喫茶店に入ってきた。二人とも似た黒いトレンチコートを着ており、それはイギリス仕立ての注文服だったが、どこか彼らの自由な雰囲気とはちぐはぐだった。まるで気位の高い誰かに無理矢理に着せられているような感じがあった。
 とはいえ、似合っていないわけではなく、むしろ彼らの本質とはぴたりと一致しているようにも見えた。陽子は彼らを知っていた。男たちの正体に気がついて、陽子は恥ずかしくなり素早く顔を伏せた。
 しかし、男たちは陽子たちに気がついたようだった。二人に近づいてきた。
「お邪魔かな」と男の片割れである二条隆一が言った。
「お邪魔です」と陽子は澄まし顔で言った。「私、今は加奈とお話をしているの。でも、彼女に親切なら同席を許可します」
 陽子は加奈に二人を紹介した。
 二人が陽子の兄だと分かると、加奈は顔を赤くして彼女らしくなく慌てはじめた。身体を席の奥に寄せて、二人の兄弟が座れるための場所を確保した。実際には、横に三人合計六人が座れるほど座席は広かったので、彼女の行為は必要のない行為だった。どうやら、加奈は本当に慌ててしまったようだった。
 隆一が加奈のとなりに座り、翔次が陽子のとなりに座った。彼らは二人ともメニューを見ずに珈琲を注文した。
「それで、お二人は何をしていらしたの?」と陽子は訊ねた。
「ゴッホの『ひまわり』を観ていた」と隆一が笑った。「新宿にあるのは複製ではないと聞いたことがあったからね。一度、現物を観ておこうと思って」
「それは優雅なことで」と陽子は肩をすくめた。
 陽子は親しげに二人に口を利いたが、実はこれほど打ち解けて二人の兄と言葉を交わすのははじめてのことだった。電話や手紙のやりとりは増えたが、陽子は今でも二人にたいして緊張して畏まってしまうのだった。
 しかし、今は加奈がそばにいた。そして、加奈がそばにいるだけで陽子は心強く感じて気持ちが強くなったのである。正月に淑景館で会ったときは二人は巨人のように見えたが、今はありふれた男性でしかなかった。改めて見ると、隆一も翔次も勇也よりも背が低く、どちらかといえば爽平に似ていた。
「君が加奈さんだね」と隆一が笑った。「いつもありがとう。君のおかげで陽子は助けられていると聞いたよ」
「恐縮です」
 しかし、加奈は陽子とは逆に子鹿のように緊張していた。どうやら、彼女は特定の男性にたいしてとても緊張する種類の女の子であるようだった。
「そういえば」と陽子はずっと疑問に思っていたことを訊ねた。「兄様たちは海王星で何をしているの? ここに何かするべきことがあるとは思えないけど」
「さらりと日本を見下した発言をするね。日本人らしいけど」と隆一が笑った。「前も話したと思うけど、友人の仕事を手伝っているんだよ。いちおう、ぼくたちも技術者だから仮想世界の裏を見ることもできるしね」
「ご友人様、ですか?」と加奈は陽子と出会ったばかりのときのような、控えめで無垢無垢しい感じの声で質問した。
「布袋尊、名前は知っているだろう」
 隆一が出した名前を聞いて、陽子と加奈は顔を見あわせた。
「そういえば」と今度は翔次が口を開いた。「昨日、陽子が星月紅同志と会ったという話を聞いたけど、彼女はどうだった?」
 星月紅という名前を聞いて陽子は先ほどの愚痴の続きをはじめた。陽子が星月紅がリベラルを邪教のように扱ったという話をすると、それが笑いのつぼに入ったらしく二人とも苦しそうに腹を抱えて笑いだした。
「お二人は冥王星にいらしたという話を聞きましたけど」
 と加奈が訊ねた。三人の馬鹿馬鹿しい話を聞いているうちに、すっかり冷静になりいつもの自分を取り戻したようである。
「そうだね」と隆一が涙を拭きながら言った。「ただ、UCPはリベラルだけではなくて新自由主義も強い複雑な国だから。政府というのは存在しないのが理想で、基本的には権力による管理も援助も嫌う人たちが多い」
「でも、それでしたら福祉はどうなさっているのですか?」と加奈は首をかしげた。
「福祉に否定的なのがUCPだよ」と翔次は微笑んだ。「結局、福祉は失敗した人や努力を怠けた人を助けることだからね。そういう社会主義を許していたら真面目に生きている人たちに不公平だというのが、UCPという国なわけ。自助努力、それこそが彼らの美徳だ」
「でも、教育とかは政府が保証する必要があるでしょう」と陽子が質問した。「教育を受ける権利は基本的人権だもの」
「むしろ、政府こそ教育から排除されるべきだと考える」と翔次は肩をすくめた。「日本でも政府が教育を握ることで、軍事国家になり侵略をはじめた歴史があるからね。教育勅語やスターリン崇拝という言葉は陽子も聞いたことがあると思う。端的にいうと、国が教育を提供することは好ましいことではない」
 陽子は、あまり理解できていなかった。政府が教育に関わることが危険というのは非現実的な極論ではないだろうか?
「でも、それは宗教や全体主義が権力を握ったときでしょう」と陽子は言った。「国際共産党が指導しているときは話が別だと思うわ。生物学や情報科学のような、ただ仕事や生活に役に立つだけの知識ならまったく問題ないと思うけど。そういうことを保証しないのは、逆に基本的人権を侵害していると思うわ」
「それは一つの意見だよ」と翔次は眉をひそめた。「それは典型的なマルクス・レーニン主義者の発想でしかない。科学は中立ではない。キリスト教の神学や、仏教の教えが中立とはいえないのと同じだ」
 科学は中立ではない。キリスト教が中立ではないように。
 陽子も、それを間違いだとは思わなかった。多くの思想と同じように、科学が描く世界も人間が生み出したものだからだ。太陽系の外側にも宇宙はあるといわれているが、それを自分の足で確かめた人もいないのだ。それなのに、なぜ神を疑うことと同じように、科学が描く世界を疑うことが悪いのだろう。
 しかし、最近の陽子は科学批判に本心では納得できなくなってもいた。政府が関与しない教育というのが容易に想像できなかったし、そもそも政府による問題がある教育というのも想像することができなかった。政教分離が完全に成立している場合は、政府が教育に責任を持つのは当然なのではないだろうか?
 要するに、教育勅語もスターリン崇拝も歴史でしかなく、感覚としてはそれほど恐ろしいものには陽子には思えなかったのである。
「UCPには、まだ資本主義が残っていると聞きましたけど、本当でしょうか?」と加奈が隆一と翔次の二人に訊ねた。
「彼らの主張によるとね」と隆一が答えた。「とはいえ、二十一世紀の資本主義と十九世紀の資本主義が同じではないように、UCPの資本主義はマルクスの資本論で語られているような資本主義と同じではないよ」
「なら、どうして彼らは資本主義という言葉を使うのかしら?」と陽子は首をかしげた。
「本質が変わっていないからだろう」と隆一は言った。「結局、資本主義と共産主義の争いは法学部出身者と工学部出身者の権力闘争だからね。法律に詳しい人たちと科学に詳しい人たちどちらが国の指導者に相応しいのか。宇宙規模にまで膨らんでいるから忘れられがちだけど、そもそも狭い世界の争いだよ」
 あまりにも傲慢な発言に加奈は怯えたようだった。陽子も、さすがに怖くなり喫茶店のなかを見まわしてしまった。
 そのような二人を見て、隆一と翔次は悪戯な笑みを浮かべていた。自分たちがからかわれているのに気がついて、陽子は腹を立ててしまった。
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登場人物紹介

【二条陽子】淑景館の令嬢。勉強も運動も完璧で、中学時代は学園の女王として恐れられていた。高校一年生の時に謎の人工知能に軟禁されて、それが理由でアマテラスカードをはじめる。七福神の全員と出会うように星月紅から言われているが、彼女には何か秘密があるようだ。切り札は玉藻前。

【北原加奈】陽子の親友。幼い頃に淑景館に出入りしていたことで陽子と運命の出会いを果たす。陽子と同じ高校に進学してからも友情は続き、彼女から絶大な信頼を得ている。切り札はぬらりひょん。

【伊藤爽平】仮想世界アマテラスワールドで陽子が出会った少年。アマテラスカードに詳しくない陽子にいろいろなことを教えてくれる。天狗や火車、さまざまな妖怪を使いこなすが真の切り札は別にあるらしい。陽子のことが好き。

【大鳥勇也】財閥の御曹司で、陽子の幼馴染み。ユースランキング一位の実力者で、彼を慕う多くの取り巻きと行動している。伊藤爽平の好敵手だが、今のところ常に勇也が勝っているようだ。切り札は酒顚童子。

【ツララ】陽子の案内役の雪女。アマテラスワールドで生まれた原住民と呼ばれる人工知能で、陽子がアマテラスワールドで迷わないように助けてくれる。最高管理者である七福神に良い印象を持っていないようだが。

【Y・F】内裏にいる狐の面を着けた少女の人工知能。伊藤爽平と仲良しで、よく彼から遊んでもらっている。切り札は天照大神。

【伊藤舞子】爽平の妹。陽子に憧れてアマテラスカードをはじめたが、向いていないようだ。

【星月紅】八惑星連邦の指導者の一人で、太陽系の支配者。

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