第38話 布袋尊の燭陰Ⅰ
文字数 3,424文字
前日、加奈は興奮して眠れなかった。実は、かなり前から陽子のことについて加奈も想像を巡らせていたのだった。そのため、天児屋命の仮説は驚きはしなかったし、そもそも天皇の血筋が生きているというのは広く知られた伝説だった。
もっとも、あの後でも陽子は自分が皇族であるとは明言しなかった。もしかしたら彼女は本当に二条家の娘で、この宇宙のどこかにいる皇族を守っているのかもしれなかった。それは加奈のような庶民が知ることができないことだった。
陽子の関係者は観戦会場に集まっていた。伊藤爽平や舞子、そして大鳥勇也がいる。陽子の社交界の友人である徳川玲治やレイ・リーファも来ていた。二条家の二人の令息、二条隆一と翔次は着物姿で堂々と椅子に座っていた。
突然、会場がざわついた。
加奈が目を向けると、美しい女性が入場してきた。深紅のドレスを身にまとい、首から金色の十字架をさげていた。瞳も深紅に輝き、金色の髪が豊かに波打っていた。リーファはさっと立ちがあると、彼女の前で膝をついた。
「ご無沙汰しておりました、星月紅同志」とリーファが言った。
「久しぶりですね、リーファ同志」と女性は微笑んだ。「元気にしていましたか?」
星月紅だった。
彼女は加奈のとなりに座った。加奈は星月紅と会うのははじめてだった。どことなく陽子に似た雰囲気のある女性だと感じた。会うのははじめてだと思ったが、星月紅は加奈さんと会うのは二度目ですねと言った。
「子どもの姿で、仮面を着けていましたけど」と星月紅は微笑んだ。
加奈は思わず手を叩いた。「思いだしました。確か、新宿駅で」
星月紅は加奈の目を覗きこんだ。そして、すぐに視線を観戦会場の正面にある大型電子画面に向けた。そこにはまだ誰もいない対戦会場が映っていた。
「加奈さんは、ポストモダニズムという思想をご存じですか?」
突然、星月紅は言った。彼女の性格のことは陽子から何度も聞いていたので、加奈は驚かずに静かに答えた。
「言葉だけでしたら」
「一九四五年、スターリンがナチス・ドイツを打ち倒すと共産主義の運動が全世界に広がりはじめました。ドイツから中国、海を越えてキューバまで共産党とマルクス・レーニン主義の力は広がりました。イギリスやフランスなどの帝国主義国は植民地を手放し、国際連合が生まれて地球に新しい秩序が生まれました。日本も満州国と朝鮮半島を手放しましたね」
「それは習いました」と加奈は言った。
星月紅は微笑んだ。「マルクス主義が国際社会に広がるに従い、その思想もかつてないほど豊かに研究されはじめました。フランクフルト学派の本が書かれては読まれ、アルチュセールは精神分析をマルクス主義に組み込み、重層的決定という考えを軸にポスト構造主義という新しい思想を切り開きました。そして、多くの弟子を育て、そのなかにはポストモダニズムの創始者リオタールもいました」
「フロイトの精神分析は聞いたことがあります」と加奈は情報科学の授業を思いだした。
「同じ時期、中国では四人組によるプロレタリア文化大革命が行われていました」と星月紅は続けた。「儒教を中国から排除して、中国を技術立国、科学の国にするための運動でしたが混乱しました。多くの宗教家や科学者が犠牲になり、間違った技術が横行し、中国は貧しくなりマルクス主義と科学は信頼を失いました。多くの中国人が世界に逃げていきました。そして、彼らは日本にも来ました」
「その話ははじめて聞きました」と加奈は耳を澄ませた。
「逃げた中国人は共産主義を憎み屈辱で泣きました。中国は儒教の国、道教の国、仏教の国なのに朱子学を学ぶ者、風水を仕事にする者、敬虔な仏教徒が中国人ではないという扱いを受けることに彼らは我慢ができませんでした。彼らはヨーロッパに媚びる裏切り者により中国は破壊されたと感じました。そして、彼らは日本で希望を見出したのです。日本には天皇がいて儒教が残っていました」
加奈は話の流れが見えはじめて怖くなった。
「日本でも同じようなことが起きていました。戦後民主主義により神道や仏教の力は衰え科学者と技術者が権威を握りました。アジア太平洋戦争に荷担した人々は犯罪者のような扱いを受けていました。感情と利害の一致している二つの勢力は出会いました。そして、主導権を握ったのは中国人でした」
「その話は」
「逃げだした中国人たちは、落ちぶれた、しかし自分たちこそが正しい日本人なのだと信じる人々にポストモダニズムの考え方を吹きこみました。唯物論は悪の思想で、科学はすべてにおいて正しい訳ではないと彼らに教えました。日本人は自虐史観に冒されており誇りを取り戻すべきだと教えました。アメリカと戦争をしたのは間違いではなく、日本は本当は防衛のために正しいことをしたのだと優しく唆しました。日本はアジアを白人から守るために戦った。この世界に客観的で絶対に正しいことなどなく、ただその世界で正しことがあるだけなのだと教えました。日本書紀が漢文で書かれていることすら知らない愚かな日本人は飛びつきました。彼らが求めていた思想だったからです」
加奈は怖くなり震えた。惑星間革命以降、日本において中国人への悪口は禁忌に近い扱いを受けていたからだった。日本で中国と中国人の悪口を聞くことはなく、そのため彼女の話の内容は恐怖を伴った。
星月紅は言葉を切ると、再び話しはじめた。
「もちろん、中国共産党に嫌がらせをしたいと思っていただけの中国人に日本人を助ける気はありませんでした。彼らはただ、天皇と日本を盾にして安全なところから中国共産党を攻撃したいだけでした。おまけに科学者が嫌いなので日本の科学文明まで破壊できれば最高でした。一九九一年、ソビエト連邦が崩壊すると、彼らは自分たちの時代が来たのだと無垢で無知な日本人たちを扇動しました。彼らは日本の技術者を中国に追いやり、愚か者をだまして日本に神道と儒教の楽園を築いたのです」
「私は日本人なので」と加奈は声を僅かに震わせて言いました。「ずっと、中国人は革命思想を持つと信じていました」
「日本人に本質がないように、中国人にも普遍的な本質などありません」と言うと、星月紅は続けた。「革新が中国から広がったように保守も中国から広がりました。大きな物語から小さな物語へ、科学による発展から宗教による多様性へと中国人は日本人の意識を変えました。結果、日本は経済大国の地位を失いました。もしかしたら、反共主義たちは日本を破壊することにより中国共産党に媚びていたのかもしれません。もう過去のことなので分かりませんが、反共主義者たちは美しい日本を取り戻すと嘘をついて日本を破滅させました。結果として、日本は宗教が支配する宗教国家になりました」
「それから、どうなったのですか?」と加奈は訊ねた。
「自分たちが中国人に騙されていたことに気づいた者もいれば、最後まで中国人に騙されたまま自分たちを愛国者だと主張し続けた者もいたでしょう。しかし、どちらにしろ彼らは最後まで戦うしかありませんでした。儒教、神道、仏教という中華思想を守り抜くために保守は革命に抵抗しました。中国を憎み、共産主義を憎み、科学技術を憎み、中華思想を守るために天皇と日本を犠牲にしました。彼らを利用していた中国人は知らぬ顔で日本を去りましたが日本の保守は最後まで戦いました」
「悲しい話だと思います」と加奈はつぶやいた。
「悲しい話です。そして、この話は今でも続いています」と星月紅は言った。「二十世紀末に生まれた保守たちは無知で卑屈なだけでした。彼らは敗北感と劣等感を抱いて反共主義者の誘惑に屈しただけでした。科学者や文学者がちやほやされるのを見て、我慢ができないだけの幼稚な人たちでしかありませんでした。愛国を口にしながら、自分たちが称えられるためなら日本など滅びてもかまわないという利己的で視野の狭い子どもでした。しかし、次の世代は純粋でした。悲しいことに本当に純粋だったのです。保守は八〇年代に生まれました。そして、次の世代は自分たちが反共主義者がただ彼らの自尊心を満たすためだけに生みだされた捨て駒であることすら知らなかったのです」
「私は」と加奈は何かを言おうとしたが言葉が出なかった。
「修正主義者の罪は重いですね」と星月紅が微笑んだ。「さて、そろそろ二人の対戦がはじまりそうです」