第29話 ランク十

文字数 3,929文字

 陽子が浄土真宗のことを話すと、星月紅は笑った。興味が湧いたのか、彼女はウインドウ・パネルを開くと調べはじめた。「面壁九年」とつぶやくとお腹を抱えて笑い出して、これは布袋尊に教えて差し上げなくてはなりませんねと楽しげに紅茶を飲んだ。
 星月紅の洋館は長崎にあり、海の見える高い丘の上に建設されていた。庭からオランダ風の街並みと黒い風車が見えた。
 ふと疑問に思い、陽子は他力本願について星月紅に質問した。
「マルクス主義は個人の主体性を重んじて、歴史は神ではなく人間により創られると教えていると聞きました」と言うと、陽子はもう少しだけ付け加えた。「マルクス主義において、私たちは神を信じて停滞するのではなく、自らの意思で行動して社会を豊かにしなければならない。これは正しい解釈でしょうか?」
「間違いありません」と星月紅は微笑んだ。
「では、浄土真宗はマルクス・レーニン主義とは相容れない思想だと思います。これはどのように考えればよいのでしょうか?」
 若い女中がやってきた。星月紅からカップとソーサーを受けとると、銀の台に置いて静かに紅茶を淹れた。太陽光が緑の葉にあたり、きらきらと輝いていた。テーブルに小さな蟻が三匹ほど歩いていた。
「マルコによる福音書では神の国について語られています。陽子さんは憶えていますか?」
「ぶどう園の労働者の話ですね」と陽子は思いだした。
「イエス・キリストは神の国について一度しか語りませんでした。そこでは働いた時間に関係なく労働者たちは同じ賃金を受け取りました。一日分の賃金をもらった者には、まったく働かなかった労働者すら含まれていました。長く働いた労働者たちは不公平だと神に文句を言いました。神はどうしましたか?」
「労働者たちを叱りました」
「能力に応じて働き、必要に応じて受けとる。マルクス・レーニン主義は機会だけでなく結果の平等を目指します。共産社会というのは誰もが豊かな生活を享受できる社会です。だから、私たちは自らの党を共産党と呼ぶのです。そして、共産社会というのはマルクスとエンゲルスが考えた世界ではありません。これで答えになっているでしょうか?」
 この日は陽子にとって特別な日だった。
 これまでに陽子はランクを九まで上げて、現在はランク十への挑戦中だった。ランク十になるためにはランク十の選手を公式戦で一か月に五人以上倒す必要があった。そして、今日が最後の五戦目だった。
 相手はランキング六位の鹿島穂乃香で、対戦は十三時から開始される。この日、もし陽子が穂乃香に勝利できれば陽子もユースランカーの仲間入りである。
 対戦場所は大正時代だった。場所は東京で、陽子は指定された洋館に入った。鹿島は部屋で本を読みながら待っていた。京都の高校に通う橙色の着物姿の高校二年生で、美しい黒髪を腰まで伸ばしていた。
「今日はよろしくお願いします」と陽子は挨拶をした。
「こちらこそ」と穂乃香はデッキを取りだした。
 審判が現れた。背広を着た背の高い天狗で、いつものようにルールの確認とコイントスが行われた。陽子が先攻になり、彼女は落ち着いて九尾の狐と鋼鉄の玉藻前を召喚して相手の攻撃に備えた。
 穂乃香の切り札は『絡新婦(じよろうぐも)』だった。絡新婦は攻撃力一二五の上級妖怪で、相手妖怪一体を効果を無効にして攻撃宣言をできなくする効果を持っている。絡新婦の効果で、九尾の狐による効果の発動と攻撃宣言ができなくなった。陽子は自分で九尾の狐を破壊し、再び効果で蘇生させることで絡新婦の拘束を外した。
 対戦結果は三勝零敗で陽子の勝ちだった。
「ありがとうございました」と陽子は軽く頭をさげた。
「こちらこそ」と穂乃香は笑った「噂通り強いのですね。これほど強いのでしたら、もっと早くランク十に上がれたのでは」
「責任が生じるのが嫌だったのです」と陽子は静かに微笑んだ。「ランク十になると週に三試合は挑戦を受けなくてはなりませんから。それよりも、もっと友だちと街を歩くことに時間を使いたかったのです」
「そうなのですね」と穂乃香はおかしそうに笑った。
 陽子はウインドウ・パネルを開いて自分のランキングを確認した。ランキングは機械が強さを評価して自動的に決定される。陽子のランキングは九位だった。表を見ると、大鳥勇也はまたユースランキング一位になっていた。
 もし時間があるのであれば少しだけお茶をしませんか、と穂乃香から誘いがあった。陽子は彼女と喫茶店へ向かった。路面電車がゆっくりと走っていた。大正時代は日本列島の一部しか実装されておらず、住んでいる人も江戸時代よりは少なかった。
 しかし、明治維新を終えて西洋化が進んでいるため、町は江戸時代よりも華やかだった。洋服を着ている女性も歩いていた。大正ロマン。日本文化とヨーロッパ文化が融合しはじめた、そのもっともはじめの時代。
 二人は喫茶店に入り、奥の席に座った。
「そういえば、陽子さんは布袋尊と対戦したことはありますか?」と穂乃香が訊ねた。
「いえ、ありません」と陽子は答えた。
「ランキング一位になれば、布袋尊への挑戦権が得られます。もっとも、陽子さんの場合は四月の大会のほうが先になるかもしれませんが」
 アマテラスワールドでは年に三回の国際大会が行われていた。もっとも大きいのは八月に行われる夏の大会だったが、三月末から開催される春の大会も重要な催しだった。新しく高校生になる中学生たちが参加できる大会であり、予選は一週間かけて行われ、そこで三十二人が選ばれて彼らが本戦のトーナメントに出場できる。
 そして、四月の本戦では三十二人のランク十を含めた六十四人で優勝を競うのだった。
「中学生に高校生の強さを教える大会なのですね」と陽子は肩をすくめた。
「第一回大会では中学生が優勝したのは有名な話ですが」と穂乃香は笑った。「しかし、それでも木星地方のY・Fほどの成績を残した選手はいません。全年齢対象の世界大会で三大会連続優勝など驚異です」
 木星地方のY・Fという言葉を久しぶりに聞いて陽子は身構えた。しかし、すぐに心を落ちつかせて微笑を浮かべた。
「きっと、運営がカードの調整を間違えたのでしょう」
 陽子が言うと、穂乃香はおかしそうに笑った。「そうかもしれませんね。でも、調整に間違いがなくても彼女は強かったと思いますよ。私、動画を見たことがあるのです。身体は小さいのに貫禄は大人以上で」
 どうやら、彼女は伊藤爽平と親しいらしかった。
 Y・Fの動画も情報も、すべて彼から得たものだという。彼女の話によると、爽平は海王星に来るとY・Fの存在を知り夢中になったということだ。彼女の話によると、自分で新聞を印刷して教室でクラスメイトたちに配るほどの熱心ぶりだったという。
 なぜ京都府の穂乃香が知っているのかと訊ねたら、手紙のやり取りのなかで爽平が自分で誇らしげに話していたらしい。
「この宇宙のどこかにY・Fがいて」と言うと、穂乃香は吹きだした。「だから、ぼくは空を見上げるのが好きなのだと言っていました」
 穂乃香から見ればおもしろい男の子の話なのかもしれないが、その執着の対象になっているY・F本人である陽子はうんざりだった。後で迷惑な男の子である爽平に意地悪してやろうと思っていたが、笑い話として、穂乃香が次々と彼の恐ろしい逸話を暴露すると陽子は怖くなり勇気がなくなってきた。
 話は自然と人工知能のほうのY・Fへと移った。最近、彼女は驚くほど強くなりとても活躍しているらしい。
「先週対戦したのですけど、負けてしまいました」と穂乃香は楽しげに笑った。「去年とは別人のような強さです」
「確かに、彼女は力をつけていますね」と陽子は同意した。
「私、心配していたのですよ」と穂乃香は言った。「陽子さんは人工知能の拡張についてご存じですか?」
「話だけなら」
「Y・Fは拡張された人工知能、いわゆるエキスパートシステムです。役割としては、彼女は専門的な目的に利用されている意識のない機械と同じです。アマテラスカードで最強の選手になることを目標にY・Fは開発されたのです。彼女は生まれた理由がありました」と言うと、ここで穂乃香はため息をついた。「でも、あの子は弱かったでしょう。だから、少しかわいそうだと思っていました」
「その話ははじめて聞きました」と陽子は同情で胸が苦しくなった。
「もう、誰もが彼女のことを忘れていましたから」と穂乃香は続けた。「それで平安時代に放置されていたのです。ユースランカーの爽平君が、Y・Fの繋がりで彼女をかまってあげていたみたいですが」
「そういう事情だったのですね」
 陽子はY・Fとの出会いを思いだした。彼女は内裏の暗い清涼殿で、独りでカードを動かして遊んでいた。陽子は、どうして普通の高校生であるはずの爽平がY・Fと個人的に親しかったのか理解できた。
「とはいえ、まだまだY・Fは布袋尊には敵いません」と穂乃香は言った。
「布袋尊は強いのですね」と言うと、陽子は紅茶を飲んだ。
「彼の強さは異常です」と穂乃香は目を輝かせて言った。「もともと惑星間革命で活躍した人工知能らしいのですが、そのことも影響しているのかもしれません。彼からは鋭い判断力と強い闘志が感じられました。相手の狙いを読む力も正確にカードを動かす力も並外れています。Y・Fでは勝ち目はありません」
 陽子は自然と口を開いていた。
「もし、相手が木星地方のY・Fでしたら?」
「それはおもしろい仮定ですね」と穂乃香は声を立てて笑った。「私は彼女を動画で知っているので断言できますが、勝つのはY・Fです。布袋尊といえども、本物のY・Fに勝てるとはとても思えません」
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登場人物紹介

【二条陽子】淑景館の令嬢。勉強も運動も完璧で、中学時代は学園の女王として恐れられていた。高校一年生の時に謎の人工知能に軟禁されて、それが理由でアマテラスカードをはじめる。七福神の全員と出会うように星月紅から言われているが、彼女には何か秘密があるようだ。切り札は玉藻前。

【北原加奈】陽子の親友。幼い頃に淑景館に出入りしていたことで陽子と運命の出会いを果たす。陽子と同じ高校に進学してからも友情は続き、彼女から絶大な信頼を得ている。切り札はぬらりひょん。

【伊藤爽平】仮想世界アマテラスワールドで陽子が出会った少年。アマテラスカードに詳しくない陽子にいろいろなことを教えてくれる。天狗や火車、さまざまな妖怪を使いこなすが真の切り札は別にあるらしい。陽子のことが好き。

【大鳥勇也】財閥の御曹司で、陽子の幼馴染み。ユースランキング一位の実力者で、彼を慕う多くの取り巻きと行動している。伊藤爽平の好敵手だが、今のところ常に勇也が勝っているようだ。切り札は酒顚童子。

【ツララ】陽子の案内役の雪女。アマテラスワールドで生まれた原住民と呼ばれる人工知能で、陽子がアマテラスワールドで迷わないように助けてくれる。最高管理者である七福神に良い印象を持っていないようだが。

【Y・F】内裏にいる狐の面を着けた少女の人工知能。伊藤爽平と仲良しで、よく彼から遊んでもらっている。切り札は天照大神。

【伊藤舞子】爽平の妹。陽子に憧れてアマテラスカードをはじめたが、向いていないようだ。

【星月紅】八惑星連邦の指導者の一人で、太陽系の支配者。

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