第36話 決戦の前夜Ⅰ
文字数 3,343文字
「もしかして、あなたが稚日女尊?」と陽子は驚いてY・Fに訊ねた。
「そうですけど」とY・Fは眉をひそめた。「もしかして、陽子さんは私の名前を知らなかったのですか? それはひどいと思います」
Y・Fは恨みがましい顔をしたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「嘘です。からかっただけです」とY・Fは言った。「私は私がただY・Fとしてだけ知られていることを知っていますし、それを気に入ってもいます」
陽子は椅子に座った。「でも、もうあなたこそがY・Fよ」
「そして、陽子さんは陽子さんになりましたね」
Y・Fはにこりと笑った。優しげな笑顔だった。確かに、彼女は以前よりも自分に自信が生まれて表情も豊かになっていた。
陽子は、あの豪華客船で弁財天と対戦する前に、Y・Fにどうして狐の仮面を着けて素顔を隠しているのかを訊ねたことがあった。彼女が答えた理由は単純で、陽子に迷惑をかけたくなかったからだという。
Y・Fのアバターは中学時代の陽子が原型になっていた。似ているというよりは、年齢が異なる陽子そのもので、そのため自分の素顔が有名になることで陽子に迷惑がかかるとY・Fは遠慮していたらしいのだ。
星月紅に「それでは、そろそろお暇いたします」と挨拶をして、Y・Fは平安時代の内裏に帰っていった。
「ところで、陽子さんは資本主義がなぜ悪であるのか知っていますか?」
もちろん、陽子は知っていた。なぜなら、そもそも資本論は社会主義や共産主義ではなく資本主義について書かれた本だからだ。資本主義において国民は子どもたちを育てることではなく機械を生産することが善いとされる。人間を育てることよりも資本を育てることに夢中になり現実ではなく夢を語るようになる。
結果として、労働者は自分が優秀であるために育児を放棄する。今の自分を良く見せることだけを考えて、子どもたちの未来を考えなくなる。
しかし、陽子は星月紅の問い掛けの意図が分からなかった。
「原住民たちはそれぞれ自分たちの社会で暮らしています。そして、宇宙都市で暮らしている私たちは社会主義社会の住人ですね」と星月紅が言った。「さて、それではY・Fのような管理者たちはどこで暮らしているのでしょう?」
「それが資本主義なのですか?」と陽子は訊ねた。
「残念ですが、資本主義はUCPにしか存在しません。仮想世界の住人も立派な八惑星連邦の一員なのです」
陽子は眉をひそめた。
「逆なのですよ」と星月紅は微笑んだ。「資本主義で生きている人たちは自分たちの社会を社会主義だと必ず勘違いします。自分が想像している社会の姿と、現実の社会の目的が異なることを認めません。資本を保護する資本主義で暮らしながら、ここは人権が保障された社会主義だと感じるのです。だからこそ資本主義は頑強であり、同時に社会主義は生まれるのです。それでは今日の学びをはじめましょう」
星月紅と資本論を読み、紅茶の時間を楽しんでから陽子は加奈と合流した。そして、二人は日向の国に向かったのだった。
「でも、急にどうしたの?」と加奈は陽子に訊ねた。
「一度、日向に行ってみたかったの」と陽子は答えた。「ほら、日向には天照大神が生まれた池もあるでしょう」
「明日は布袋尊との対戦でしょう」と加奈はあきれていた。
「だからよ。緊張していて何も手につきそうにないの」
もちろん、いつもの陽子の嘘だった。最近、また友人が増えてきたため陽子は加奈と二人でいる時間がなくなり残念に思っていたのだ。それで一日だけでも二人だけで旅行をしてみたいと思ったのである。
日向の国は西海道の南にあった。大正時代になると宮崎県として一つにまとめられるが、まだ江戸時代なので多くの藩が置かれていた。高千穂神社や天岩戸神社を巡り、二人は有名なみそぎ池へと向かった。
アマテラスカードを楽しみながら、二人は江戸時代の多くの地方を訪ねていた。アイヌ民族が暮らしている蝦夷地から、薩摩藩に支配されていた琉球王国まで見てきた。日本にはさまざまな気候があり、さまざまな文化があった。
そして、地理的に当然なのだが、日向の国は南国の気候だった。日向といえば日本神話の舞台であり日本発祥の地でもあるはずなのだが、ヨーロッパ文明がエジプトとメソポタミアからはじまり、エジプト文化やイラク文化がヨーロッパ文化とは異なるように、日向の国の雰囲気は日本文化と異なっているのだった。
陽子と加奈はみそぎ池へと向かった。椰子の木が並んだ道を通り、二人は熱帯の植物に満ちた池に足を踏みいれた。
一面、睡蓮が広がっていた。
緑が池を覆っており、それは幻想的でこの世のものとは思えなかった。美しく、感動的で、解放感すらあった。陽子はこの景色を何度も絵で見たことがあった。まさに印象派、まさにクロード・モネの『睡蓮』の世界だった。
一八八三年、イギリスでカール・マルクスが亡くなるのと前後して、フランスでは印象派が花開いていた。リアリズムの時代は終わり、モネ、マネ、セザンヌやルノワールが芸術の世界を大きく変えはじめた。
彼らが描いた景色と同じものが日本にもあったことは陽子に感動を与えた。マルクス主義がはじまる時代の芸術。天照大神、月読尊、素戔嗚尊の三人が生まれた場所がモネの世界と似ていることに運命を感じた。
「こうしていると、陽子とはじめて会ったときのことを思いだすわ」
加奈は着物が汚れないように池に近づくと、そっと指を水に浸した。陽子も葦をかき分けながら池を覗きこんだ。
「憶えている? 淑景館をはじめて探検したときに私が緊張していたこと」と加奈は懐かしむように言った。「私、とんでもないところに来たと思ったのよ。ここから帰ることができるのかと不安だったわ」
「そのときは私も不安だったわよ」と陽子は言った。「そして、私のほうはもうどこにも帰ることはできない、もうこの海王星で暮らすしかないのだと思ったわ。だって、淑景館は私の家になるのだもの」
加奈も笑った。そして、陽子もつられて笑ったのだった。
「ねえ、加奈」と陽子は彼女に話しかけた。「もし私がいなくなったら怒る?」
加奈から笑顔が消えた。そして、心配そうな顔をした。陽子は慌てて手を振りそういうつもりではないのだと伝えた。
「どこかに行く予定があるわけではないの」と陽子は言った。「ただ、加奈の考えを聞いてみたかっただけ。不思議ね」
「私、まだあの日のことを怒っているから」
「あの日?」と陽子は首をかしげた。
「陽子がいなくなった日」と加奈は指で葦をなでた。「もちろん、あれはしかたがなかったことだと理解しているつもりよ。でも、もし陽子が本当に。ねえ、陽子、あなたには秘密があるのではなくて?」
「誰にでも秘密はあるわ」
「私には、どのようなことも話してほしい。隠し事はしないでほしい。本当は陽子にそのように言いたいのだけど」と言うと、加奈はためらいがちに言った。「一つだけ、もし陽子にそういう秘密があるのなら私には話さないでほしい」
陽子は眉をひそめた。
「答えなくていいわ。陽子は本当に二条家の娘なの?」
陽子は動きを止めた。そして、涙ぐむと加奈に向けて微笑んだ。
二人はとりとめのない話をしながら池の周りを歩いた。
出会ったときのこと、これまでの対戦のこと、将来のこと、そして陽子が木星地方のY・Fであることが分かって加奈としては逆に陽子のことが身近に感じられるようになったことなどを話して笑いあった。
気がつくと、空が暗くなっていた。
「そろそろ、現実世界に戻ろうかしら」と陽子は言った。
「そうね」と加奈は答えた。「今日は楽しかったわ」
そのときだった。二人は男がいることに気がついた。外套を着た背の高い男で、陽子たちをじっと見ていた。
陽子と加奈は男から離れようとしたが、男が声をかけた。
「待ってください。話を聞いてほしい」