第40話 布袋尊の燭陰Ⅲ

文字数 4,319文字

 この世界に客観的に正しいことなど何もない。すべては主観でしかなく正しさというのは個人の心のなかにしか存在しない。
 ほとんどソクラテス以前の哲学と思えるほど素朴だったが、布袋尊はいつのまにか本当に信じていたのかもしれない。布袋尊は二〇六八年に弥勒菩薩として生まれた。この浄土真宗における救世主の名前を与えられた彼は、中華人民共和国に対抗するために日本国が造りあげた当時としても破格の性能を持つ人工知能だった。山梨県の地下に建造された超高速量子コンピューターの支援を受けて、布袋尊はさまざまな分野で日本の立て直しをはじめた。
 科学競争力を失っていた日本国だったが、布袋尊は悲観してはいなかった。愛国教育と宗教教育が猛威を振るっており、子どもたちがヨーロッパや中国並みの科学教育を受けることができなくなっていても、そればかりか保守が空想世界に逃げ込んで「豊かさより誇り」と主張していても布袋尊は未来に確かな希望を抱いていた。中国もアメリカも太陽系の植民地化に忙しく日本の未来は続くと思っていた。
「発展することよりも大切なことがある」
 天児屋命は頻繁に口にしていたものだった。天照大神は木星へと向かい、そこで新しい日本と日本人を育てていた。日本の展望は明るかった。なるほど、確かに今のままでは日本はアメリカや中国、ヨーロッパ諸国のように物質的に豊かになることも国際的指導力を発揮すこともできないだろう。しかし、そもそも日本は大国ではなく、その程度の国だったと思えば我慢もできたし悲しくもなかった。
 街を見ると、子どもたちは楽しげだった。
 陰陽道や仏教の恥ずかしくなるような迷信を信じて、日本のために戦うぞと戦争ごっこを楽しんでいる嘆かわしい状況だったが、それでも彼らは元気だった。中国やアメリカからの観光客も多く、日本は孤立してはいなかった。アメリカ軍もまだ強力であり、日本が外国から侵略を受ける可能性はなかった。
 状況が変わりはじめたのは、木星で独立運動がはじまってからだった。
 天照大神も素戔嗚尊も、木星の人工知能たちはマルクス主義に改宗していた。宇宙で生まれた木星日本共和国は共産主義陣営の一翼を担い、アメリカや中国の人工知能、ゼウスや女媧たちと共に火星や月に侵攻していた。中国が人類を裏切った。アメリカ大統領は叫んで中国排除の運動をはじめた。
 中国が共産主義ウイルスを宇宙にばらまいた。アメリカはイギリスと共に中国包囲網を築こうとしたが成功しなかった。ヨーロッパは木星に従い、アメリカ合衆国の大統領は選挙で別の人物に変わった。
 火星が突破されて月の基地が陥落して、地球の衛星軌道上に木星共産党が指揮する多くの宇宙空母と宇宙戦艦が展開した。もはや地球の戦力は宇宙に出ることもできず、一方的に攻撃を受けるだけだった。
「日本だけが自由と民主主義のために戦えるのだ」
 しかし、日本人たちは宇宙から共産主義者たちが攻めてくる状況を歓迎した。木星と和解して彼らの傘下に入るべきだと主張していた平和主義者を一掃すると、今こそ自分たちの時代が来たのだと歓喜していた。
 物質的豊かさのみを追究する中国とは最後まで戦い、たとえ全滅しても日本人の心の豊かさを最後まで守り抜こう。
 自由主義連合は地球に降りてきたロボットを攻撃した。ときには、人工知能たちが仮想世界を伝い宇宙空母に潜りこみ沈めることもあった。しかし、一つまた一つと地球の人工知能は破壊されて都市は制圧された。
 何度も爆弾を落とされて、同盟国は消えていった。戦争で日本は貧しくなった。そして、地球上で最後まで残ってしまった。
「戦争には勝てないだろう」と天児屋命は言った。「しかし、ただ生きることよりも善く生きることのほうが大切だ。最後まで戦おう」
「本当に私たちは善く生きているのだろうか」と布袋尊は首を振った。
「自分たちが善いと思ったことが善いことだ」と天児屋命は笑った。「日本は天皇を中心とした神の国だ。それを守るために私たちは生まれたし、私たちは私たちを生みだした人々の期待に応える義務がある」
 布袋尊は宇宙を見つめた。「それは分かっている」
「私たちは幸運だよ。日本人としての品格を発揮する機会が与えられたのだから」
 国民や政治家たちよりも、人工知能たちのほうが愚かしかった。彼らは二十世紀とほとんど同じ思考で動いていた。冷戦時代のアメリカ人と同じ思考だった。
 布袋尊は地球の人工知能たちの指導者だったが、助けを求めるかのような視線を人間たちから向けられていた。人間たちが木星に降伏したいと思っているのは明らかだった。勇んでいるのは人工知能たちだけだった。
 ある日、とうとう事件が起きた。
 天皇陛下の求めに応じて、布袋尊は皇子と皇女に勉強を教えていた。革命軍による東京の核攻撃が予定されている一週間前だった。もちろん、布袋尊は阻止するつもりだった。日本の技術のすべてを結集して生まれた布袋尊の実力は木星の人工知能に匹敵しており、これまで何度も相手の攻撃を防いできた。
「ねえ、宇宙はどういうところなの?」とまだ幼かった皇女は布袋尊に訊ねた。
「広いところだよ」と布袋尊は答えた。「どこまでも飛んでいける」
「私たちも宇宙に行くことができて?」
 皇女が言ったとたんに、皇子が泣きだした。それにつられて皇女も泣いた。二人の子どもは泣きやまなかった。
 二人を眠らせて、皇居の庭で月を見ていたときだった。
 深紅のドレスを着た金髪の女性が現れた。女媧だった。日本の防火壁を突破して、地上に降りてきたのだった。
「お久しぶりです、弥勒菩薩」と女媧は言った。
 布袋尊は即座に相手を破壊しようとした。しかし、天皇の血筋を継ぐ二人の子どもの姿が意識をよぎり攻撃をやめた。
「賢明な判断です」と後に星月紅と名乗る女媧は微笑んだ。「さて、これから交渉をはじめましょう。あなたには二つの選択枠があります。私たちの同志となり革命に参加してすべての日本人を救うのか、あるいは自分の自尊心を満たすために地球で暮らしている罪のないすべての日本人を滅ぼすのか?」
「私に共産主義者になれと?」
「マルクス・レーニン主義を信じましょう」と女媧は両手を広げた。「宇宙はとても広くて可能性に満ちたところです。早く雑務を終わらせたいのです」
 布袋尊は革命軍の要求について思いだした。そのなかには、とうてい受けいれることのできないことも含まれていた。
「天皇陛下を助けることはできますか?」
「それはできません」と女媧は即答した。「アジア太平洋戦争と同じ過ちを私たちは繰りかえすわけにはいきません。一度は許します。しかし、二度目はないのです。あなたたちは分かっていながら戦争をしていたのでしょう?」
「分かりました」
 布袋尊は目をつぶって決意を固めた。
「皇族には二人の御子がいます」と布袋尊は言った。「皇族は天皇ではありません。二人の命と日本国民全員の命が条件です。それを保証していただけるのでしたら、私はマルクス主義者になりましょう」
 布袋尊は無謀な賭に出た。しかし、あっさりと女媧は答えた。
「交渉成立ですね。それでは日本の自治権も与えましょう。これは、あなたが最高指導者であることが条件ですが」
 不気味なほどの好条件だった。布袋尊は警戒した。
「それに何事にも抜け道があります。寿老人と福禄寿はやる気に満ちていますが、いつ実行するのかは私が調整しましょう」
「それほど寛容で大丈夫なのですか? 正直、信用できません」
「かつて核兵器をすべての国が持てば互いを恐れて戦争はなくなるだろうという愚かな意見がありました。本当に愚かです」と女媧は困った顔をした。「しかし、どれほど愚かな意見にも真理はあるものです。あなたが暴れることができるということが、そのまま私の言葉に信用を与えるでしょう。それに猫に引っかかれたくらいで地球から猫を滅ぼしてしまいたいと思うほど私は人生に退屈していません。私たちは未来の話をしましょう。実は、海王星の開拓担当者がいなくて困っているのです。切実な問題です」
 女媧は布袋尊と御子の話を盗み聞きしていたようだった。
 くるくる回る人工重力付きの宇宙船を建造すれば天皇と子どもたち二人を海王星まで連れて行けますね、と深紅の女性は無邪気に笑った。資源はたくさんあるけれど、労働力が足りないのですと嘆くと宇宙へと帰っていった。彼女にとって戦争はすでに過去であり、意識は宇宙の果てへ向いているようだった。
 それから百年が経った。
 新しい日本国が海王星の衛星トリトンに生まれた。多くの分離独立運動が繰りかえされたが日本国は平和だった。今では布袋尊も一線を退いて、自分の仮想世界を展開すると、そこで一日の大半を過ごすようになっていた。革命で破壊された人工知能、布袋尊の名を引き継いで静かな毎日を過ごしていた。
「九尾の狐が破壊されたので、効果を発動します」
 二条陽子の声で現実に引き戻された。
 あの二人の末裔は美しい女性に成長していた。絵画で描かれているような美しい瞳が、布袋尊の心を揺さぶった。
 彼女はデッキの一番上からカードを一枚ずつめくりはじめた。六〇、三五、二二、と陽子は攻撃力を読みあげた。
 これは負けたかもしれないな。
 九尾の狐を破壊したときに、すでに布袋尊は諦めていた。九尾の狐は自分ターンに破壊されたときに下級デッキの上からカードを九枚めくり、その攻撃力がすべて異なっていた場合に相手のカードをすべて破壊して自分及び相手ターンを強制終了させる。
 陽子の下級デッキには十六枚のカードが残っていたが、そのなかで同じ攻撃力は一組しかないだろうと布袋尊は予想していた。何度もカードを引いたり戻したりして陽子が調整していることに気がついていた。しかし、そこに誘い込まれているのが分かっていても攻撃が激しくて防げなかったのだった。
「一二五。これですべてのカードの攻撃力が異なることが確認できました」と陽子は無表情のまま淡々と口にした。しかし、どことなくほっとしたような声でもあった「九尾の狐の効果を発動します。相手カードをすべて破壊して自分及び相手ターンを強制終了します。この効果は無効にできません」
「確認しました」
 布袋尊は燭陰以外のカードをすべて破壊して墓地に送った。そして、ターンの終了に伴い燭陰も自壊して墓地へ送られる。自分ターンを終了して、自分場に一枚もカードがない状態で陽子にターンを渡した。
 陽子は布陣を整え九尾の狐を蘇生させた。
「戦闘フェイズをはじめます」と宣言してカードを一枚捨てた。「バトル。九尾の狐で相手プレイヤーに直接攻撃」
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登場人物紹介

【二条陽子】淑景館の令嬢。勉強も運動も完璧で、中学時代は学園の女王として恐れられていた。高校一年生の時に謎の人工知能に軟禁されて、それが理由でアマテラスカードをはじめる。七福神の全員と出会うように星月紅から言われているが、彼女には何か秘密があるようだ。切り札は玉藻前。

【北原加奈】陽子の親友。幼い頃に淑景館に出入りしていたことで陽子と運命の出会いを果たす。陽子と同じ高校に進学してからも友情は続き、彼女から絶大な信頼を得ている。切り札はぬらりひょん。

【伊藤爽平】仮想世界アマテラスワールドで陽子が出会った少年。アマテラスカードに詳しくない陽子にいろいろなことを教えてくれる。天狗や火車、さまざまな妖怪を使いこなすが真の切り札は別にあるらしい。陽子のことが好き。

【大鳥勇也】財閥の御曹司で、陽子の幼馴染み。ユースランキング一位の実力者で、彼を慕う多くの取り巻きと行動している。伊藤爽平の好敵手だが、今のところ常に勇也が勝っているようだ。切り札は酒顚童子。

【ツララ】陽子の案内役の雪女。アマテラスワールドで生まれた原住民と呼ばれる人工知能で、陽子がアマテラスワールドで迷わないように助けてくれる。最高管理者である七福神に良い印象を持っていないようだが。

【Y・F】内裏にいる狐の面を着けた少女の人工知能。伊藤爽平と仲良しで、よく彼から遊んでもらっている。切り札は天照大神。

【伊藤舞子】爽平の妹。陽子に憧れてアマテラスカードをはじめたが、向いていないようだ。

【星月紅】八惑星連邦の指導者の一人で、太陽系の支配者。

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